『影』褪せる
英雄譚は必ずこう締めくくられる。
悪は滅び、正義が勝つと。
それに懐疑的になっていたイデルガはしかし、勇者という役割を着せられて魔王討伐を果たしていた。
人々の平和のため。
世界の意思を示すため。
そこに自分の意思はなく、与えられたからという理由で魔王を討った。無理やり自分に言い聞かせていたのだ。これが正しいことだと。
だけど、それでも。
世界が希望の光で満たされたはずなのに、それはイデルガに何ももたらさない。役割を果たしたのなら、報われるべきだろう。物語に登場する英雄たちは、悉く穏やかな表情でその終幕を飾っていた。
ただ、現実は違った。
どれだけ使命に従っても、求められていることに応えても、心はくすみ続けて輝くことはない。
つまり、英雄譚は嘘だったのだ。
いや、あるいはそれこそが英雄譚の役割なのかもしれなかった。同じような人間たちを作り出すための、おとぎ話。それにまんまと人間たちは騙されて、イデルガはその人生を失った。
魔王討伐を果たし、自身の存在意義として縋る先となっていた勇者も、その役目を終えたことで立ち消えた。
自分がわからない。
こうして魔王の娘と相対していても、それが正しいのか判別つかない。
ずっと不安定だ。この呪縛から解き放たれたい。
逃げ出したいこの世にいていい理由が知りたい本当の役割を知りたい心のざわめきを落ち着かせたい何でもいい誰でもいい……――
「……キミを殺せば、答えがわかるかな」
「イデルガ、お主――」
シリウスの双眸が僅かに揺れた、気がした。彼女の表情に変化はない。ただ、冷たい人物だとは思わない。見た目に似合わず情に厚く、感情的だと思う。それを表に出さないようにしているだけだろう。
いま思えば、人語を理解する魔獣たちは全員そうだった。
感情豊かで、自らの好きなように生きている。しかしただ本能に忠実というわけではなく、そこにあるのは確かな秩序。
そこらにいる人間たちよりも理性的で、物事の優劣がわかる者たちばかりだった。
人間と魔獣は、どこで道を間違えたのか。もしかしたら、どこかで互いに手を取り合う道もあったのかもしれない。
ただ、それも最早あり得ない。人間たちは、引き返せないところまで来てしまっている。
「――これで、閉幕だ」
残っていた魔力を全て費やす。精神にまで及んでいた魔獣の本能が薄らいでいく。今、かき集められるだけの魔力量があれば、その腕の一部ぐらいは創れるだろう。
それの出現先は、決まっている。
「――――――――っっ」
何もない空間からそれが現れるのと、鮮血が飛び散ったのは同時だった。
「……やっぱり、キミはそうすると思ったよ」
ノイズのようにぼやけるイデルガの視界に映るのは、紅蓮のように赤い飛沫を吐き出す、シリウスの姿。彼女のその腹部からは、一本の腕が赤黒い血と共に突き出ていた。
魔王の手。ありきたりな魔術結界でも防げない、特殊な腕を創り出したイデルガは、それをルアト目掛けて出現させていた。
避ける間もないほどの至近距離。本来ならば、ルアトが傷つき、致命傷を負うはずだった。
だが。
描いた結果は訪れない。
シリウスは、腕の中で眠る彼を、その身で庇ったのだ。
偶然じゃない。
必然だ。
彼女ならばそうするだろう。そう思っての、最後の攻撃だった。
結果として、彼女は腹部を魔王の手に抉られ、みっともなく鮮血を撒き散らしている。
致命傷だ。助からないだろう。この勝負は、彼女の負けだ。それが覆ることなど、ありえない。
はず、なのに――
「どうして、キミの目はまだ――」
死んでいない。眩しく映る彼女の瞳は、思わず目を逸らしてしまいそうになるほどに、強烈な輝きを放っていた。
羨ましいと、そう感じるほどに。
「――グラフィアケーン兄上」
「……ああ、わかっている」
いつのまにか、魔王の第九子が彼女の隣に立っている。生きていたのか、とそんなぼんやりとした感想だけが脳裏に走る。
彼は呼び掛けに応じると、それ以上の言葉も交わすこともしない。魔王の手から守った翡翠竜の末裔を受け取り、どこかへと立ち去っていった。
「……イデルガよ。余がお主を許すことは、永劫ないだろう」
血を吐き出し、荒々しく紡がれる言葉に、イデルガは動けなかった。喋ることもやっとなはずの、虫の息の相手を前にして、ただ語る声に耳を傾ける。
「父の手はこれほど冷たくはない」
彼女はその手に触れる。魔王の手、しかし同時に彼女の父親の手。そこに込められた想いが、声に乗る。
「父の手はこれほど軽くはない。父の手はこれほど固くはない。全てまやかしで、偽物にすぎぬ」
当たり前だ。そのために創ったのだ。純粋な力としての、精鋭たちだ。彼女に感傷に浸らせるために創ったものではない。そもそも、創られたものは全てイデルガの記憶に依存している。そこから不思議なことに各々が自我を取り戻し、抵抗を見せたのだ。
力としてただ利用していただけ。イデルガにとって、それ以上の意味はない。
「死者にはもう出会えぬ。それを受け入れることこそ、生者に科せられた役目だ。この世を発った者たちの痕跡を集め、未来へと繋ぐことが、今を生きる者の役割なのだ」
シリウスがその手を掴む。決して、破壊できるような強度ではないはずだったが、彼女を貫く手にヒビが入り、そして――
「余は、亡き者たちのために、そして余自身のために、自身の役目を全うする」
彼女がその手に力を込めると、それは乾いた砂のように崩れ、空に散っていった。
そして同時に、シリウスの背中に灯っていた巨大な紫炎が陽炎のように揺らめく。
それはやがて、白い羽へと変化する。灯っていた火は、純白の羽となって、空を舞い散り浮かんで回る。
「イデルガよ、お主を余の中に封印させてもらう」
その羽が封印魔術だと理解したのは、触れた箇所がこの世から消えたから。まるで砂浜に描いた模様が波に消えるように、白い羽が舞うと、そこにあったイデルガの腕は消えて、空が映る。
赤黒い棘も、魔王の胸部も、彼の胴体も、勇者の首も。
舞う羽が吹雪のようにはためいて。
やがて視界が白に染まる。
なんと美しい光景なのだろうか。なんて憎たらしいほど眩いのだろうか。
――ああ、ゼラネジィ、キミが羨ましいよ。
行くべき道がある。辿るべき答えが見えている。
自分にはそれがなかった。行く先不明の暗がりの中、藻掻いて足掻いて、光を見ようとして、闇に溺れてしまった。
自分はただ、勇者という光に落ちた『影』そのもの。目的もなく、意思もなく、ただ追従するだけの存在だったんだ。
最後にそのことに気が付けたのは、僥倖だったかもしれない。
結局自分の役割を見つけられないままに。
イデルガは真っ白な景色に目を閉ざして。
消える意識に、その身を委ねるのだった。
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