『珠の勇者』ミボシ③
東都アウラムにいる神とは……
夜刀神は、この東都アウラムで信奉されている神の一柱だ。遥か昔、この東都を創った神の子が振るったとされる一振りの刀。それを創ったのが、夜刀神。と、昔話にはそう書かれている。実際のところがどうなのかは不明だ。それを確かめようにも、その神とは既に、会話すらできないのだから。
元々夜刀神は善い神だった。人々から慕われていて、力を与えることはあっても、力を振るうことはなかった。
しかし今は違う。彼の神は悪神と成り果てた。急に堕ちたわけではない。理由はきちんとある。だが、そこに今更言及したところで、今は変わらない。
夜刀神は悪神。その事実は揺るがないのだ。
「――っ、ゲホっ、ごほっ……!?」
小鳥の囀りが聞こえるような、山の中。遠くから見守る従者の他には誰もいないその場に、せき込む音がこだました。空咳に絡むように、粘りつく液体が吐き出される。赤黒いそれは、目の前の湯溜まりに落ちて、色を溶かした。
「ああ、やってもうた……」
力なく顔を歪めながら、その湯溜まりを覗き込む。流れの穏やかな水面に自分の顔がはっきりと映されてしまい、見るんじゃなかったとすぐに後悔してしまう。
何日も眠れていないような、そんな不健康そうな顔。美しく凛々しい顔立ちは見るも無残に崩れ、化粧ではどうにもならないほどに、疲弊していた。
「……酷い顔。美人が台無しやわぁ」
言葉こそ軽い調子だが、内心は穏やかではない。ほとほと、嫌気が差している。何故、自分がこんな目に合わなければならないのか。この苦しみからいつになったら解放されるのか。
ミボシは湯浴み着の上から、体に浮かぶ紋様を忌々しげに眺める。黒く、歪で禍々しい幾つもの模様。それらは彼女の体全身を覆うように広がっていて、白い肌を染めていた。
それは、呪い。
夜刀神が呪いの王となったことにより、アウラム中にその力が撒き散らされた。その不自然な力の奔流は、時にモノへ、時には人へと纏わりついて、呪いの依り代となる。
呪いは、憑りついたモノや周囲へ影響を及ぼし、苦しみと死を与える。助かる方法はその呪いを別の対象に移すことだけ。
「……はあ、はよ浸かって、はよ出な」
ミボシは、その身を湯溜まりへとゆっくりと沈めていく。本当はもっとのんびりと過ごしていたい。だがそういうわけにもいかなかった。
ちょうど源泉と上流の水がぶつかるこの場所は、人が浸かるのに適した温度となっていて、ミボシの住む屋敷からもそれなりに近い。故に、一仕事を終えた後はよくここに汗を流しに来るのだった。
「ミボシ様」
「早すぎるんとちゃう? まだ、あてが浸かってひと心地もついてへんで?」
すぐ傍に、側近である狐の面で目元を隠した女性が立つ。彼女の視線が、湯浴み着の下にうっすら浮かぶ呪いの紋様に注がれているのを感じる。
僅かな間の後、彼女は静かに口を開いた。
「本日も、浄化のお勤めご苦労様でした。見事な浄化でした」
「なぁに? 急に褒められると、照れるわあ」
「貴女様のおかげで、今の東都はありますから。言葉のみの礼では、足りませんよ」
おどけた態度を取ったにもかかわらず、彼女の調子は変わらず真剣なもの。堅苦しい空気に肩を落として、ミボシが息を吐く。
「浄化なんて、大したもんやあらへん。あてが刀で、その身に宿る呪いを移してるだけやさかい」
「ですけど、それが民の安寧となってますから。ミボシ様は何よりもこの東都に必要不可欠な存在なんです。それに、お心遣いもご立派です。刀で刺される光景を見せないように、睡眠作用のあるお香を焚いて、浄化を行う。なんと行き届いた気遣いでしょう。痛みも血も傷も生まない刺突ですけど、その情景に慣れてる人なんていませんから」
「……今日はえらくお喋りやん」
振り返って視線を向けると、狼狽えた表情が映った。少しの間、視線を交わし合っていた二人だったが、やがて側近の女性が観念したように頭を下げた。
「失礼しました。出過ぎた真似でした」
「ええって。気にしてへんから。でも、随分焦ってるようやね」
「……それは――」
「焦っても、焦らんでも、変わらへんで? 十日後には『祝呪の解き』が始まって、あての呪いを夜刀神に返す。そんでもっぺん、夜刀神は百年大人しゅうしてくれる。そういう約束やさかい」
雨が地面に向かって落ちるように。赤子が泣くように。それは当たり前で、決められた運命のようなもの。それに逆らうことなど、できない。
「……最近私、占術にハマってるんです」
「えらい突拍子もあらへんこと言うやん。それがどしたん?」
「町にいる占術師が言ってたんです。次の『祝呪の解き』は、きっと訪れない、と」
「占いなんて、信じるんやねえ。もっと、現実主義な人やと思っとったわあ」
返す言葉に、彼女は黙る。決して機嫌を損ねたわけではないだろう。その証拠に、仮面の奥に見える瞳は強く、燃えている。
「誰もが理想的な現実を求めるのは、当然のことじゃありませんか?」
そう言って、手を伸ばす彼女は優しく微笑む。今までも、こうして近くにいる人たちは手を伸ばしてきてくれた。その度に手を掴み、そして気がつけば独りになっていた。
また失ってしまうかもしれない。また独りに逆戻りになるだろう。
そう思って。
ミボシはその手を取らずに、自らの手で湯溜まりから上がる。
「安易に触れん方がええで? 呪われるかも、しれんから」
乾いた笑いと共に、弱々しい言葉が。
虚しく響くのだった。
お読みいただきありがとうございました!
珠の勇者はそこに、ただ一人で――
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