『杯の勇者』シトラ
討伐祭から早くも一日が経過していた。
街に甚大な被害をもたらしたのは、何も地上だけではない。
城の地下。そこでは下層から連れてこられた民が、日々イデルガとラベレの実験体にされていた。
討伐祭のあの日、シリウスの魔獣語によって暴走状態となった彼ら、イデルガの創造物は既に討伐されている。
残っているのはラベレによって生み出された、以前の記憶を持つ魔獣となった人間たち。
彼らは暴れることもせず、ただダクエルの指示に従って治療を受けている。いつの日か、元に戻ることを願って、絶えず地下には人が行き交っていた。
そんな地下の一室。
元々何があったのかすら不明なほど小さな燭台以外、何もないだだっ広い空間に一人、紅蓮の髪の少女が佇んでいた。
部屋には物音ひとつしない。じめっとした空気とかび臭い匂いが漂って横たわるそこで、シリウスは目を瞑り、腕を広げている。
薄暗闇の中、僅かに紫色に発光している彼女の他に誰もいない一室で一つ、コツリ、と異質な音が鳴った。
石畳でできた床を歩くようなその音は、一定のリズムを刻みながら部屋中にこだまする。
やがて、それが鳴り止む。同時に耳を打ったのは、闇よりも得体の知れない、怪しげな声だった。
「――やあ。随分と探しましたよ」
それは若い男性の声。しかし爽やかさはなく、聞き取りやすい声質ながら粘りつくヘドロのような悪印象を与える、そんな声だった。
目の前にいるであろうその男性がここへ向かってきていたのは、随分前から知覚していた。その人物の正体については、シリウスも知らなかったが、今こうして目の前にいて、はっきりとわかる。
「……昨日からずっと嗅ぎ回っておったな。――『杯の勇者』」
「これはこれは、私めのことを知っておられるとは光栄ですね。しかしどうして、私が勇者であると?」
「余はお主の魔力を知っておる。あの日、忘却できぬほどに間近で感じ取っておったからな」
「それは嬉しい限りです。こんな私のことを、憶えていてくれたとは」
彼は芝居がかった声でそう言うと、ひと際声を上げて、さらに大仰に言葉を並べる。
「自己紹介が遅れました。私、『杯の勇者』もとい、魔道具商会『パラべレム』会長をしています、シトラといいます。以後、お見知りおきを」
それを受け、シリウスは瞳をそっと開いた。目の前、といっても距離は遠く、手を伸ばして届くような距離にはいない彼の姿を見止める。
赤茶色の髪は爽やかさを感じさせるほどに短く、不快さはない。着ている服は決して豪奢なものではなく、素朴さすら感じられるが、それら全てに皺ひとつない。そんな整った身だしなみに、首元から下がる黄金の首飾りが灯りに照らされて輝いていた。
年齢は二十後半から三十前半ぐらいか。しかし、見た目はまだ十代と言っても納得できるほどには若く見える。
好青年。彼の素性を知らない人間から見れば、そう捉えられるだろう。
それほどまでに、身なりは整っていた。
「その勇者が何故、余の前に姿を現す? 余のことを、知らぬわけではあるまい」
「もちろんです。貴女が魔王の十二人目の子であるということも、勇者全員に復讐を誓って、既に二人その手に掛けているということも、全て把握済みですから」
「では勇者を殺して回っておる余への復讐といったところか?」
「まさか。アルタルフは救い難い間抜けですし死んで当然。イデルガもいつもつまらなさそうにして特別仲が良いというわけではありませんから。全てを承知の上で、ここにいるんです」
「はあ、お主……、さては死にたがりか?」
冷めた瞳で、闇に浮かぶ彼の姿を睨むと、シトラはヘラヘラと笑いながら肩を竦めた。
「滅相もございません! まだ死ぬわけにはいきませんから」
「ならば早々に消え失せるがよい。今日は、殺さないでおいてやろう」
「そうもいきません」
貫く視線を研ぎ澄ませ、殺意を乗せた猛毒のような声を聞いても、依然として彼の態度は変わらない。彼自身、優勢であるとわかっているように、怯んだ様子も脅えた様子も見せず、不快な声を響かせる。
「今の貴女だから、お声掛けしたんですよ。実際、私に魔力を向けていないでしょう?」
「……」
「家族殺しの仇敵を前にして、殺意以外を向けない理由なんてありません。さしずめ、今はこちらに回せる魔力がないとみえますね。そして、それは何故か――」
シトラの視線が部屋をぐるりと回る。ほとんど物がない場所だが、その部屋には目立つ異物が点在していた。
「部屋を巡らせるように描かれた陣に、そこに供えられた紅玉。貴女は現在、何かの儀式の真っ只中なんじゃありませんか?」
「……それに答える義理はないな」
そう応じるものの、彼の推測はほとんど当たっていた。シリウスがいま行っている行為は、イデルガが残した紅い球から人間を取り出すための儀式だ。相当の集中力と、安定した場所。それに加えて、イデルガの痕跡が色濃く残る地下で行う必要があり、誰にも告げずここへやって来たわけだ。
誰かに魔力をぶつけるなど、以ての外。それをすれば、この紅い核に詰められた人間がどうなるか、シリウスですらわからない。
対して、シトラもわかっていると言いたそうに、首を横に振った。
「まあそうでしょう。元々、貴女が何をしているのかなんて、興味がありませんから」
「ならば何故、ここへ来た?」
「理由は簡単ですよ」
彼の口角が鋭く上がる。歪なまでに歪んだそれに眉を顰めるシリウスだったが、シトラは構わず嬉しそうに、言葉を吐き出した。
「――取引をしましょう、魔王の娘。そのために、私はここへやって来たのですから」
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