雨が連れてくる
それはたぶんこの世のものではないと、最初に見た時から何となくわかった。
小学生の夏休み、夕方急に降って来た雨に、私は母の干した洗濯物を家の中に取り込んでいた。室内に干してあるものを片っ端から放り込んでいるうちに、雨は、一滴一滴が、ぼつん、ぼつんと、大きな音が出るくらいの大粒になっていった。
ごろごろと雷も鳴り始め、私はその時の、湿気を孕んだ生ぬるい風の気持ち悪さを、まだ覚えている。
洗濯物を取り込んだ後、私はふと、ベランダの下を見た。
私の住んでいたのはマンションの二階で、ベランダは、車同士が何とかすれ違えるくらいの路地に面していた。
日頃から、あまり良い気配のある路地ではなかった。
少し傾いた電信柱が、二本あり、どちらにも外灯がついていたが、遠くの方の一つは壊れていて明かりがついていない。
近い方の外灯は、ちょうど私のベランダのほとんど真下にある。
その街灯の下に、赤黒い傘を差した人が立っていた。傘の隙間から、長い黒髪が見えた。
ぼたぼたと、凄まじい雨が降る中、その女性は異様だった。
ただずっと、そこで傘を差して立っているのだ。
私は、嫌なものを見たと思って、部屋に入った。
けれどどうしても気になって、少し後、もう一度私はわざわざベランダに出て、手すりからこっそりと、下を覗いてみた。
外灯はもう点いている。
雨は激しく打ち付けて、道は白いしぶきが跳ねている。
その、ほの暗い電信柱の下。
まだその女性は、立っていた。
赤黒い傘。
私も、雨に打ち付けられながら、なぜかその傘から――彼女から、目が離せなくなった。
傘が微かに傾いた。
私は、息を止めた。
傘がどんどん持ち上がっていく。
その顔が、徐々に露になっていく。
長い髪、がさついた土色の唇、折れたような鼻。
やがて、彼女は傘を完全に上に上げて、私を見上げた。
目が合った。
――でも、目ではなかった。
落ちくぼんだ、眼球の無い真っ黒い双眸が、私を見ていた。
私は、全身に鳥肌が立つのを覚えた。腐った魚の放つ生臭い臭気が漂ってきて、私は強烈な吐き気を覚えた。
彼女は、私を見上げたまま、何か言っていた。
口を開き、ぜぇぜぇと、肺から穴の開いたような歯擦音が、雨の音の中から聞こえてくる。その声は、排水溝に流れ込む水流のような音をしていた。
私は、自分の体がどうなっているのか、全くわからなくなった。
雨に濡れているはずなのに、身体の感覚が遠かった。
ただ、目だけは彼女を捉えていた。
どんどん、焦点が彼女の口に向かって窄まっていく。
私は、じいっと、彼女を見ていたと思う。
手すりから身を乗り出して、眼下の彼女を覗き込んでいた。
もうすぐ届く、もうすぐ届く――。
私は、彼女の口の中に手を伸ばしていた。
あれが何だったのか、未だに私はわからない。
結局その時は、丁度帰って来た母が、ベランダから飛び出しそうになっていた私を引っ張り戻して、私は無事だった。しかしそれから、夕方の急な雨の時になると、決まって私は、その女の人の姿を見かけるようになった。
私は知らん振りをして、もう目を合わせないようにしている。