ミスティージャ=スキラス⑨
雨が体を打つ。
痛くはない。体温が奪われて、視界はぼやけているものの、今は落ちる雫に感謝していた。
呆然と佇みながら、ただ虚空を見つめる。
先ほどまで、そこにいた。
一番会いたかった存在と、再会できた。
今はもう、そこにはいない。
手を伸ばしても届かない場所へと、旅立った。
なのに。
失ったものは、かけがえのないものであると理解しているのに。
胸中には暖かい、感情が流れ込んでいた。ぽっかりと空いた穴を塞ぐように、陽だまりのような安寧が身を包む。
それはまるで。
家族に、囲まれている時のような、そんな温もりのようで。
一緒に食事をしている時のような、そんな華やかさがあり。
全員で談笑をしている時のような、そんな安心感を覚える。
光は消えた。
黄金の剣も消えた。
実の父も母も、妹も――
それに知覚して、ようやく。
三人を救えたのだと、言い聞かせることができた。
「……ミスティージャ王子」
背中に、暖かい声が掛けられた。振り返ることはできない。ただ黙って、それを受ける。
「助けてくださって、ありがとうございました」
そんなことを言われる道理はない。
自分は、自分のために動いた。家族を救うためという、自分勝手な理由で魔獣を討ったのだ。
「あなたは、命の恩人です!」
手を差し伸べたつもりはなかった。勝手に助かっただけ。そのことで礼を言われても、返せるものはない。
だから、何も言わずに立ち去ってほしかった。
「ミスティージャ王子は、この国を好きだと言ってくださった。私たちも、この国が好きです」
こんなに迷って、立ち止まっている人間の言葉を信じてくれるのか。
生憎、それに応えられるほどのものは持っていない――
「迷ってでも、選ぶんじゃ。先ほど、お前さんがそうしたようにな」
静かな、けれど力強い男性の声が、背中を震わせた。
彷徨っていた視線の、その焦点が前へと向けられる。
鮮明に、瓦礫の山が映った。そこにはもう、夢の残滓すら残っていない。
妹の姿が前を向かせる。
母の微笑みが気持ちを落ち着かせる。
父の言葉が背中を押す。
そして、ミスティージャは袖で目元を拭って、振り返った。
「……こんな国で、悪いな」
「何を仰るんですか。まだまだ、これからでしょう」
集まった人々に宿るのは、暗い絶望でも未来への悲観でもない。ただ穏やかな顔で、ミスティージャを出迎える。
「――皆はここにいてくれ。どこも安全じゃねえけど、あちこち移動するよりマシだろ」
「王子はどちらへ?」
不安そうな瞳を向けられる。きっと彼らには心の拠り所が必要なのだろう。先ほどの魔獣襲撃による不安もあるはずだ。
ただ、自分にはやるべきことがある。やらなければならないことが、ある。
だから告げるべき答えは、決まっていた。
「俺は、他の人たちを助けてくるよ。――それが、俺の選択した道だ」
そこに迷いはもう、見られなかった。確かな意思で紡がれた言葉は、誰にも反対の意見を抱かせず、寧ろそこにいる人々を安心させた。
「それじゃあ――」
「待つんじゃ」
すぐにその場を離れようとしたミスティージャだったが、一人の男性に止められる。見れば先刻、魔獣に一撃を見舞った有翼の青年が、深刻な表情で佇んでいた。
「何か用かよ」
「オレの背に乗っていけ。そうすりゃあ、移動時間の短縮になるじゃろ」
「……なんでそんな――」
その疑問は当然だった。彼がどういった人物なのかは知らない。避難者たちを救ってくれた以上、悪い人間ではないのだろうが、しかし素性もわからない人物を頼るのも憚られる。
迷っている間に、彼はコートを翻し、背を向けた。
そしてその名前を口にする。
「――オレはファルファーレ。シリウスの兄と言えば、伝わるか?」
「……っ、シリウスさんの――」
面影はない。似ても似つかない顔立ちに背格好で、その言葉に信憑性はなかった。
だが、ミスティージャの鼓動は早鐘を打ち始める。
いま、ミスティージャがここにいる理由。
この騒動に巻き込んだ張本人。
一人で前を進む、紅蓮の少女。そこから放たれる眩い光に充てられて、つい手を伸ばした。
その兄が、今も背中を向けて立っている。
これは何かの命運だろうか。自然と、ミスティージャの手はその彼の肩を掴んでいた。
「……頼む。俺は、この国の人たちを救わなきゃいけねえんだ」
「――わかった。なら、しっかり掴まっておるんじゃぞ」
瞬間。
全身を浮遊感が襲った。それが落ち着いた頃、眼下に広がったのは、黒い雲と戦塵立ち昇る街並み。
変わり果てた故郷の姿をその目に映したミスティージャは、黒翼を携える青年と共に、空を駆ける。
この選択を、正しいモノとするために。




