シャーミア=セイラスの憂鬱③
先ほどまで喋っていた男がシャーミアへと手を伸ばそうと近づいてくる。他二人の男たちはそれをただニヤニヤしながら見ているだけだ。
迫り来る男との体格差は一回り近く向こうの方が大きいわけだが、しかし問題はないだろうと彼女は深く考えない。
やることはただ一つ。
短剣の柄に手を添えて、同時に男の背後へと抜ける。
それだけだ。それ以上の行動はしていないように見えただろう。
だが――
「姉ちゃんすばしっこいな……、あれ?」
男が振り返ったその直後、彼は自分の身に起きた違和感に気がついた。やけに下半身が開放的に感じられるのだ。足元に視線を落とすと、見覚えのあるズボンと切れたベルトが地面に力なく伏していた。
「え……、急にズボン脱ぐとか変質者?」
「ち、違えよ! ベルトが切れただけだ!」
口に手を当てて一歩後退るシャーミア。一方で男は落ちたズボンを腰まで持っていき、ズレないようにそれを手で押さえながら弁解する。
「いや、俺らもちょっとどうかと思いますけど……」
「だから違えって言ってんだろ! くそっ、今日はついてねえ! 宿に戻るぞ!」
怒気を撒き散らしてはいるが、ちょこちょこと歩幅小さめに逃げ去っていく男の様子が不揃いで可笑しく、シャーミアは笑ってしまう。
連れの男二人もいなくなり、やがて辺りは平和に満ちる。
しかし彼女の胸には黒い棘が引っ掛かっていて気分は依然として晴れないでいた。
「あの、ありがとう。すっごく強いんだね」
「あたしは何もしてないわよ。アイツのベルトが勝手に切れただけでしょ?」
「ううん。見えてたもの。貴女がその短剣で、彼を横切る時にベルトを切ってたの」
「……気のせいじゃない?」
「ふふ、じゃあそういうことにしておいてあげるね」
嬉しそうに顔を綻ばせるその女性は床に捨てられた杖を拾い上げ、改めてシャーミアへと振り返る。
おっとりとしたその顔つきにはアンダーリムの眼鏡がよく似合っていた。絹のように滑らかなその茶髪は肩口で整えられており。所々でウェーブが掛かっている。
「改めて、お礼を。困っていたところを助けてくれて、どうもありがとう。私はエリス=ハイロン。気軽にエリスって呼んでほしいな。――あ、貴女の名前も聞かせてくれる?」
「……シャーミア=セイラスよ。お礼はいらないわ。ちょうど、通りがかっただけだし」
佇まいや言葉遣いは清楚で物腰柔らか。悪人では到底ない様相のエリスに対して、しかし何よりもシャーミアはその彼女の服装に警戒してしまう。
「それより、エリスさんってもしかして、憲兵隊なの?」
サグザマナス及び、カルキノス国には国所属の兵隊が配備されている。一様に灰色の服と紺色と黒を基調としたマントを着用しており、目の前にいる彼女もその例に漏れない。
憲兵隊は巡回業務とは別に、管轄する地域で起きる諍いのほとんどに出向き、その現場で聴取を行う。シャーミアが男のベルトを切るという暴力行為をしたことに対して、どうにか目を瞑ってほしかった故に、彼女はエリスの顔色を窺っていたのだ。
しかしそんな心配を他所に、尋ねられたエリスはバツが悪そうに眉を困らせながら、はにかんだ。
「恥ずかしながらね。杖を取られちゃうと何もできなくて。だから、貴女が杖を取り返してくれて本当に助かったの。……これは、思い出の杖だから」
「そんなに大切なモノなの?」
エリスが優しく包むように杖を抱いている。家族からの贈り物とか、そういうものなのかもしれない。シャーミアの持つ短剣もウェゼンから貰ったものだ。きっと彼女の持つ杖もその類のものなのだろうと気軽に聞いて、そして頷き返したエリスの言葉に驚愕する。
「そうなの。ウェゼン師匠から貰ったものでね」
「え!? おじいちゃんから!?」
直後に、しまった、と。後悔するものの、放たれた言葉を再び口に戻すことはできない。
シャーミアの発言に目を丸くさせたエリスは、遅れてその眼鏡の奥の瞳を愕然の色へと塗り替えた。
「おじいちゃんって……。貴女がウェゼン師匠の言っていたお孫さん!? 道理で師匠と同じ名字だと思ったの! こんなところで会えるなんて嬉しいな!」
彼女の表情はすぐに歓喜のそれへと変わる。
こうなることは、なんとなく予想できていた。シャーミアの祖父、ウェゼンは生前様々な場所で魔術を教えていたと聞いている。当然、故郷のあるこのカルキノス国でもその活動は例外ではなかったのだろう。
だからというか、当然というか。ウェゼンを慕う魔術師は多いのだ。
だがここまでとは思ってもみなかった。
興奮した様子のエリスを見て、シャーミアは自らの祖父が尊敬されている事実と、迂闊な行動をしてしまった自己嫌悪とで曖昧な表情を浮かべることしかできないでいた。
「ウェゼン師匠は今どこにいるか知ってる? 師匠に教えてもらった対魔術見てほしいの。あ、でも忙しい方だからきっとシャーミアちゃんも知らないよね。うーん、本当はもっと色々とお話したいんだけど私仕事中だしなあ」
何やら色々と悩んでいる様子だが、今ウェゼンの話をされても困ってしまう。
彼は死んだ。恐らく世界的にそのことは知られておらず、事実エリスはウェゼンが生きているという前提で認識されている。
「……おじいちゃんは今、遠いところにいるわ」
だからシャーミアはただ、そう告げることしかできなかった。今はまだ、それを知る人は少なくていい。わざわざこの場で、彼の死を話すべきではないだろう。
それは精いっぱいの、彼女なりの祖父について話せることだった。
「そう……。残念だけど、仕方ないよね」
エリスが残念そうに肩を落とすが、すぐに気を取り直した様子で明るい表情を見せて背筋を正す。




