グラフィアケーン④
グラフィアケーンがその手を振るう。
風が唸りを上げて荒れ狂い、同時に甲高い風切り音が一帯に鳴り響いた。
「……――っ!」
咄嗟に、シャーミアは短剣を構え、ルアトはその身を屈める。
その行動ができたのは、二人に何かが見えていたからではない。ただ何となく、そうしなければならないと感じ取った、ある種の野生の勘のようなものだった。
果たして、その判断は功を奏したことになる。
「くっ――!?」
シャーミアが構えた短剣に衝撃が掛かる。そこに打ち合う剣は無いにもかかわらず、場違いな金属音が鳴り響き――
防いでいた短剣が真っ二つに割れた。
「な――っ!?」
短剣が折れた。そのことについて、嘆く暇はない。
即座に、衝撃を受け切れずに崩れた体勢を立て直そうとして、シャーミアはそれを見た。
グラフィアケーンの周囲。あるいは戦闘が起きているその周辺に生えている木々が、真横に切断されていた。
そして鳴り響く轟音と、土煙が舞い上がる。
「……驚いたな。今の斬撃に防御すら必要としないとは」
ただ手を振っただけで斬撃を作り出したグラフィアケーンは、正面に佇む少女に向かって怪訝な表情でそう言った。
シリウスは、防御の姿勢も回避も行わない。黙って彼を見据えたまま立ち尽くす。
そこには魔術による障壁や抵抗も存在せず、敵の攻撃などなかったかのように、その紅蓮の髪を風に靡かせていた。
「これが、お主の実力か? だとしたら、期待外れもいいところだな」
「ぬかせ。まずは小手調べだ!」
言うが早いか、グラフィアケーンはその巨体で瞬時にシリウスの背後へと回り込む。
振り上げられる手の先。そこには三日月のように鋭く、鈍く光る爪が並んでいた。
よく鍛え上げられた剣のような輝きを放つそれが、勢いよく振り下ろされる。
「相手の実力すら見極められぬとは……、余はお主のことを少し過大評価しておったかもしれぬ」
しかし、その刃はシリウスまで届かない。その遥か手前で、まるでそこに壁があるかのように不快な音を立てて動きを止める。
「うおおおおおおおおおお!!」
乱打、猛追。
その爪が届かないと知って尚、グラフィアケーンは攻撃することを止めない。
両手を滅茶苦茶に振り回し、その度に固い音と共に弾かれる。
「ちょっ――!」
「これは――」
そこで引き起こるのは、斬撃の余波。彼が適当に振るうその力は、周囲にもシリウスへ振るっているものと同様の斬撃が届いている。
シャーミアは咄嗟に《カゲヌイ》で防御。ルアトもしっかりとそれを回避していた。
だが、周囲にいる魔獣たちはそうもいかない。
手足を斬られるモノ。首を刎ねられるモノ。回避するモノと様々に、魔獣側にも被害が及んでいた。
「敵が減ってくれて助かりますが……」
「こんな斬撃の雨の中、まともに戦えないわよ!?」
自分たちがするべきことは、グラフィアケーンを取り囲む魔獣たちの相手。災害のような斬撃の嵐を抜けながら、戦うことは至難を極めるが、しかし泣き言も言っていられない。
シャーミアは斬撃を躱し、横合いから四つ足を駆る魔獣が牙を向ける。
彼女はそれに対して、体を捻りながら《カゲヌイ》を投擲。その顔面に直撃し、魔獣はその場に倒れ伏した。
武器を手元から離し、その身もバランスを崩している。この好機を魔獣たちも見逃さない。
続けて二匹同時に、挟み込むように魔獣が襲い来る。
片方は何とかなる。《カゲヌイ》を手元に戻せば対応はできる。だがどうあっても一手足りない。
そんな考えを巡らせるシャーミアへと、一つの声が耳を打つ。
「シャーミア。一方は余が討つ」
ヌイがいつの間にかその身を出現させていた。既にその小さな手のひらからは、魔術閃による黒い閃光が放たれている。
「ありがとねっ」
残る一匹も、シャーミアは《カゲヌイ》で一閃。魔獣の追撃を阻止する。
倒れた魔獣からは、血は吹き出ない。
グラフィアケーンによって斬られた魔獣も、ただ無機物のようにその斬撃を受けるだけで、血の一滴も流れ出ない。
これも、シリウスが言っていた作り出された魔獣ということなのだろう。
だから、というわけではないが、気兼ねなく攻撃することはできる。
ルアトはと言えば、そんな躊躇をする様子もなく、淡々と襲い掛かる魔獣を殴っては蹴り、蹴っては殴っていた。
「アンタ、魔獣に対して躊躇なさすぎない?」
言いながら、シャーミアは斬撃を躱す。
「……もちろん僕も大変心苦しいと感じています。ですが、これもシリウス様のため。そのためならば、僕は心を殺しますよ」
答えながら、ルアトは魔獣を蹴散らす。
そうしているうちに、魔獣の数が半数よりもその数を減らしてきた。さすがに魔獣たちも劣勢を悟ったのか、無謀な突撃はしなくなる。
その間も、斬撃の暴風は止むことを知らない。
だが――
「煩わしい」
シリウスがそう言い放った瞬間、何かが破砕された音と共にグラフィアケーンの体が大きく仰け反った。
「馬鹿な……っ!? 俺の爪が――!?」
音を立てて割れたのは、グラフィアケーンの左手の爪。
白い欠片を周囲に撒き散らしながら、彼は数歩後退る。
悔しそうに、あるいは脅えるように少女を見据えるグラフィアケーンに、場を支配する魔王の娘は呆れたような溜息を吐いた。
「……よく分かった。お主は、魔王の子でもなんでもないということがな」
「何を――」
彼の顔つきがより一層険しいモノへと変貌する。その発言が許せなかったのだろうが、しかしシリウスはその感情を持つことすら許さない。
「お主は質の悪い模倣品。いや、模倣品と呼ぶのも兄上に失礼だな。何せ、外見以外は何もかも違うのだからな」
その言葉には悲哀が含まれていた、ように感じられた。彼女は無表情を崩さないが、それでも思うところがあるのだろう。
少し離れた場所で、シリウスの姿を眺めるシャーミア。そしてその肩にヌイが腰掛ける。
「……本当は、兄の姿をした者にあんな言葉を吐きたくなどない。まやかしであろうと形を模したレプリカだろうと、どうしても記憶の中にある実兄の姿と被ってしまう」
ヌイは落ち込んだように、今にも泣きそうなほどに表情を歪めて語る。言葉は、そのままシリウスの想いなのだろう。当然、ヌイも同じ感情を抱いているはずだった。
「シリウス……」
言葉は届かない。届かない方が、きっと良かったとも思える。掛ける言葉など、シャーミアは持っていないのだから。
「もうよい。お主と戦うのは、疲れた」
彼女の声はいつも通り。震えてもいないし、疲れた様子もない。それなのに、シャーミアの耳には、心には、頭には。
沈痛な面持ちをした、シリウスの表情が浮かんでしまう。
そんな彼女の態度が気に喰わなかったのか、グラフィアケーンは激昂し、その手を思い切り振り上げた。
「――っ! 小娘如きに俺の何が分かる!?」
「分かるとも。お主がハリボテで、何者でもないことがな。それまでの記憶や経験もなければ、特異星も消失。その容姿と性格だけが切り取られ、土くれに自我を吹き込まれた、悲しき生命よ。せめて、余自らが引導を渡そう」
グラフィアケーンの凶刃が振り下ろされる、その前に――
シリウスの冷たい声が詠唱となり響き渡る。
「魔王の戦火燻る晩末の灯火」
彼女が手を掲げた直後、グラフィアケーンを中心とした巨大な火柱が逆昇る。
「ぐあああああああああああああああああああ――――っ!?」
地鳴りと錯覚するほどの悲鳴が轟く。その火柱は数刻のことだったが、それが消える頃には既に、グラフィアケーンの意識は途絶えているようだった。
「――兄上には、心底同情する。魔獣もどきが、名乗って良い名ではないというのにな」
彼を見上げるシリウスの声は静かに、紡がれた。
その言葉が向けられた先は、この場にいる誰でもない。
ただ天へと抜けて、それは届けられる。




