プロローグ
「余の名は――」
絶望の中に見えた、希望へと手を伸ばす。飢え乾いた空洞に、注ぎ込まれるのは果たして甘露な蜜か、苦渋の辛酸か。
どちらでもいい。
果てに見据えるその先には。
誰も、いないのだから。
◆
復讐は、砂糖菓子のように劇毒だ。
心を乱す潮流は、全身を虚脱させて巡る。込み上がってくる感情は常に空回転をし続けて、思考を削るばかり。ただ空っぽになった胸が、激しく痛むだけだった。
声はまだ忘れていないか。匂いはすぐに思い出せるか。
肌の暖かさは、憶えているか。
それまで近くにあったはずのそれを思えば思うほどに、体が痛む。求めれば求めるほど、ぶつけようのない激情に飲まれて苦しい。綯い交ぜになった感情は行く当てもなく、ただ目元から雫となって乾いた地面に吸い込まれていった。
そこには高い天井があった。竜一頭ぐらいなら首を屈めなくても済むほどの天井だ。
そこには丈夫な壁があった。激しい喧嘩をしても簡単には穴が開かないほどの壁だ。
けど、今は何もない。天井は機嫌の悪い空を映していて、壁は荒野をどこまでも広げている。
豪奢な絨毯や調度品の数々に、照明器具。数えきれないほどの書物、それら全て。
その存在が確認できないほどに、ボロボロで地面に転がっていた。立派だった壁は壊され、石畳の床は大きく穿たれて傷だらけ。
昨日までは美しい城があった。
今までは多くの命で溢れていた。
ただ、今は――
そこにはたった一人の、少女しかいなかった。
「……泣いているのか?」
「――っ!?」
いつの間にそこにいたのだろうか。瓦礫の山に、一人の老翁が立っていた。紅い瞳に白い艶のない髪。皺だらけの顔を苦しそうに歪める彼に、少女は咄嗟に手近に転がっていた剣を拾い、構えた。
「……お主、勇者連合軍の一人だったやつだな。余を、殺しに来たのか」
その顔には見覚えがあった。昨夜、この魔王城に攻め入ってきた十二の勇者たちが率いる連合軍。その中にいた、一人の魔術師だ。
涙を拭いながら、弱々しく剣を向ける少女に、その老翁は首を横に振った。
「私はここに戦いに来たんじゃない。昨夜感じた微かな魔力。姿は隠されていたが、確かにその存在は認識できた。私は今日、その意志を確かめに来た」
「……なんだと?」
一瞬、彼が放つ言葉の意味が理解できなかった。戦いに来たのではないのなら何をしに来たのか。真面目に捉えかけたところで、思考は湧き上がった怒りで塗り潰された。
「嘘を吐くな! 人間たちは平気で嘘を吐く! そう言って余を殺そうというのだろう!」
握る剣に力が籠る。体の震えは止まらない。それは怒りか、それとも恐怖か。これから殺されてしまうことへの恐れが、ないわけがなかった。
「……それで心が晴れるのか?」
「うるさい」
「それで、お前さんが苦しみから解放されるなら、私は喜んで殺されよう」
「うるさい!」
怒りが、弾けた。気がつけば体がその老翁に向かって跳ね、その首目掛けて剣を振るう。
だが――
「……っ!!」
剣は、彼の体を傷つけない。斬撃も衝撃も、全てを殺されたかのように剣先が彼の体に触れて、やがて持っていた剣がボロボロと灰となって崩れ去った。
「……お前さんのその魔力、討たれた魔王の血筋のモノだろう?」
剣を持っていたその手元を呆然と眺めていた少女に、老翁は何も起きなかったかのように、優しく言葉を落とす。まるで慰めるように。あるいは、憐憫も含めて。
「家族を奪ったこと、どれだけ償っても償いきれん。失った者を返す術は、この世界にはないからな」
「……っ。勝手に奪っておいて、勝手に哀れむのか。人間は、どこまでも許し難い生き物だな」
力強く睨み、暴れる思いを吐き出す。幾らでも罵声を浴びせることができる。そう思うものの、言葉に出してもその心に膿んだ傷が晴れることはなかった。
「……復讐をするな、とは言わんよ。それもまた、お前さんが選ぶべきことだ」
「言われなくとも、そのつもりだ! 余は、父と家族を殺した勇者を全員、殺す」
溢れる決意を口にする。その想いは本物だ。誰に止められても、例え首一つになってもやり遂げるつもりだった。
全身が熱を帯びたように熱い。ぐらぐらと、視界が揺らぐの自覚する。悲鳴のような幻聴まで聞こえ始めてきた。怒りに支配された心が、叫んでいるようだった。
「だが、今のままでは無駄死にするだけだ」
「――っ!! そんなこと、お主に関係がないだろう! 余は魔王の娘だ。お主たちにとっての敵! その敵が死んだところで、何もないはずだ!」
力の限り吠える。目の前に立つ老翁を拒絶するように、遠ざけるように。
「関係ある。私は、約束したんだからな」
「な、何を――」
彼が一歩歩み出る。身構えるものの、武器も何もない。必死に逃げようとするが、体が上手く動かなかった。
そして、彼の手が動いた。咄嗟に、目を瞑る。
「――っ!?」
「私にできることは、お前さんを生かすことだ」
聞こえてくるのは、変わらない優しい声音。力強く瞳を閉じたが、いつまで経ってもやってこない衝撃に、恐る恐る目を開くと、穏やかな笑顔と共に、手を差し伸べる老翁の姿が映った。
「お前さんが一人で生きられるその時まで、私はお前さんの世話をしよう。必要なら、戦う術も与える。……それが、他ならんお前さんの父からの頼みだからな」
「――父の……?」
思い出される、大きな背中。固くも優しい手のひら。安心感のある落ち着いた声。最後に見たのは、太陽のように穏やかな笑顔だ。
涙が、一滴、少女の頬を伝う。
もう、父は戻ってこない。
その現実が浮かんで、心を絞めた。
「お前さんの父は、人間を信頼しようとしていた。人間側は、上手く意見がまとまらず、強硬派によって魔獣討伐の道を選んだが、それでも最後まで彼は人間たちを信じようとしていた。……結果は残念だったが、私は、お前さんが彼と同じ意志を継いでいると信じている」
「……」
「無理にとは言わない。信用してくれとも、言わない。だが少しだけ、私の贖罪に付き合ってくれるか?」
彼は、迷うように一歩一歩慎重に、こちらの様子を窺っている様子で話す。
老翁が悪人かどうか。父との約束が本当なのかどうか。少女に確かめる術はない。少女は、何も知らず、花のように育てられてきたのだから。
だからこそ、知りたかった。
父が何を考えて、何を思っていたのか。
人間が何を信じて、どのような道を歩むのか。
この老翁の話を信じれば、何となくわかるような気がしたから。
「……うむ。よろしく、頼む」
そう言って、彼の手を握る。温かい、陽だまりのように心地良い温もりが、伝わってきた。
「そう言ってくれて良かった。私の名前はウェゼン。ウェゼン=セイラスだ。お前さん、名前は何と言う?」
風が吹き、未だ立ち込める戦塵がなびいた。停滞した空気が、流れていく。
少女は、一度息を吸い込んで、改めて深く吐き出す。
そして、その名を口にした。
「――余の名は、レ=ゼラネジィ=バアクシリウス。お主たち人間が討ち取った魔王の、第十二子。……魔王の血族、最後の生き残りだ」
◆
これが魔王軍討伐記として、人間たちの間で語り継がれることとなる。
そして勇者たちはそれぞれの依頼元へと戻り、多大な功績を讃えられて悠々自適な暮らしを送るモノもいれば、王となるモノまで現れた。
世界が、魔のモノを殺す。
人間の偉業を担ぎ上げ、脳から魔の存在を消し去ろうとしていく。
何も、残らない。
魔獣の残党は当然のように狩られていき、その数を減らす。
魔王城は既に廃墟と化し、新たな生命も生まれない土地となった。
やがて十年の月日が流れて、魔王という存在を誰もが忘却した。その脅威を、その行いを、その記憶を。
時間が、ゆっくりとすり潰すように薄めていく。
魔王は滅ぼされた。歴史となったその事実は世界中を漂い、根付き、おとぎ話となり果てる。
しかし、忘却に抗うモノもいた。
誰よりも近くで見ていて。誰よりも魔王を想っていて。誰よりも助けたかった。
忘れられるわけがない。忘れていいわけがない。例え世界中が忘れようとも、自分だけは憶えていなければならない。
その思い出、その背中、その顔、その魔術、その声。
今は、胸の内に秘めておこう。
そうして、誰も彼もが王の存在を忘れていく中。
魔王の意思は受け継がれる。
ただ一人の、娘へと――




