ミスティージャ=スキラス③
イデルガの提案から三日後、ミスティージャは城のとある扉の前で佇んでいた。
そこは彼から事前に知らされた地下へと通じる入口。普段は固く閉ざされているその扉は、やはりいつも通りに鍵が掛けられていた。
ミスティージャは一人、思考に耽る。
もし本当にこの城の地下から魔獣が発生していたとしたら、どうするべきか。
それを父は知っているのだろうか。
勇者がいるとはいえ、魔獣の巣窟に足を踏み入れて生きて帰ってこられるのだろうか。そんな危険な場所に自分のような半端な人間が行ってもいいのだろうか。
不安と葛藤。ネガティブな感情がぐるぐると頭を巡る。
こんなことではいけない、と。一度ミスティージャはその手で頬を叩く。
弱気になるな。自分のことなどどうだっていいだろう。
大切なのは、この国の未来。
魔獣の発生源が本当にあったのならば、それは喜ばしいことだ。そこを根絶やしにすれば、二度と民が魔獣被害に苦しむことがなくなるのだから。
「やあ、ミスティージャ。待たせてしまったね」
「イデルガさん」
ふらりと、物陰から現れた薄桃色の髪の人物にミスティージャは思わず笑顔の大輪を咲かせた。
やはり勇者がいると周囲が華やぐような気がする。勝手にそう感じてしまっているだけなのかもしれないが、少なくとも今のミスティージャからすれば彼が来てくれたことで安心できた。
イデルガはいつもと同じような出で立ちで、左手には鍵束を握っている。
「これを借りてくるのに手間取ってしまってね。さあ、行こう。ぐずぐずしてはいられない」
「……ああ」
彼が鍵を差し込み、カチリという音が響き渡った。
試しに扉を押してみると、軽い力でもその道を譲ってくれる。
開かれた視界の先は、暗闇に塗り潰されていた。灯り一つない。完全な闇が、下へと続いている。
さすがに一歩踏み出す勇気も出せずに戸惑っていると、イデルガが先行して闇に足を踏み入れた。
「大丈夫だよ。魔獣の気配はない」
そう落ち着かせるように放たれた言葉に、ミスティージャも背中を押されて後に続く。
そうだ。こっちには勇者がついている。何を恐れる必要があるのだろう。
集中して、見極めろ。
この国の未来が懸かっている。
その使命感が、心に宿っていた不安感を払拭してくれたのか、前を進む足取りも幾分軽くなった。
それからイデルガもミスティージャもしばらく黙ったまま、階段を下り続ける。
どれくらい下っただろうか。
ようやく広い場所へと出たと、そう分かったのは小さな灯りが壁沿いに灯されていたからだ。
しかし人の気配、というよりも生き物の気配はない。今すぐにでも魔獣が襲い掛かってきそうな怪しい雰囲気に満ちてはいるものの、生命の息遣いは感じられない。
「……これって――」
そのフロアには幾つかの汚れた机と椅子。それから紙とペンが乱雑に散らばっていた。そこに書かれていた内容を見て、ミスティージャは思わず声を上げた。
「魔獣の、作り方!?」
散乱していた紙に描かれていたのは、魔獣の生み出し方。言葉の断片は読み取れるものの、どういった理屈で生み出されているかは、目を通しても理解できない。
いや、理解することを脳が拒んでいたのかもしれない。
それほどまでに、衝撃的で、信じたくなかった事実だった。
「ここは、実験場みたいなものなんだろうね。微かに、血の跡が残っている」
冷静に、彼は辺りを見回して言った。
きっと自分一人だと、ここでの衝撃が強すぎてしばらく動けなかっただろう。
やはりイデルガと一緒に来て良かった、と。ミスティージャは心から彼に感謝する。
「それと、あっちから獣の臭いがするね」
彼が指し示す場所は一つの扉。その先に恐らく魔獣がいるのだろう。
ここまで来て、帰るわけにはいかない。魔獣に苦しめられている民たちのためにも。
そして真実を知るためにも、ミスティージャはその扉に手を掛けて、ゆっくりと押し開ける。
「うっ――」
鼻孔へと襲い掛かる重厚な獣の臭い。思わず鼻を押さえてしまうになるものの、そんなことが気にならなくなるほどの光景が、眼前に広がった。
「これは、魔獣!?」
そこにいたのは短い毛に覆われた四足の獣。目を妖しく光らせながらも、その瞳には精気が宿っていない。
そんな魔獣が大小さまざまに、檻の中に捕らえられていた。
数にして、十数匹はいるだろう。その部屋の広さを考えれば、もっといるかもしれない。
初めて見る魔獣の姿に、呆気に取られているとイデルガがその隣に立つ。
「これまで色々な魔獣を見てきたけど、この種は初めて見るね」
「イデルガさん……、俺……」
「……行こう、ミスティージャ。この先から、声がする」
歩みを促されて、彼についていく。獣たちに見守られながら檻の森を歩いていくと、その声が明確に耳に届き始めた。
「馬鹿な! それでは約束と違うではないか!」
「おや。初めからそういった契約でしたよね。魔獣発生及び魔獣研究の件について、調査結果が芳しくなくても、ワタクシたちに責はない。容赦してもらうと」
一人は知らない女性の声だ。しかし艶のある大人びたその声と、対話しているもう一つの声。
その主をミスティージャは知っていた。
知ってしまっていた。
思わず駆けだしていたミスティージャは、ひと際多くの灯りに照らされるその空間へと飛び込んで、叫ぶ。
「父様!」
「ミスティージャ!? 何故ここに――」
そこにいたのは、襟を立てたオーバーコートに身を包む女性と――
この国の王であり、実の父の姿だった。
彼は酷く狼狽したように目を泳がせ、そうして対峙する息子の背後に立つ人物を認める。
「勇者イデルガ……」
「ハイベルニヤ国王。貴方のご子息をここへ連れてきたことを、どうかお許しください。しかし、これもこの国のためとなるでしょう」
「勝手な真似を……!」
父はその目つきを鋭くさせてイデルガを睨みつけるものの、それに反発したのはミスティージャだった。
「勝手なのはどちらですか!? こんなところで魔獣の研究をしていたなんて……」
「……これは――」
ミスティージャが一歩詰め寄れば、父が一歩後退る。
それは、見たことのない弱気な、父の姿だった。
そのことが堪らなく悔しかった。
父は憧れの存在だった。いつも厳格であり、家族を、国を守ってくれていた。
それなのに、今目の前に立っているその姿は、弱々しく哀れにも映ってしまっていた。
否定したい。
夢だと思いたい。
そんな思いが先行してしまい、つい感情的になってしまう。今にも掴みかかってしまいそうなほどにまで、父に迫ったミスティージャだったが、突如響いた別の声にそれは阻まれた。
「全員そこを動くな!」
同時に反響する鎧を鳴らす音と幾つもの足音。
振り返ってみれば剣を構える騎士たちと、それを先導するトゥワルフの姿がそこにはあった。
突然の闖入者に困惑するミスティージャだったが、現れた彼も彼で、その瞳を見開いて言葉を漏らした。
「ミスティ王子……、それに国王まで……」
その瞳を彩るのは、混乱。状況の理解が及ばないであろうその中でも、しかし騎士団長はすぐに現実へと向き直る。
「全員大人しくしてください。話は連行した後で聞きます」
その言葉に、動揺が広がっていた騎士たちもまた剣を構え直す。ミスティージャや国王は抵抗するつもりもなかったが、その場で二人、警戒を解かない人物がいた。
「――潮時ですね。捕まるわけにもいきませんので、ワタクシは逃げさせてもらいます」
喋ることも許されないその空気の中で、この場で唯一見覚えのないその女性が優雅にそう告げる。
当然、トゥワルフがそれを許すはずもない。
「貴女が唆したんですね」
「唆すとは御幣がありますね。ワタクシはこの国の王と取引をしていたにすぎないというのに。――ああ、申し遅れました。ワタクシ、名をエリオレスといいます。以後お見知りおきを」
その長身を折り曲げて、丁寧に挨拶するエリオレスと名乗る人物はすぐに姿勢を正し、そうしてニコリと笑った。
「まあ、以後もございませんね。もう会うこともないでしょうから」
言葉と同時に宙へと浮かぶエリオレス。
逃走するつもりだ、と。そう認識した瞬間、一つの人影がミスティージャを横切り、そして――
「逃がさないよ。魔獣は全員討伐……、そう依頼されたからね」
イデルガが、彼女の首を刎ねていた。
長身の彼女の、その顎まで覆われていたオーバーコートと切れ端とともに、冷たい石畳へと体と頭部が放り出される。
一転、静まり返るその中で、彼はいつもの優しい眼差しを消して告げる。
「さあ、騎士団の人たちの言う通りにしよう。この件で、話し合わなければならないからね」
近寄りがたさを感じさせる冷えた声音は、淀んだ地下の空気と混ざり合い、そして溶けていくのだった。




