ミスティージャ=スキラス⑧
暴れるように街を下っていく白銀の魔獣を、ミスティージャは追い掛ける。それが通り過ぎていった後は家々が形を失い、舗装された道には亀裂が入っている。祭り模様に彩られた街並みはその面影をなくしていて、ただ退廃的で悲壮感に満ちた空気が漂っていた。
「どこ行くんだよ……、父様……」
そう吐き捨てるものの、魔獣の行動に一貫性はない。どこに向かっているわけでもなく、ただ苦しみから逃れようと必死にもがいているように、ミスティージャには映る。
「あ――」
やがて白銀の魔獣のその身は、大きな建物にぶつかった。同時に響く振動と何かが潰れる鈍い音。
見れば頭部から血を流す姿が視界に入った。
「父様――」
「グルァァアアアアア――――――――ッッ!!」
白銀の魔獣が、咆哮を上げる。
そして眩く光る魔力をその口に溜めて、勢いよく吐き出した。
進行方向の障壁となっていた建物はいとも容易く砕け散り、跡形もなく姿を消す。そのまま、白銀の魔獣は下の層へと降りていった。
ディアフルンの街は城や住宅地がある区画と、市場が集まる中腹、そして分け隔てられた下層部に別れている。
白銀の魔獣がその崖から降りた先は、街の中腹。通常時は人が多くいる区画だが、今は非常事態だ。人がいないことを願いながら、上から様子を覗き込む。
「グルルルル……」
「ま、魔獣……!?」
飛び込んできたのは動揺と恐怖に塗れた声。ミスティージャが抱いていた期待は、その様子を見ることもなく、砕け散ってしまった。
眼下に広がるのは普段は歩き疲れた人々が休むための場所。噴水やベンチなんかが設置されていて、広めのスペースで休憩所として使用されていたと記憶している。
そこに、多くの避難者と思しき人物たちが、魔獣から距離を取るように固まっていた。
見れば騎士や傭兵のような出で立ちをした者もいる。ほんの少し、彼らが奮闘してくれることを望むが、白銀の魔獣はそれすらも打ち払う。
「ま、魔獣め……!」
騎士が剣を構えて白銀の魔獣に飛び掛かるが、ただその尾を振るうだけで騎士の体は吹き飛ばされてしまう。
「や、やべえ! 逃げるぞ――」
騎士が瞬時に無力化された事実が示すのは、抵抗の無意味。
最早統率も取れていないその人の群れに、白銀の魔獣は目もくれない。狂うように暴れ回り、手近なモノを破壊していく。
その衝撃の余波で並ぶ建物が崩壊して、退路として使われるはずだった道が瓦礫によって塞がれた。
「グルァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッ――――――――!!」
「止めてくれ! もう、頼むから……!」
上から声を響かせるものの、魔獣にそれは届かない。
そして、またもその口を開き、魔力を集中させる。
「父様――」
そこには、まだ避難者がいる。逃げ場もなく、ただ魔獣に脅える、守るべき存在が。
このままだと、実の肉親に人を殺させることになってしまう。
しかし、どれだけ呼び掛けても、魔獣は反応を示さない。
自分にできることは、他にないのか。そう迷う時間すらくれない。
「――――――――っ」
やがて、眩いほどの魔力の奔流が、隅で震える人々目掛けて発射される。誰の行動も間に合わない、はずだった。
「グが――――――――ッッ!?」
しかし、惨劇は訪れない。突如飛来してきた黒い影。見れば黒翼を背中から生やした人間で、首を蹴られた白銀の魔獣はその光線を空高くに吐き出した。
「ファルファーレさん――!」
避難者の誰かがそう叫んだ。翼を持つその人物のおかげでひとまずの危機は去った。しかしそれも束の間のこと。
すぐさまその襲撃者を掴んだ白銀の魔獣が、もう一つの頭で再び魔力の射出準備を始めた。
「ぐっ――」
必死に、捕らえられたその人物が抵抗を見せるものの、それは叶わない。彼目掛けて、光線が放たれようとしている。
奇跡は二度は起こらない。
先ほどあった光線の阻害も、本来ならば起こることのない幸運だ。
「誰か……」
これ以上、望めることなどない。
力なく手を下ろして、ふとその存在に触れた。
視線を向けると、腰から下がる黄金の剣。シリウスから渡された、眩いほどの輝きを持つそれを握る。
『――迷ってでも、選ぶが良い。その選択が、お主を導くことになるだろう』
彼女のその言葉が思い起こされる。
――俺は、この魔獣を守ることを選択した。
だがその結果として、罪のない人間たちが傷つこうとしている。それは、望むモノではない。
――俺は、ただ家族を救いたいだけだ。
だがその願いも虚しく、今まさにボロボロに砕けようとしている。
――俺は。
『――余はお主の選択を、尊重する』
記憶に蘇るその言葉が、背中を押してくれたのかは、わからない。
ただ、弱りきっていた全身に力が入る。
――正直、まだ迷ってる。どうすればいいのか、正しいことが何なのか。わかってない。
それでも、その剣を持たせてくれたことに、きっと意味がある。何故彼女がこれをくれたのか、その意図は不明だが、一つだけわかることがある。
――たぶん、きっと。シリウスさんは俺を信じてくれたんだ。
気がつけば、ミスティージャは空中に身を投げ出していた。しかしそれは、衝動的なものでも、諦観によるものでもない。
白銀の魔獣目掛けて、その身を跳躍させる。
雨と共に自由落下していく、彼の瞳には一つの意志が宿っていた。
その正体が何なのか、彼自身にも掴み取れていなかったが、ただ――
迷いは消えていた。
「悪い……、父様、母様、アイディ――」
呟きと、瞳孔から流れた一滴が、雨空に吸い込まれていく。
そして――
「グッ――――――――ガ…………!?」
彼はその黄金の剣を、白銀の魔獣へと突き立てた。
鱗を突き破り、しっかりとその身に刃が入る。そう、ミスティージャが認識した直後のことだった。
白銀の魔獣の体が、黄金の剣を中心に眩く輝きを放ち始める。
「な――」
輝きに飲み込まれたミスティージャは思わず目を瞑ってしまう。しかし、いつまで経っても体に変化は訪れない。
いや、寧ろ何かに包み込まれるような感覚が、全身を巡っていた。
恐る恐る目を開き、そして息を呑んだ。
光の中に佇む、見慣れた出で立ち。
思い出の中で、ずっと変わらないその姿。
ミスティージャの瞳は、ただそれを映す。
「私たちを救ってくれてありがとう、ミスティージャ」
慈愛に満ちた、木漏れ日のような笑顔が向けられる。
「兄さまなら、助けてくれるって信じてた!」
天真爛漫に、そう微笑んでくれる。
そして、彼女たちを抱くように立つ、一人の男性。
厳格な顔立ちから、太陽の光を思わせる優しさが紡がれる。
「これなら、安心してこの国を任せられるな」
いつまでも、ずっと身を委ねていたいその空間。
ミスティージャが何かを言おうと、何を言えばいいのか迷って悩んで。
しかし、その時は訪れる。
「っ……!? 待ってくれ! まだ――」
漂う光が、風に吹かれたように飛んでいく。必死に手を伸ばして掴もうともがく。
それを掴もうと、足掻く、暴れる、縋り続ける。
けれども、光は崩れていく。
それは彼がいるその空間も、そして正面にいる彼らも。共に散り散りとなって――
気がつけば、ぬるま湯のような夢は、その手からすり抜けていった。




