ミスティージャ=スキラス⑥
生まれついて裕福な家で育ったからか、何不自由のない暮らしをしてきた。
父も健在で、母も優しく、可愛らしい妹までいる。本を読みたいと言えば、すぐに用意してくれるし、食べたいものを言えば夕食にはそれが出てくる。嫌味を言う人間も周囲にはおらず、皆温かく接してくれた。
ある種、それが普通で当たり前のことだと思ってしまっていた。
全員がこのような生活を送っていると、そこまでの理解度ではなかったものの、ある程度不自由のない暮らしをしているのだと、そう認識していた。
だから、父に連れられて下層部を訪れた際、あまりにも想像していなかった世界が広がっていて、驚いてしまったのを覚えている。
『ミスティージャ。私はな、この下層部を救いたいと思っているんだ。彼らも、この都市に生きる住民たちだからな』
父の言葉がその場に落ちる。悲しそうでありながら、しかし強い声だった。夕暮れに溶けていく、その下層部の街並みは薄暗く、朽ち果てている。通りがかる人々の衣服はボロボロで、その恰好は決して裕福だと言えなさそうだった。
幸せとは程遠い景色だと、当時はそう思っていた。しかし今となっては、それは一方的な見方だなと思える。
現在、下層部は父が王を務めていた時代よりも待遇が悪くなっていると聞いている。それはイデルガがそうなるように動いていたのだろう。
上層部の人たちからの視線もシャットアウトすることで、より彼の仕事をしやすくした。つまり、人を攫うという行為の発覚を遅れさせるためだ。
都市に暮らす人間を無碍に扱う存在の、何が王と言えるのだろうか。
父ならば、もっと上手く立ち回れたのだろうか。
果たして、今から口に出す言葉は、この国のためになることだろうか。
ミスティージャは迷った。戸惑って、立ち止まりそうになった。
ふと、シリウスと目が合った。
相変わらず、感情を読み取れない瞳を湛えている。手枷を繋がれて、衆人環視で満足に身動きも取れない中、しかし彼女が絶望を抱いている様子はない。
処刑されると、そう理解しているにもかかわらず、だ。
この現状を嘆くこともせず、取り乱す様子も見せない。
もしくは、彼女は未来を見据えているのかもしれなかった。ここではない遥か遠く、その光景をきっと眺めている。
ミスティージャもまた、その先を見る。
見ようとして、前へと向かう。
「俺は、この国が好きだ」
広場に向けて、そしてこの国にいる全ての人たちに向けて。
ただ、自分の声だけが、ディアフルンに響く。
「上層部も下層部も関係ねえ。等しく、好きなんだ。……俺の父様もそうだった」
思いを紡ぐ。父ができなかったこと。それを受け継ぐと言えば、聞こえはいいかもしれないが、本質は少し違う。
父が目指した場所を、自分の力で目指したくなったのだ。
「だから、今のこの国はちょっと好きじゃねえ。下層部も含めて、全部がディアフルンの住民だ。俺は、下層部の人たちも、平等に扱いてえ」
広場がざわつくが、そんなことには構わずにミスティージャは続ける。
「もちろん、上層部も蔑ろにするわけじゃねえ。ただ、知ってほしいんだ。下層で、自由のない暮らしをしてる人間がいるってことも」
「……まるで、これからもキミが生きるような、口ぶりじゃないか。ミスティージャ」
振り返り、現在の王の姿を映す。
わかっている。処刑される前に話すような内容ではないということぐらいは、理解しているつもりだ。
それでも、ミスティージャは語る。
未来を。
上層部や下層部など関係もなく、この都市に暮らす全員が笑って過ごせる、そんな平和なこの国の姿を、描く。
「生きるさ。生きなきゃ、いけねえんだ。この国を背負えるのは、俺しかいねえんだからよ」
高みに佇む王を睨む。ただの挑発行為でしかなかったが、それもまたミスティージャが選んで、取った行動。
イデルガはその瞳を揺らがせず、ただ受け止めるだけ。最初から期待していないような、つまらなさそうな瞳だ。
――そうだな、あんたにとっちゃ、俺はその程度の存在なのかもしんねえな。
だが、最早彼が自分のことをどう評価していようと関係はなかった。
深呼吸をして、思考を整える。
そうして最後に、思ったことをそのまま口にした。
「――邪魔なんだよ、勇者イデルガ。俺たちの国で遊ぶんじゃねえ!」
体が宙に浮いた。そう思った直後、背中から床に叩きつけられていた。肺の中の空気が一気に吐き出されてしまう。
「不敬ですよ。それに、口が悪い」
「し、師匠らしくねえじゃねえか。そんなにイデルガのこと気に入ってたなんて、知らなかったぜ――いててて!」
組み伏せられたまま口答えするものの、腕に力を込められてしまう。トゥワルフの瞳は既に胡乱で、虚ろだ。一体、彼自身の意志はどこまであるのだろうか。そんなことをぼんやりと考える。
「問題ないよ、トゥワルフ。どうせ何もできない。所詮、死に行く者の戯言だ」
組み伏せられて仰向けになっているせいで、憎いイデルガの顔を嫌でも見る羽目になってしまっている。
彼は首を横に振って、視線を空へと向けた。
と、ミスティージャの鼻にもそれが当たった。
曇天がその存在を主張するように、水滴を振り撒く。
雨が、降り始めた。
「天気が崩れた。あまりぐずぐずもしていられない。処刑を――」
「良い魔道具だな」
イデルガの言葉を遮って、シリウスが澄んだ声を発した。
明確に、彼は眉を顰めて彼女に視線を向ける。
「……どういう意味だい?」
「そのままの意味だ。先ほどミスティージャの声を街全体に響かせていた、それだ。恐らく声を魔力に変換させて飛ばしているのだろう。……魔力の帯域はこれぐらいか?」
「何を――」
その声にシリウスが応じることはなかった。
代わりに発せられたのは彼に対してではなく、広場に向けて。
いや、虚空に紡がれた声が、街中に響き渡る。
『ああ、これで聞こえておりそうだな。――初めまして、余はレ=ゼラネジィ=バアクシリウスという』
どのような方法を取ったのか、彼女は魔道具による入力を必要とせずに、出力先から声を出している。
彼女の綺麗な声が、ノイズ交じりに街を駆け巡っていく。
『余の目的はただ一つ。この国にいる、『影の勇者』イデルガを討伐することだ。サンロキアに蔓延る魔獣、それを創り出す張本人とも言い換えられるか』
突如として響く声に、大広場には混乱が生まれている。明らかに動揺している観衆たちと比べて、対してイデルガはと言えば表情を崩していない。
「何を言っても無駄だ。こんな魔王の娘の妄言を、いったい誰が信用すると思う?」
『お主の言う通りだ。だからこれは告発でもなんでもない』
「……?」
イデルガはその眉を顰めた。シリウスの意図が読めないことに、当惑しているようにも見える。
ミスティージャにも、また彼女の考えが読めない。そもそも、処刑されないという前提は彼女の言葉の上に成り立っている。細かい作戦などはなかった。
シリウスの声が一時的に止んで、雨音がやけに大きく聞こえてくる。しかしすぐに、それは彼女の声に掻き消された。
『聞いておるか! 魔獣たちよ!』
ひと際、声を張ったようだった。彼女のそんな声量を聞いたことがなかったミスティージャは、ただ独り唄う彼女を見つめることしかできない。
『イデルガに創られた憐れな魔獣よ。魔獣生成の実験として攫われ、獣となった罪なき人間たちよ。不当な境遇を嘆く暇はもうない。今こそ、反旗を翻す時だ』
彼女の声に呼応するように、雨脚が強くなる。
誰も、彼女を止めようとしない。イデルガでさえも、ただ彼女を睨んでいるだけで、それを聞いている。
まるでこの舞台が、シリウスのためだけに作られた、ステージのようだった。
そうして、呼吸をするように吐く言葉は、次の言葉で締め括られた。
『……我に返れ。そして――』
彼女の声は、無機質で無感情だと思っていた。それが短い時間ながらも、接してきたミスティージャの評価で、恐らく誰が接してもそう感じていただろう。
しかし、今はそうは思わない。
少なくとも、次に紡がれたその言葉には多分に。
慈愛が、含まれていたのだから。
『――決起せよ』
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