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火樹銀花より惹きつけて

作者: 宇治丸

 ——ありったけの言葉を尽くして、心満ちるまで抱きしめて。

    花より鳥より風より月より、この世のなにより愛してね。


 

 手を伸ばすと腕が溶けてしまいそうな澄んだ水色の空、掴んでしまえそうなほど輪郭がはっきりした白い雲。木々は互いに身を寄せ合って、森という一塊に姿を変えている。

 そして、空気を歪ませるほどの蝉の声。

 この村は、うんざりするほどに夏だった。


 私は家出中だ。

 お母さんと進路のことで大喧嘩になって、父方のおばあちゃんの家に逃げてきた。荷物は着替えとお金と夏休みの宿題と申し訳程度の問題集が一冊。中学三年生の夏休みの過ごし方としては最悪もいいところだとわかっているけれど、行きたくもない高校のために勉強なんてしたくなかった。おばあちゃんの家は田舎を通り越して山の中にある。町から離れた時間の流れが遅い場所でのんびりしていたかった。


 でも、田舎は私に厳しい。


「あっつぅ……」


 殺人的な暑さなのに居間にしかエアコンが付いていない。しかも居間は縁側に面しているからおばあちゃんが移動のために窓を開けっぱなしにしていて、せっかくの冷風がすぐに散ってしまう。私はクーラーの風が一番当たる場所に座って麦茶を飲んでいた。


「芦見のばあちゃん! 野菜持ってきたぞ!」


 不意に縁側から高い声が飛んできて、私は背筋を伸ばした。そっと見てみると、かごいっぱいの野菜を持った同い年くらいの男子がいた。降り注ぐ日差しにも負けないような満面の笑みを浮かべている。声を聞いたおばあちゃんが台所からやってきて相手を始めた。


「おやまあ。こんなにいっぱい貰っていいのかい?」

「うちの畑はみんなのだからな! あとでもうちょっと持ってくるから、何がいい?」

「十分だよ。陽介くんはほんとにいい子だねえ」


 おばあちゃんはサイダーを持ってきてあげると言って台所に戻った。

 私はというと、部屋の隅でふくれていた。陽介と呼ばれたその子が本当の孫みたいだったからだ。顔も整ってるし夏の擬人化みたいに明るい。比べて私は野菜を持ってきてあげることも、あんな風に笑うことも出来ない。


「お前、町から来たのか?」

「ひっ!?」


 いつの間にか目の前に笑顔が迫っていて、私はコップを落としかけた。全身の毛がぞわりとして、クーラーの冷風が身に沁みた。


「なあなあ、町から来たのか? ここの住民じゃないだろ」

「う、うん。私はもっと遠くから来たの」

「そっか。俺陽介! お前は? 芦見のばあちゃんの孫?」

「そう。芦見日奈」

「ヒナ! よろしく!」


 陽介は名前の通り太陽のような笑顔で握手を求めてきたが、私は至近距離に初対面の男がいるという状況が怖くて、顔の前で手を振ることしか出来なかった。


「あの、陽介くん、ちょっと近い……」

「陽介でいいぞ、ヒナ!」

「ち、近い!」


 私の名前を呼びながらさらに距離を詰めてこようとする。堪えきれずに肘で押すと、ようやく少し離れてくれた。でも陽介は笑顔を絶やさなかった。それどころか笑顔の光度が上がっているような気がする。


「そうだ、これから一緒に野菜を収穫しないか?」

「野菜……」

「うん。この近くの畑にいっぱい野菜が実ってるんだ」


 正直干からびそうな暑さの中で野菜の収穫なんてゴメンだったけど、何もしないのもおばあちゃんに申し訳なく感じて、私はのろのろ立ち上がった。


「お、行く気になったか?」

「でも私収穫とかしたことなくてほんとになんにも出来なくて、それで」

「いいっていいって、俺が教えるよ」


 陽介は得意げな顔で肩にかけた水筒を指した。


「まず大量の水と帽子は絶対だな!」

「陽介は帽子被ってないのに?」

「俺は慣れてるからつい……」


 視線を逸らして照れ笑いする様子が可愛くてつい見惚れてしまった。首をぶんぶん振っておばあちゃんの麦わら帽子を借りに行く。


「おばあちゃん、陽介と畑に行くことになったから麦わら帽子貸してくれない? あとペットボトルの水」

「陽介くんともう仲良くなったのかい。ヒナはいい子だからねえ」


 おばあちゃんは機嫌よく笑うと麦わら帽子と麦茶のたっぷり入った水筒を渡してくれた。


「じゃ、行くか」

「うん」


 家を出ると直射日光が肌に突き刺さってきて痛いくらいだったけど、陽介はなんでもなさそうにしているから私も気にならないふりをした。歩き出そうとすると手が差し出されて、私は首をかしげた。


「なに?」

「いや、手」

「手が?」

「つないでいかないのか?」

「つなぐわけないでしょ!」


 なんだコイツ、歴戦のナンパ師か?

 私が手を振り払うと、不思議そうに引っ込めて隣に並んできた。


「悪い。いやだったか?」

「いやっていうか、今会ったばっかりだし」

「明日ならいいのか?」

「そういう問題じゃないの!」


 ぎゃあぎゃあ言い合っているうちに畑に着いた。私は小学校の畑のようなものを想像していたけど、予想よりもはるかに大きくて素直にびっくりした。


「これ全部陽介の畑?」

「みんなのだよ。俺がよく様子を見てるってだけ」


 陽介は夏野菜が並ぶ畝に入っていくと、手慣れた様子でトマトをもぎ始めた。私は慌てて着いて行ったけれど手が出せない。


「わ、私はどうしたらいいかな」

「んー、ヒナはあっちのピーマン頼む!」


 そう言われてピーマンと向き合ってみたのはいいものの、どうやったら実を上手く取れるんだろう。とりあえず茎のようなところを掴んでみたけれど、これで合っているか全然わからない。そのとき、後ろから手がふわっと包まれた。柔らかい動作で手がピーマンから外される。


「言い忘れてたな、ピーマンの収穫にはハサミがいるんだ」


 ハサミを使って茎を切ると、あっけなく実が手に転がり落ちた。隣を見ると、かごいっぱいにトマトを持った陽介が笑っている。


「初収穫おめでとう。この調子でどんどんいくぞー!」


 汗を拭おうともせずに喜んでくれる姿があまりにも「夏」で、ちょっと笑ってしまった。



 ありったけ夏野菜を収穫したあとは水をやったり、他の家に届けに行ったりしてあっという間に日が暮れた。私の家に送ってもらったところで陽介とはお別れ——と思いきや、


「今日はこの野菜でバーベキューをするんだ! ヒナも行こう!」


 手を引っ張られて十五分ほど走り、村役場というところに連れていかれた。役場の前の広場に何台もバーベキューコンロが置かれて、大量の肉や野菜が焼かれている。香ばしい匂いが胃袋に直撃して、私のお腹が轟音を響かせる。集まっていた村人たちや小さな子供が一斉にこっちを見た。じわじわ顔の温度が上がる。それを押しとどめるように声が上がった。


「バーベキューなんて久しぶりで俺のお腹が喜んでるなー! 佐藤のじいちゃん、肉取ってー! 俺とヒナの分!」


 屈託のない言葉と一緒に駆けだしていった陽介は、一瞬振り向くとほんのりと口角を上げた。コンロの炎で顔の陰影がはっきりしていたせいかなのか、昼間のまぶしさを完全に隠し、色気すら感じる微笑だった。

 私が立ち尽くしたままでいると、陽介はちょっと首をかしげた。


「ん、肉苦手か?」

「食べるよ! ちょっとぼーっとしてただけ」


 最初に感じた小さな嫉妬はとっくに尊敬や好感に変わっていて、やっぱりここに来てよかった、なんて調子のいいことを思った。


 自分で収穫した野菜は、これまでで一番おいしかった。



「ヒナー! 起きてるかー!?」


 家出生活二日目は、にわとりのような陽介の声で始まった。陽介は玄関にいるらしい。昨日のように縁側から来られていたら寝起きを見られていたかもしれない。私は自分の部屋に引っ込んで着替え、洗顔を済ませて戸を引いた。


「おはよう、朝から元気だね」

「もう七時だぞ?」


 どうやら都会と田舎では、時間の流れが違うらしい。


「それで、今日は何するの?」


 私が期待を込めてたずねると、陽介は苦笑した。


「実はなんにも考えてないんだ……もしかしたらヒナが帰ってるかもしれないと思うと、いてもたってもいられなくなってしまって」

「へ、へえ……」


 まっすぐすぎる言葉に動揺して、微妙な返事しか出来なかった。

 もしかして陽介は私が好きなのかな。


「や、そんな訳ないか……」


 恥ずかしい妄想を追い払って、朝一番から出来ることを考えた。


「……朝ごはん、一緒に食べる?」


 陽介の目が輝いた。


「いいのか!?」

「うん、おばあちゃんに聞いてくる」


 おばあちゃんに話すと、まるで自分ごとのように喜んでくれた。家出してきた私を心配してくれていたんだなと思うと、胸の奥がいやな感じの音を立てた。

 それから三人で朝ごはんの用意をした。具をたっぷり詰めたおにぎりに卵焼きに夏野菜のサラダにきゅうりの一本漬け。作るのが楽しすぎて、どれも朝ごはんとは思えない量になってしまった。


 「いただきます」


 三人分の声が響く。

 大きなおにぎりをかじると、一口目からすっぱさを感じた。


「すっっぱ! なにこれぇ!」

「小梅ばあちゃんの秘伝の梅干し。すっげえすっぱいだろ~」


 口が痺れる暴力的な酸味。私が怯えてちょっとずつ食べている間に、陽介はすごい勢いで平らげていく。おばあちゃんはゆっくりゆっくり食べている。


「ごちそうさま。わたしは庭に戻るから、あとは二人でどうぞ」


 さっさと食べ終わったおばあちゃんがいなくなると、私はどうしたらいいのかわからなかった。陽介に話しかけたいけど、こんなに美味しそうにごはんを食べているのを邪魔するのは気が引ける。


「ん、どうした?」


 視線に気づいた陽介がこっちを見てくれた。


「え、えっとね」

「うん」

「その……なんで私に、かまってくれるの」


 言い終わってから、なんでこんなに直球なんだとか自意識過剰はなはだしいとかもっと明るく言えないのかとひとり脳内反省会が始まってしまった。恥ずかしくてうつむく私の目に、ほころぶ口元が映った。


「俺さ、ずっとひとりだったんだよ」

「え?」


 楽しそうな笑顔とは裏腹に、感情を欠いた声だった。


「村のじいちゃんばあちゃんはみんないい人だし、子供たちもいる。けど、俺みたいな年のやつは俺だけでさ。なんか、対等じゃなかったんだよな」


「でも、ヒナが来てくれた」


 まるい目と視線が交わった。


「ヒナは俺と楽しそうに遊んでくれて、なんでもない冗談とかがすげー楽しくて。それで、つい来ちまった」


 陽介が申し訳なさそうに目を伏せて、それでも私を見ながら続けた。


「今日も明日も、ヒナが帰るまでずっと遊んでいたいんだ。ヒナは俺の……友達だから」


 ともだち。

 それは私にとって、額縁にしまわれた完璧な絵画のような存在だった。でも陽介は私を友達と呼んでくれる。


 うれしかった。


「……私、しばらく帰らない。この夏はここにいるって決めた」


 ちゃぶ台に身を乗り出すようにして陽介と顔を近づける。


「今日も、明日も、明後日も。一緒に遊ぼうよ」



 それから私と陽介は、本当に毎日遊んだ。


 ある日は一日中森を歩き回った。

 猛威を振るい続ける太陽も、森の中では照明に過ぎない。快い涼しさが私たちをとりまいている。ときおり肌を風が撫でていくのがとても心地いい。

 でも私の体は温度にかかわらず震えたままだった。出来ることなら陽介にすがりついていたいくらいだ。

 真横の木が風とは違う揺れ方をした。


「ヒッ」

「大丈夫かあ?」

「よ、陽介ぇ……あそこ虫いる……」

「虫なんてどこにでもいるって!」


 陽介の言う通り、お互いの声も聞こえなくなるほどの蝉の鳴き声が充満している。目の前をトンボが横切って、私は何度目かわからない悲鳴を上げた。


「これ、どこに向かってるの……?」

「考えてない!」

「えっ」


 全身から力が抜けた。自立を諦めた体が大きく揺れて、踏み出した足が滑った。

 あ、転ぶ、


「危ない!」


 腕を強く引かれて体勢を立て直した。

 私の腕を掴んだ陽介は、その手をするりと下ろして私の手と絡ませた。お互いの距離がぐっと近づく。


「陽介……?」

 

 陽介は何も言わない。私が遠ざかろうとするときだけ、困ったように笑って距離を詰める。

 汗が交わり肌が触れ合い、熱いお湯に浸かり続けたみたいに頭の内側がほてった。

 陽介は上気した頬を冷ますように息を吐くと、やっと口を開いた。


「……ヒナは慣れなくてイヤかもしれないけど、ここは俺たちにとって本当に大切な場所なんだ。どんな植物にもそれぞれの美しさがあって、川の水は澄みきっていて、どこからだって命の気配がする。俺たちをいつだって守ってくれる、家以上に過ごす場所なんだ」


 陽介の顔は見たこともないほど真剣で、私が息をするのもはばかられた。


「それに! ここには村の子供みんなで秘密基地を作ってるんだ。ヒナも混ざってほしい!」


 ころりと表情を変えた陽太は、一歩先で私をうかがうように見つめた。

 私はそびえたつ木々を、足元で葉を茂らせる葉を、名前も知らない鮮やかな花を見た。

 力いっぱい叫ぶ蝉の声を、その奥で響き渡る鳥の声を聞いた。

 体温を伝え合う手から、小さな鼓動を感じた。


「……もうちょっと、歩いてみる」


 目の前をトンボが横切った。悲鳴は上げなかった。

——噛み殺したともいえるけど。



 ある日は、私の身長の二倍以上ある竹をいくつもかついだ陽介と、野菜の詰まったかごを運ぶ子供たちがやってきた。

 

「これ、もしかして流しそうめん?」


 私がたずねると、陽介は、


「だぁいせーかい!」


 とおどけて、ポケットからロープを取り出した。

 声を聞きつけてやってきたおばあちゃんが、陽介を見るなりにやりと笑った。


「いらっしゃい。例のアレ、ちゃんと用意してあるよ」


 そう言って台車まで使って桐箱を運んできた。一体何キロあるのか想像もつかない。

 陽介は平然とした顔で台車を外に出すと、いたずらっぽく笑った。


「びっくりした?」


 そこで私は、自分が何も知らされていなかったことに気付いた。


「い、言ってよ!」


 そんなあまりにも可愛げのない言葉だったけど、陽介は意に介せず竹を押し付けてきた。


「言ったらサプライズにならないだろー? 俺が芦見のばあちゃんと特製そうめん作ってやるから、ヒナはあいつらと筧を作ってくれ」

「私全然わかんないけど!?」

「あいつらが教えてくれるって。拓馬、良太、花、そうだよなー!?」


 陽介が声を張り上げると、「はーい!」と明るい声が返ってきた。

 私は流されるままに子供たちと筧を作った。拓馬、良太、花という三人の子供たちはみんな優しくて、何も知らない私に土台の作り方、ロープの結び方を教えてくれた。

 それからは天盛りどころじゃない量のそうめんを流して流して食べに食べた。おばあちゃんが手作りした特製のつゆがすごく美味しくて、そうめんがいくらでも入っていく。食べ飽きると陽介が調味料や野菜を加えて何種類ものアレンジを生み出してくれた。

 お腹いっぱいになると、居間で折り紙をした。陽介は折り紙が下手で、花に教えてもらっていた。一番折り紙が得意なのは良太で、小指の先に乗るほどの大きさの紙で鶴を折っていた。私は拓馬と二人で全員分のコマを折った。

 日が暮れるとまた流しそうめんをした。村中の子供たちが集まってきていたので、あれだけあったそうめんはなくなってしまった。


「ヒナおねえちゃん」


 花がやってきて、私の耳に顔を近づけた。


「明日はひみつきち行こうね」


 ゆびきりなんて、前はいつしたっけ。



 ある日は川に行った。

 枝に吊り下げられた紐を目印に歩いていく。始めは陽太がいないと遭難まっしぐらだったけど、今はもう平気だ。秘密基地に到着すると、扉を決まったリズムでノックする。


「だれですか?」

「ヒナでーす」

「あいことばは?」

「流しそうめん唐辛子特盛」

「いらっしゃーい!」


 中に入ると、不思議と涼しさを感じる。秘密基地と呼んではいるけれど、木造二階建て屋根裏付き、なんとブランコもある。ふもとの村に住んでいる、良太のいとこが手伝ってくれたらしい。一階には三人の子供がいた。


「陽介は?」

「川に行ってるよ。ヒナちゃんも行ってきたら?」

「行ったことないけど大丈夫かな?」

「だいじょうぶ! メンバーには森の地図とひみつの目印があるからね。水色のひもを追いかけるんだよ」

「ありがとう」


 言われた通りに紐を追いかけていくと、突然視界が開けた。


「わあ……」


 確かに川があった。底に沈む小石の模様を見られるくらいに透き通っていて、日差しを受けてその輝きを圧倒的なものにしている。

 けれど私を引き付けたのは、その奥に鎮座する太い滝だった。

 流れ落ちる、というよりも静止しているように見えるほどの勢いだった。絶えず落下する水の雄叫びが鼓膜を揺らし、足元で爆発している。

 しばらく呼吸もせずに眺めていると、滝つぼの深い青の一部が盛り上がった。


「ぶはあっ!」


 陽介が顔を出して、大きく息継ぎをした。私は慌てて駆け寄った。


「ヒナ? 来てくれたのか」

「陽介、そんな深そうなところにいて大丈夫?」

「心配してくれてるのか」


 嬉しいな、と聞こえた気がしたけど、滝の音にかき消されてよくわからなかった。


「ヒナもやってみないか? 別世界だぞ」

「うーん……もっと浅いところなら」

「よし!」


 陽介は当たり前のように手をつなぐと、私を手加減なしに引っ張った。


「うわああ!?」


 陽介にぶつかる、と踏みとどまろうとしたのがよくなかった。私の体は急にかかった力に驚いて、尻もちをついてしまった。下半身がたっぷり水に浸かって、その気持ちよさに遠慮を吹き飛ばされた。


「もう! くらえ!」


 すくった水を陽介の顔面にぶちまけると、むしろ楽しそうに浴びられた。追撃をくらわせると、陽介は川の流れを持ち上げるように大量の水を投げてきた。


「それずるい、反則!」

「おい押すなってー!」


 流れをさかのぼるように水のかけ合いは続き、最後は二人して滝つぼに飛び込んだ。


「ヒナ、全身びしょぬれだな!」


 自分が滝よりも大きな声で笑えるなんて、知らなかった。



 ある日はかき氷を食べようと誘われた。

 快諾すると、なぜか小豆を出してきたので陽介の正気を疑ったが、そのあとかき氷機を出してきたのでほっとした。そうしたら器に小豆を盛り始めたので熱中症を心配した。


「小豆ってあったかいのが美味しいんじゃないの!? 氷と合うの? 氷って水だよ!?」

「絶対気にいるって。あ、白玉何個がいい?」

「白玉!? 水と白玉!?」

「氷だって」


 そんなやりとりを経て、小豆の上にかき氷をたっぷり、また小豆を乗せてさらに白玉をいくつか、仕上げに黒蜜をかけたものが差し出された。


「い、いただきます」


 おそるおそる口に入れると、黒糖で煮込まれたらしい小豆の、胸の奥がほっとする甘さと、黒糖の脳の奥にまで届く甘さが、かき氷の荒々しい食感と冷たさにによって混じり合い、完璧なバランスで溶けていった。


「おいしいっ!」

「だろ!?」


 白玉と小豆の相性はいわずもがな、冷たさのおかげでのどごしも抜群だった。


「え、すっごいおいしい……疑ってごめんね……」

「やっぱり気に入っただろ」


 私の二倍以上あったあんみつ氷をあっという間に平らげた陽介は、自慢げに頬を緩ませると、空っぽの器を見せつけた。


「俺はおかわりするけど、ヒナは?」


 私ははじめて、かき氷を三杯食べた。



 ある日はスイカ割りをした。

 私は当然壊滅的で、一番年下のまなみより下手だった。とにかく人の声の方に歩いていってしまうので、最終的に陽介とのちゃんばらになった。そのあと陽介が皮だけを剥いたスイカに可愛い動物の絵を描いていた。でも描き終わると一瞬で食べてしまうので、うさぎに夢中になっていたまなみが泣きそうになっていた。


 私ははじめて、スイカをまっぷたつにした。



 ある日はひたすら数を数えた。

 虎助の家の一番大きなひまわりがついに枯れたというので、みんなで種を数えた。

 ちょうど見ごろのひまわりは、花びらの先の先まで日差しを吸収してやるぞという気合に満ちていた。目に痛いほどの黄色に太陽と似たものを感じて、ひまわりは太陽を追いかけるように動くという話を思い出した。

 種は二千五百四十六粒あった。三十粒ほどを近くの草むらに埋めた。水やりの当番表もつくられて、私は毎週水曜日だった。


「ひまわり畑になるかなー」

「なったら綺麗だよね」

「なあ、来年も見に来いよ!」


 私ははじめて、何かを育てることになった。



 ある日は夜から始まった。

 私が眠れずに宝石を砕いて散らしたような空を見上げていると、突然陽介が訪ねてきて連れ出された。何を聞いてもほんのり口角を上げるばかり。私は諦めて着いていった。そのまましばらく歩いて、知らない川に出た。


「……ぁ」

 

目の前で流れ星が舞っていた。


 数えきれないほどの蛍が飛び、淡くちいさな光で私たちを照らす。


「すごい、夢みたい……」


 ほとんど無意識にこぼれた言葉に、陽介は目を細めて笑った。


「もうちょっと近くで見ようぜ、座れよ」


 二人並んで川辺に腰掛けて、足首まで水に浸かりながら蛍を眺める。

 視線を上げると、蛍たちと満天の星たちが降ってくるような感覚に襲われて、夜空に吞み込まれたようだった。


 ほんとうに、どこか別の世界の出来事のようで。


「かえりたくないなあ……」


 あまりにも夢を見過ぎて、脳が九割溶けていた。陽介がみじろぐ気配に、私はやっと我に返った。待って今私絶対まずいこと言った気がする。私は何もなかったことにしたくて、曖昧に笑みの形をつくって、息を吸い込んで、


「ずっとここにいていいよ」


 吐き出すはずの言葉を見失った。

 陽介の声は平坦で、でもその奥にある感情がうっすらと透けていた。急き立てられるように振り向くと、息が止まった。

 その瞳は凪いだ湖のように底知れなくて、目を合わせられなかった。


「春にはどこにいても薫るくらい桜が咲くし、秋は山中が紅色に染まって、生き物たちの声がどこにいたって聞こえてきてずっと飽きない。冬はぼたん雪がやまないほど寒いけど、滝がまるごと凍って白い龍のように見えるんだ。花畑にだって連れて行ってやれるし、流星群だって見せてやれる。うりぼうと遊ばせてやれるし、かまくらの作り方だって教えてやれるんだ」


 陽介が風のような静けさで一言を発するたびに、得体の知れない感情の波が押し寄せて、胸が苦しくなって、鼻が痛くなった。


「ヒナは何をしたっていいんだ。自由なんだよ。だから、そんな泣きそうな顔しないでくれよ」


 それではじめて、涙が喉までせりあがっていたことがわかった。私は息を吸い込んで、湧き立ちそうな感情ごと飲み下した。


「……陽介だって、泣きそうだよ」

「今はヒナの話をしてるんだけど」

「ふふ」


 私はようやく言いたい言葉を見つけた。


「ありがとう、陽介」


 陽介はゆっくりとまばたきをすると、腕を持ち上げた。まだ泣きそうな顔が貼りついていたけれど、それはじわりと笑みに変わった。


「いや、俺は……」


 その続きが音になる前に、私の頬に指が触れた。

 慈しむような目で頬を撫でる陽介と、ようやく目が合った。

 

 この瞬間、私たちが世界だった。



 その日は暑さが和らいでいたので、遠出をしようと思った。


「ねえ陽介、神社行かない?」

「神社ぁ?」


 本から顔を上げた陽介は、珍しく不機嫌だった。


「なんで」


 噛みつくように問われて言葉に迷う。


「や、あんまり理由とかはなくて」

「うーん」


 陽介は口をとがらせてしばらく何かをつぶやいていたけど、突然勢いよく立ち上がった。


「それならいいけど、俺は近くの駄菓子屋で待ってる」

「え?」

「なんだよ、早く行こうぜ」

「うん……」


 今日の陽介はなにか変だ。



「なんだったんだろう……?」

「なんか言ったかー?」


 私の独り言は、強風にあおられて聞かれずに済んだ。

 神社に行きたいと言ったときは陽介らしからぬ雰囲気を持っていたけど、今はすっかりいつも通りだ。器用に片手で運転する様子を横目で眺めながら、私はこっそり首をかしげた。

 

「よし到着! 俺ここで待ってるから、今日は駄菓子パーティーしようぜ」

「うん!」


 電柱に沿って少し歩くと、何百年もの長い時間を感じさせる松の大樹と、まぶしい朱色の鳥居が見えた。一礼して境内にお邪魔する。鳥居を越えると、夏から切り離されたような涼しさを感じた。


「誰もいないな……」


 声が響いていくのがなんとなく恥ずかしくて、それからは口を閉ざした。

 手水舎で手と口を清めて、賽銭箱に十五円を入れて大きな鈴を鳴らす。二回礼して二回手を叩いて、手を合わせた。願いごとは思いつかなかったから、「この素敵な山を見守ってくださってありがとうございます」と感謝の気持ちを込めた。


「君」


 反射的に振り向くと、白い和服のおじいさんが立っていた。神主さん、だろうか。

 優しそうな顔立ちをしているのに、なぜか恐怖を感じた。


「君、山の子じゃないだろう」

「え、山……?」

「町から来たのか?」

「あ、はい、そうです。おばあちゃんの家があって」


 神主さんはたもとからお守りを取り出して、私の手に握らせた。ひだまりのような温かみを感じる橙色のお守りは、持っていると不思議と心が落ち着いた。


「厄除けの御守りだ、持っておきなさい」

「はい。あの、お金は?」

「必要ない。これは君のための物だ」

「どういうことですか?」


 神主さんは辺りを見回すと顔をこわばらせた。


「……とにかく、この御守りを持っていなさい。必要になる時が来る。

   それと君、ここは逃げてくる場所ではないよ」


 胸を刺されたような痛みが走った。私はしどろもどろにお礼を言うと、小走りで境内を出た。

 一礼して顔を上げると、誰もいなかった。



 もつれそうになる足を押し出して走る、走る、ひた走る。酸素を取り入れようと広がった喉から、悲鳴に似た音がする。

店の前に座る人影が見えて、ようやく速度を落とした。


「おかえり! ……って、大丈夫か!?」


 陽介が私の肩を掴んでゆさぶる。駄菓子でいっぱいに詰まった袋が当たって痛い。


「顔色が悪いぞ、何かあったのか!?」

「実は、」


 お守りを取り出そうとして動けなくなった。手がどうしてもポケットに伸びない。それどころか口が動かない。まるで金縛りみたいだ。


「おい、どうした!? ほんとに大丈夫か!?」

「だいじょうぶ……大丈夫」


 私がお守りのことは話さない、と決めた瞬間声が出た。まるで誰かが私に体を動かす許可を与えたみたいに。


「なんでもないよ、ちょっと疲れただけ」


 笑ってみせると、陽介は心配でしょうがないというように眉を下げた。


「それならいいけど……せめて、しばらく休んでから帰らないか? アイスおごるから」


 三十秒後、私と陽介はアイスキャンディー片手にベンチに座っていた。

 かじると爽やかさが喉を通っていって、ほてった体を冷ましてくれる。私の気分はいくらか落ち着きはじめた。


「駄菓子、何買ったの?」

「んー、めちゃくちゃいっぱい。百個ぐらい入ったチョコクッキーのパックとか」

「おいしそう! 他には?」

 

 私はなるべく大きなリアクションを心がけた。そうすれば会話に集中できると思った。

 雑談のやりとりが何往復か続いた、言葉の間の薄い沈黙のときだった。


「何を言われたんだ?」


 背中に刃物を差し込まれたようだった。

 私が言葉を——この冷たい雰囲気を吹き飛ばしてくれるような都合のいい言葉を探す間に、陽介は容赦なく続けた。


「神社にじいさんがいただろ。何を言われたんだ?」


 声色こそ優しかったけれど、陽介の持つ異様な迫力が、私に沈黙を許さなかった。


「ここは、逃げ場所じゃない、って」

「逃げ場所……」


 陽介は苦虫を噛み潰したような顔で復唱した。それから意味を持たないうなり声のようなものを漏らすと、片手で顔を覆った。


「ヒナは、逃げてきたんだよな」


 明らかに肯定を求める物言いだった。私はアイスを口に含んだ。口に入るなり液状化していくアイスと、喉からあふれそうになる苦さが混じった。


「なあ、ヒナ」


 淡々とした陽介が怖い。私は必死に言葉をしぼりだした。


「ちがうの。そんなんじゃなくて、ただ……」

「隠さないでくれ」


 心臓が凍りそうだった。陽介はそんなことを聞いてこないと油断していた。いつも頭の片隅に置いている言い訳が口から出てこない。


「……なんでそんなこと聞くの」

「ヒナの笑顔が好きなんだ」


 急に口説き文句を言い始めたから混乱した。私の驚きがぜんぶ顔に出ていたのか、陽介はちょっと口角を上げて続けた。


「だから、ヒナのことを教えてほしい。ヒナが笑えるように頑張るから」


 陽介の手が私の手を包んだ。はずみでアイスが落下した。思わず目で追いかけると、あまった片手が頬に添えられて上を向かされた。


「なんでも聞くよ」


 陽介の瞳は、太陽を閉じ込めたように光っていた。熱に浮かされたようなその妖しい輝きが、尋常ではない美しさを持っていた。


「…………私は、」


 私は頬に添えられる手をほどくと視線を落とした。

 地面に広がるアイスの染みに蟻が群がっている様子を眺めながら、言葉を吐いた。


「私、私ってさあ、ダメなんだよね」

「なにが?」

「ぜんぶ。勉強も運動も家事もおしゃれもぜーんぶ。せめてコツコツ続けるぐらいはしようと思ってるのに、それも出来ない。家族とも仲良く出来ない」

「ヒナの家族」


 私はこの山に来てから、初めて家族という単語を発した。


「お母さんとお父さんと、妹の梨花の四人家族。どこにでもいる普通の家族」

「うん」

「でも梨花はすごくて、私立の名門の中学校に通ってるの。それで新体操をすごく頑張ってて、毎日大変そうなんだよね。でも家族に当たったりしないし、友だちも多いし……」


 出来るだけ普通の口調で話そうとしたのに、梨花の話になると声色が濁ったのが自分でもわかった。必要以上に長所を並べ立てて、否定してほしいのが丸わかりだ。否定してもらってもそれを否定するくせに。


「うん、それでね、妹がいるとさ、ぱっと家が明るくなるんだよ。それはいいことなんだよ、みんな嬉しそうで、でもさ」

「うん」

「辛いんだよね、明るすぎて」


 我ながらひどいことを言っている。別に妹は度を越してテンションが高いわけでも、自分の気持ちを押し付けてくるわけでもない。そういう性格、というだけなのに。


「私、家でひとりにいるのが一番好きだった。暗くて安心できた。でもみんなが帰ってくると妹に合わせて明るくなるの。家族の中心は妹なの」


 あわれっぽくなってきたな、と思った。


「比べて、私ってなに? ってなっちゃって」

「ヒナはヒナだよ」

「ありがとう、でもそれじゃダメなんだよね。私もう中学三年生なんだよ? ちゃんと進路のことを考えて、勉強しなくちゃダメなんだよ。でも自分が高校生になってるのが全然想像つかなくてさ、それをお母さんに言ったの。高校行きたくないって、それで喧嘩になって、意地張って家出しちゃった。お母さんが正しいのはわかってるのに」

「ヒナは、居場所がなくてここに来たのか?」

「……そういう話だったらよかったなあ」


 本当は知っている。私が醜い嫉妬を抱えているだけで、両親は私と妹を差別したりしていない。テストの成績が悪かったとき、お父さんがひとつひとつ教えてくれたこと、お母さんは本気で心配しているからこそ毎日について話してくれているということ。私を娘として愛してくれていること。


「でも、私が娘じゃなかったらどうなんだろう」


 陽介の相づちが止まった。


「私がこうやって妹と対等に見てもらってるのはあくまで娘だからでしょ? そうじゃないと理屈が合わないよ。だって私が私と他人として出会ったら、こんなやつ絶対好きになんてならない!」


 ごぼごぼと吐き出され続ける言葉はいやな粘度を持って、まるでヘドロのようだった。

 陽介からの返事はない。私が陽介を害していると思うとたまらなく自分が嫌いになる。


「ごめんね、こんな話して。私帰るよ、ほんとにごめんね」


 私は早口で話を締めて立ち上がろうとした。


「じゃあヒナは、家族が嫌いなのか?」

「……そんなわけないじゃん」


 ほとんど考えずに答えが出た。

 家族のことを嫌いになったことなんて一度もない。だからこそ私は私が嫌いだ。

 陽介に優しく腕を引かれて座り直した。


「じゃあ、やっぱりヒナは帰った方がいいよ」

「そんなのわかってるよ……」

「ただ帰ればいいんじゃない。ちゃんと自分が思ってることを話すんだ」

「話すなんて、怖いよ。絶対に嫌われる」

「そうしたらまた家出したらいいよ。俺が一緒に考えるから」

「厳しいこと言うなあ……」


 いやな話をたくさん聞いたはずなのに、陽介は笑顔のままだった。


「またここに来てもいいの?」

「もちろん。ずっと待ってるよ」


 それでようやく、自分がするべきことがわかった気がした。


「私、帰るよ。家族とちゃんと話すの、頑張ってみる。全部は言えないかもしれないけど、それでもやってみる」

「それがいいよ。ちょっと残念だけどな」


 帰る、と前向きな気持ちで口に出すと、陽介は優しく頷いてくれた。


「でも! すぐお別れはさびしいから、三日後の祭りまでここにいないか? 結構大きな祭りで、楽しいと思う!」


 夏祭りに誘われるなんて、何年ぶりだろう。私はゆっくり頷いた。

 声を出せば、きっと泣いてしまうから。


 

 陽介と夏祭りに行ってから帰ると伝えると、おばあちゃんはひどく喜んでくれた。


「うんうん、それがええよ。でもせっかくのお祭りなら、素敵な浴衣を着ていかなきゃねえ」

「浴衣? 別にいいよ、普通の服で」

「そんなのいけないよ。陽介くんと行くんなら浴衣でなきゃ」


 確かに陽介は和服を着てきそうだ。顔立ちの整った陽介の横に並ぶなら、せめて服の系統くらい合わせておきたい。


「でしょう? 浴衣は北村さんとこがいっぱい持ってるから、明日行こうか。きっと似合うよ、なんなら仕立ててもいい」

「お祭り三日後だよ!?」


 私よりもおばあちゃんが楽しそうで、つられて笑ってしまった。

 色々向き合わなければいけないことはあるけど、夏祭りを最高の思い出にして、この夏を締めくくりたいと思った。



 次の日、私は着せ替え人形になった。

 朝から北村さんの家に連れていかれて、専門店のような量の浴衣をとっかえひっかえしている。かれこれ二時間は経ったはずなのに、決まる目途がまるで立たなかった。


「ヒナちゃんはどんな色も似合うねえ」

「この簪が合うんじゃないかい?」

「わたしこのピンクのがいいと思うー!」


 最初はおばあちゃんと北村さんの二人だけだったのに、いつしか村中の女性が集まってきていた。私をそっちのけで浴衣を並べて盛り上がっている。借り物の、しかも着慣れない浴衣なので下手に動けず棒立ちになっていると。


「ヒナおねえちゃん、いいこと教えてあげるー」


 花がにこにこと手招きをするのでしゃがむと、小さな声で「いいこと」を教えてくれた。


「ね、いいでしょ!」

「確かに、いいかも……!」


 そうして浴衣は決まったけど、小物やら化粧やらで結局夕方までかかった。



 次の日は設営の手伝いをした。

 会場は家とあの神社のちょうど真ん中辺りの広場だった。中心には大きなやぐらがそびえたっていて、そこから大量の提灯が吊り下げられていた。あれが全て光ったらとても綺麗だろう。

 子供たちと一緒にテントを建てたり看板に色を塗ったり料金表を作ったりした。結構大きな祭りというのは誇張なしの発言だったようで、テントを建てても建てても終わらなかった。

 不思議なのは、陽介が姿を見せないことだ。どこかで別の手伝いをしているのかもしれないと思ったけれど、設営がぜんぶ終わっても現れなかった。


「拓馬、陽介ってなにしてるの?」

「あー……」


 拓馬は、絶対に秘密だぞ、と念押しして教えてくれた。


「北村のばあちゃんち」


 なるほど。



 そして、私がこの山で過ごす最後の日がやって来た。

 今は六時十五分。陽介との約束は六時半だったけど、気持ちがはやって早く着きすぎてしまった。スマホも持ってないからちょっと暇だなと思いながら会場を見回すと、ぶんぶんと手を振る人影が見えた。


「ヒナー! こっち!」

「陽介!」


 たった二日ぶりなのに、とても長い間別れていたような気持ちになった。


「待たせちゃったかな?」

「気にするな、俺が早すぎただけだよ」

「いつから待ってたの?」

「んー、一時間くらい前?」

「一時間!?」


 いくらなんでも早すぎないかという呆れと、そんなに待ってくれるぐらい楽しみにしてくれていたのかという期待が混ざって、口元が緩んだ。


「じゃ、行くか」

「うん。そういえば陽介、浴衣似合ってるよ」


 紺色の浴衣に白黒の縞模様の帯というシンプルな服装が、陽介が不意に見せる妖しい色気を増幅させていて、隣に並ぶだけで心拍数が上がり始める。


「北村のばあちゃんの見立ては流石だな。でも、ヒナだってよく似合ってる」

「そう?」

「うん、可愛い」


 心臓が跳ね上がった。私は陽介と同じ紺色を基調にした、ひまわり柄の浴衣を着ている。さらに水晶に白い縁取りで描かれたひまわりが彫られている玉かんざしを挿していた。


「ひまわりがよく似合ってる。俺、花はひまわりが一番好きなんだ」

「そ、そうなんだ……」


 好きという言葉にまた心臓が跳ねた。祭りのにぎやかさに意識を向けることでなんとかやり過ごす。


「す、すごい人だね!」

「色んなとこから来てるからな。まだまだ混むから行くか」

「うん」

「あ、それと……」


 陽介の手が不意に伸びて、私の手をすくい取った。


「下駄、慣れてないだろ? 転んでも大丈夫なように、な」


 妖艶さすら感じさせるはにかみに、私の頬が痛いほどの熱を持った。



 とんでもない始まり方をした夏祭りだけど、そのあとは心臓が止まりそうになることはなかった。


「かき氷ある! ヒナ、食べるか?」

「うーん……あ、練乳ある。いちごの練乳がけ!」

「俺は全がけ~!」


最終的に全部混ざってモンスターが生まれそうな色になった。


「射的だ……難しそう」

「俺得意! あの一番奥のぬいぐるみ獲ってやる!」


 ぬいぐるみは撮れなかったけど、残念賞のお菓子を二人でわけた。


「わ、このぬいぐるみキーホルダー可愛い! うさぎとねこどっちがいいかな~」

「ぬいぐるみが好きなのか?」

「うん、小動物好きなの!」

「ふーん……あ、これ二個ください」


 キーホルダーをおごってもらったから、勝手に焼きそばを買っておごり返した。


「恰好つかね~……」

「かき氷もおごってくれたのに悪いよ」

「男がおごってやるのが甲斐性って言われてたんだよ~……」

「もらいっぱなしも申し訳ないし、気持ちだけもらっておくから。あ、からあげ半分こしない?」

「おう!」


 楽しかった。



 高鳴る心と祭りの賑わいに比例するように、時間は飛ぶように過ぎていった。太陽はとっくに座を月に明け渡した。やぐらの周りをともった提灯が和太鼓の響きに合わせて震える。


「ヒナはヨーヨーつり上手いな」

「そうかな? でも、陽介よりは上手だよ」

「俺三回やったのに一個も獲れなかったからなぁ……ま、両手ずっと埋まってるとあぶねーし」

「……そうだね」


 陽介はりんごあめを勢いよくかじると、串をゴミ箱に投げた。

 釣ったヨーヨーは子供たちにあげてしまったから残ったものはない。形に残る思い出がひとつ減ってしまったという悲しみ未満の気持ちは、両手が埋まらなくてよかったという安堵に塗り潰された。


「ヒナ、次はなにしたい?」

「えっと……」


 そのとき、足元になにかがぶつかった。


「陽介おにいちゃん、ヒナおねえちゃん!」

「まなみ?」

「どうしたんだ?」


 見上げるまなみの目はいつもより大きくゆらめいて見えた。


「あのね、けんとがケガしちゃった」

「なんだって!? ヒナ、俺ちょっと行ってくる! 待っててくれ!」

「まっ」


 て、まで言えなくてよかった。


「もう……」


 体温が消えるのはあっという間だった。宙ぶらりんの手をそっと顔に近づけかけて、首を振って重力に任せるままにした。いつまでも立ち止まっているのは迷惑だ。人波にうずくまるようにしながら歩いて、花壇の縁に腰を下ろした。片手だけで巾着袋を開けて、うさぎとねこを取り出した。つまんで掲げると、勢いで揺れてほっぺ同士がくっつく。また揺らす。耳がくっつく。揺らす。すれ違う。揺らす。手が触れる——


「……ばかみたい」


 飽きてしまった。戻そうとしたとき、底に違和感を覚えた。覗き込むと、橙色の布地が目に入った。


「お守り……」


 置いていくのも怖くて持ってきてしまったんだっけ。取り出して眺めていると、一瞬だけ光ったような気がした。


「……っ!」


 鼓膜を貫通する鋭い音がした。ふらつきながらも耳を押さえて立ち上がると、



「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」



 限界まで引き絞った雑巾のような音がした。一拍遅れて、それが人の悲鳴だと認識した。

 助けに行かなければ、と走り出してから、その音がひとつでないことに気付いた。



「い゛だい、いたいぃぃ」


「お゛に゛い ち ゃぁ ん たずげで」


「ぐ る゛じい゛  ぁぁぁああ゛」



 地獄が広がっていた。死にかけの蝉のような姿が心底おぞましい。私は地面が永遠に続いているわけではないことを忘れて後ずさり、縁に足を取られて尻もちをついた。


 ぱり、となにかを割る音が響いた。私の後ろから。

 

「っ、ひぃ」


 立てない、走れない。悲鳴が聞こえる。首が動く、動かしたくない。暗闇が見える、視野角に入ってしまった。なにが? 後ろを向いた。向いてしまった。


 ぱり、ぱり、ぱり、ぴしり。音が聞こえる、すぐ近くで。

 そして、


「——ぁ、日奈」

「お母さん?」


 くぐもった、懐かしい声がどこからか響いた。

 どん、となにかを叩く音がする。


「日奈、そこにいるのか?」

「お姉ちゃん!」

「お父さん、梨花……?」


 手を伸ばしかけて、でも届く場所はなくて、声だけが聞こえてきて。

 ぱり、どん、みし、ぴしり。音が止まない。頭が痛い。


「聞こえるか、日奈!」

「そこを離れなさい!」

「どういうこと? お母さん、お父さん!」


 もう、なにが現実なのかわからない。声帯をすり潰されたような声が誰のものか区別がつかない。


「日奈、聞こえてるのか!?」

「お姉ちゃん!」

「返事をしなさい!」



「ヒナ」


 

一陣の風が吹き抜けて、思わず目を閉じる。あたたかい肌の感触に、体を強く引っ張られて走り出した。二人分の足音が弾むたびに心が平静を取り戻していく。


「陽介、なんで」

「ヒナが辛そうだったから」


 走って走って、息継ぎが苦しくなったころ、陽介が足を止めた。


「陽介、あの、さっき」

「わかってるよ」


 握りしめていたお守りが抜き取られた。


「こんなことになると思ってなかった、ごめん」


 陽介の手の中でお守りが風化していく。嘘のように静寂が訪れて、段々と朗らかなざわめきに変わっていく。

 でも、私が一番求めていたものは灰になって消えてしまった。

 

「ねえ」


 声がどうしようもなく震えた。


「陽介って、なんなの……?」


 太陽を閉じ込めた目が、私に絡みついて離れない。陽介は毒々しいくらい優しく笑った。


「ヒナの思った通りだよ」


 ああ、陽介って人間じゃないんだ。

 確信を得たのに、この期に及んでこの温もりを手放せない自分があわれだった。


「私に近付いたのはなんで? 騙すため?」

「それは……」


 答えは、なにもかも吹き飛ばすような轟音に消された。夜空を覆い尽くす光の花が咲いている。


「花火」


 目を逸らせない。頭の冷静な部分が目を覚ませと囁いたが、酩酊感すら感じさせる圧倒的な美しさに呼吸すら自分に許せなかった。

 光の残滓が溶け消えて、また次の花が咲く。もっと近くで見たい。衝動に突き動かされるままに足を動かしかけたとき、ふっとなにも見えなくなった。


「だめだよ」


 陽介の両腕に視界を塞がれている。それを認識した瞬間、自分の異様さに気付いた。


「今私、花火に……」

「あれを最後まで見てはいけないんだ。帰れなくなってしまうから」

「なにそれ、この山ってなんなの……?」

「全部話すよ」


 色の無い平坦な声色だったけど、不思議と恐怖は感じなかった。


「俺や子供たちはずっとこの山で生きている、精霊みたいなものなんだ。山から神社までが俺の世界で、元々あった村と混ざり合うように出来ている。だからこの山には、人間とそれ以外が一緒に暮らしてる」

「私と一緒にいてくれたのはどうして」


 微笑む気配が頬を撫でた。


「最初は新しい子に出会えたのがうれしくて、帰ってほしくなかったから。ヒナに言ったことはぜんぶ本音だよ」


 でも、という響きに粘度を感じた。


「すきになっちゃったんだよなあ」


 すき……好き。理解した瞬間、全身の血が爆ぜたような衝撃が走った。脳が崩れ落ちそうになって、心臓の音がすぐ耳元で聞こえる。


「ヒナの笑顔が好きだ。楽しくて堪らないって声が好きだ。気持ちがまっすぐ伝わってくる目が好きだ。柔らかくて、繋ぐとすぐ熱くなる手が好きだ。俺の言葉に一喜一憂してくれるところが好きだ。誰にでも優しいところが好きだ。抱え込んで抱え込んで、それでも誰かを責めきれないところが好きだ。俺は、ヒナが大好きだよ」


 何度も何度も伝えられる甘い響きが、やっと心の深いところに落ちた。

 陽介は、本当に私が好きなんだ。

 

でもそれなら、どうして腕を離さないのだろう。そうするだけできっと、私は人の道を外れてしまうのに。


「幸せになってほしいからだよ」

「しあわせに?」

「ヒナに後悔してほしくない。自分で選んでほしいんだ」


 体が強張った。それは、私がずっと避けてきた道だ。

 耳の奥で、私を呼ぶ家族の声がこだました。私を待っている人がいる。


「ヒナが帰りたいなら、思いきり手を伸ばすといい。でも、もしそうじゃないなら、花火を見るんだ」


 突然、私の耳に大量の情報が流れ込んできた。

 祭り囃子、談笑、足音、風、陽介の心臓の鼓動。そして、


 ——お姉ちゃん、帰ってきて。


——たくさん話をしよう。


——お願い、ヒナ。あなたは私の大切な娘なの。


最後の花火が打ちあがる。

夜を裂くその音は、泣き出す前の呼吸に似ていた。



——私は、どうしたい?


 

振り返って、唇を重ねた。見開かれた瞳に金色の花が映り込み、すぐに瞬きに呑まれた。

吐息を飲み込んで、お互いの温度を伝え合って、言葉に出来ないすべての感情をぶつける。

すべての光が消えるまで、私たちの影はひとつになっていた。


「……っ、は」


私は唇を離して陽介と向き合った。陽介は泣きそうに、苦しそうに顔を歪ませていた。


「いいのか? 俺で、後悔しないのか?」


察しはいいのに、変なところで鈍感なんだから。私は小さく頷くと後ろ手を組む。

その憂いを取り除く言葉は、ずっと心の中に宿っていた。


「私もね、陽介の笑顔が大好きなの」


 瞬間、陽介の頬が赤く染まった。この世にあるすべての愛を受け取ったような顔だった。


「一生、幸せにする!」


 陽介が笑った。私も笑った。たぶん、太陽も霞むほどに。


 


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