魔王の娘と竜と人間の子 後編
その声は、透き通っていて、けれども少女のように甘い心地だった。それだけで、固められていた警戒心は解かれてしまう。
その言葉には一つも信じられる根拠もないというのに、あっさりと信用してしまえた。
「武器を使った戦闘は、やはり生業としておる者に分があるな。此奴らよりも、強い人間はきっと多いだろう。試してみて良かった」
彼女が手にしていた短剣は消え、そのまま立ち去ろうと背を向けて歩き始めた。
声を、掛けるべきだろうか。もし呼び止めて、怒らせてしまったらどうする。機嫌を損ねて殺されてしまったら本末転倒だ。救われた命を、むざむざ危険に曝す必要はない。黙って見送るのが得策だろう。
「あ、あの! お名前を……!」
しかし、お礼も言わずに別れることなど、できるはずもなかった。青年はよろよろと立ち上がり、彼女の背中に声を投げ掛ける。
内心、心臓が口から飛び出そうなほど早鐘を打っていたが、彼が予想していたことよりも、遥かに静かに、穏便な結果が待っていた。
「余の名は、レ=ゼラネジィ=バアクシリウス。十二いた魔王の子、その唯一の生き残りだ」
「魔王の……!?」
振り返りそう言う彼女の名乗りに、驚き、言葉を失う。十年前に倒された、一国の王。その子どもが生きていた。その事実を信じられる理由もなかったが、しかしここまでで見せられてきた彼女の挙動には、妙な説得力があったのも事実。
続く言葉を編み出せないでいると、魔王の子から声が掛かる。
「お主の名は?」
「え?」
まさか名前を尋ねられるとも思っていなかった。狼狽えていると、彼女は嘆息を漏らす。
「よもや余だけに名乗らせておいて、お主は名乗らぬというわけではあるまいな」
「い、いえ! ぼ、僕はルアトって言います」
「そうか、良い名だ。……時にルアト、お主ドラゴンの血を引いておるな」
何故そんなことを知っているのか、と。驚くこともない。
長身に端正な顔立ち。父親譲りの黒い髪を、後頭部で一つにまとめて垂らしている。
そして何より特徴的な部分として、耳の上辺りに生えた二本の翡翠色の双角。これがある限り、自らを純粋な人間であると明言することは難しいだろう。
彼女がそんな質問をするのかは甚だ疑問ではあったが、隠すことでもないので素直に頷いておく。
「そうですね。僕は母からドラゴンの血を、父から人の血を引いています。そんな異形な僕を、この村の人たちは分け隔てなく接してくれていました」
そう、言葉にして。
今更にして、改めて故郷を失ったのだという実感が襲い掛かってきた。
どれだけ振り払っても、藻掻いても。その現実はいたずらに顔を覗かせてくる。
窮地を脱したという安心感と、何もかもを失ったという空虚感が混ざり合い、それが涙として滲み出る。
「……そうか」
彼女の言葉は、変わらず平坦で、感情の起伏はないように思えた。
けれども、どうしてか。
慈愛に満ちているような、春に浴びる陽射しのような心地良さが、確かにあった。
「だが、お主が生きておるだろう」
その言葉と共に、一陣の風が吹く。不規則で不自然で、けれどどこか暖かい風だ。
人を、家を、村を焼いていた火はその一瞬の風に消され、夜の帳が降ろされた。
訪れたのは静寂と、火事の残煙。そして青白く降り注ぐ月光。
「死ぬまで生きろ。お主には生き残った責任がある」
風に煽られて、露わになったその相貌。紅蓮の長髪が揺れ、蒼い瞳が月夜に輝く。
その姿は美しく、そしてどこまでも気高かった。
「過去に縋って生きることも、未来に向かって進むことも、選択肢は無数にある。好きな道を歩む義務が、お主にはある。――ああ、復讐だけは止めておけ。思いのほか、大変だからな」
今度こそ彼女はその場を去った。
周囲には、失われた故郷と村を襲った兵士の骸。それ以外には、何もない。
焼けた臭いが鼻を刺激し、惨状に眼が眩む。口内に広がった血は不快な粘り気を帯び、肌をなぞる風は冷たく痛い。
それらが、押し殺していた激情の堰を切る。
日常が壊されたこと。自分だけが助かったこと。何もできず無力であるという事実。もう、望んでも誰も帰ってこない現実。
そして、そんな暗く沈んだ世界に現れた、一人の少女。
全てを綯い交ぜにした慟哭が、空に響く。
ただ精いっぱいに感情を吐露する彼のその姿を。
星々だけが、見下ろしていた。




