竜公女サマは悪女改め
(そっと、そうっと触るのよ!)
言葉なんて理解できない先からそう言われて、ただ、わからないなりに、どうするべきかの感覚は伝わってきて。
しかしどうにもならずにぎゅうっと握る。そこにある確かな感触。
(あっぶな)
「まあ、私の手を握りましたよ! 本当に可愛らしいですねぇ」
「ふふ、ああ、私の娘。コホッ、元気そうで、良かったわ……」
時折聞こえていた、誰かの会話。
ふわふわしたものにくるまれて、ただ寝て、食べて、出して。
(触る時は、そうっとするのよ! そう、いいわよ!)
それが自分にしか聞こえない声なのだと気が付かないまま。
彼女は成長した。
人に触れる時は、絶対に力を入れてはいけない。
その日、彼女は加減を間違えて、掴まえたベッドヘッドを砕いてしまった。
古いから壊れてしまったのだろうと乳母は言い、木片で怪我をして泣いていたところを治療してくれる。
あやすように背中を撫でられて、抱き着きたかったけど、ぐっと我慢した。
本当ならまだ感情のままに動くような幼児にもかかわらず、彼女はとにかく我慢強かった。
自我の芽生えが早かったというか、彼女の中にいる声が、子供のままでいることを許さなかったのだ。
「痛かったですね、もう大丈夫ですよ」
「う……ありあと」
「勿体ないお言葉です」
ふんわりと笑う乳母の顔に笑顔を返して、道具を片付ける背中を見送る。
母親が亡くなって、この離宮には乳母と若いメイドだけが残された。
王の側妃の中でも順列が低く、ともすれば愛妾よりも放っておかれていた母。父親との間に子供はできたが、見向きもされなかった。
近くの布を手に取り握りしめる。
丸めてぎゅっとしたら、カチカチに固まったボールみたいなものができた。
それを床に転がして、近くのソファへとそっと座る。
「ふう……」
手をにぎにぎしてみる。如何せん、とにかく力が強いらしい。
本当は、赤ん坊のころに乳母に差し出された手を握り返す、いや握り潰すところだったのを、彼女の心の声が押しとどめた。そう申告されたので、きっとそうなのだろう。
とにかく何かに触る時はそっと手を添えるだけ。それだけでも、ちょっと握力が強い程度になるようで、ものによってはひびが入ったり軋んだりする。
全く制御のできないこの力は、日常生活では大いに邪魔になる。
先ほどのベッド粉砕事件がまさにそれだ。
かといって、身の回りの事を代わりにしてくれるような人もいないので、とにかく慎重に、壊さないようにと心がけて動くことにしている。
ゆえに、彼女の動きはいつも緩慢で、一つの事をこなすのにとてつもない時間がかかっていた。
それでも、この離宮にいる限りは特に問題はなかった。
「ああ、どうしましょう……」
離宮に届いた手紙を見て乳母が困ったようにため息をつく。
彼女と若いメイドの子は顔を見合わせて、乳母に近付いた。
「どうしたの?」
「ああ、お嬢様。それが……」
各離宮に、今いる使用人を十人以上解雇するようにと通達がされたと乳母が言った。
それは確かに困った事態だ。
離宮は妃と妾の数だけ存在していて、それぞれに使用人がいて、後宮というか王宮北部にあった貴族街の一部を塀で囲って王族の住まいにしている。
この家の屋根に上れば、その一角を目にすることもできる。ここは町の隅っこにある雑木林の中なので、木々の合間を縫って覗き込むような感じでしか見ることはできないけれど。
彼女はこの屋敷から出たことはないけれど、心の声がそういう場所だと言っていた。
(使用人なんか二人じゃない。どうやって残りをかき集めろっていうの)
「それ、絶対に守らなきゃいけないの?」
「そうですね……後宮管理人からの連絡ですから」
(適当にでっち上げれば? いちいち本人がいるかチェックなんてしないでしょ)
確かに、こんな場所までやってきて、使用人が十人揃って出て行くかなんて確認するだろうか。
通知には解雇対象の人名記入欄があるようだ。これを管理人のところまで持っていく必要があるらしい。
「これ、十人分の名前を適当に書いたらダメ?」
「お嬢様」
乳母が一気に怖い顔になる。
思わずびくりと肩が揺れた。隣のメイドも驚いている。
「書類の改竄を、嘘をついてはいけません。王族としてではなく、人として最低の事なんですよ」
「えと……ごめんなさい……」
(でも、馬鹿正直に生きてちゃ損するだけ。そもそも、こんな人数で屋敷を回せるわけもなし)
「でも、二人がいなくなったら……」
(それに、彼女たちの生活もどうなるの。いきなり解雇されて放り出されて)
その言葉に彼女はハッとした。
確かに、二人だって困ったことになる。
「どうしよ……」
じんわりと、眦に浮かんでくるもの。
それを木綿のハンカチでそっと吸い取られた。優しく笑う乳母がそっと頬を撫でる。
「なんとかなりますよ。お嬢様は、ご自分の事はご自身で出来るでしょう?」
(一番の問題は食料なんだよなぁ。なんとかならんて)
「ねえ、私達、辞めないといけないの?」
それまでずっと成り行きを見守っていたメイドが不満げに口を開く。
乳母は全てを諦めたように、力なく笑った。
「そのような通達だからねえ」
「はぁ!? 辞めさせられて、そのあとどーすんの! 退職金は出るの?!」
「そこまで面倒見てくれるかわからないけどね。多少の金銭は恵んでくれるんじゃないかしら」
「あーもう、こんなとこに押し込められた挙句、強制解雇って! 王宮ってもっとイイところかと思ってたわ」
日ごろから愚痴を口にしていたメイドが、やっぱり文句を言った。
どういう経緯で雇われたか、こんなところでも働き続けていたのだから事情があったのだろう。
ちなみに仕事の腕は悪くない。彼女は掃除の仕方も料理や洗濯もこのメイドから教わっている。
「あの……ごめん?」
「はぁー。あんたのせいにはしてやんないわよ、お嬢様。世の中って世知辛いわね」
いいこと。そういって、メイドはずいっと顔を近付けてきた。
「いきなりの解雇通知ってことは、財政状況が良くないのよ。後宮管理費が捻出できないの。だから、人件費を削ってるのね」
「かんりひ」
「そ。奴隷廃止の風潮もあるでしょ? タダで使える労働力がなくなった上、収入が減れば自然とそうなるわ」
(そのとおりね。国側としては魔獣が頻繁に出現するようになって、そちらに予算を割かなきゃいけないし。民側は魔獣被害で人も土地も減っているのに税金は減らないし、王族が豪遊しているから、わかりやすく不満が溜まってるはずよ)
「魔獣が出てる?」
「そう……そういう事もあるかもね」
答えて、メイドは何かを考えるように腕を組んだ。
それを見上げる彼女の肩を、乳母がそっと掴む。
「お嬢様。私たちはここを去ることになります。ですから、お嬢様は、御父上に保護を願い出てください」
「おとうさま……?」
「いくら何でも、幼い娘を一人でこんなところに住まわしたりしないでしょう。ですから、現状を訴えて、他の離宮にでも置いていただくのです」
「それが良いわね。少なくとも死んだりはしないでしょ」
「こら、お嬢様にそのようなことを」
「はいはい、すみません。解雇されると思ったら、もうどうでもいいわ」
これでも猫を被ってたんですよね、というメイドの言葉に乳母がため息をつく。
(メイドちゃん、結構いい性格してたのか。もうちょっと話をしてみたかったな)
「お嬢様、こちらのリストを管理所までお願いします。その時に、御父上に会いたいと訴えれば良いでしょう」
乳母が近くに置いていた筆記具でサラッと二人の名前を記入した。
この家はそこまで広くはないが三人で暮らすには過分で、使わない場所は放っておいている。
そして、こういったときに効率よく作業が行えるよう、見た目を完全に捨てて利便性を重視した各種家具や道具の配置に落ち着いている。
「私たちは荷物をまとめておきます。では、これで」
深々と頭を下げる乳母とメイド。
状況を知れば、その場で保護されることもある、つまり顔を見るのも最後になるかもしれない。
そんな思いが見えて、喉に何かが詰まる。
(さようならは言わなくていいわ。戻ってくるから。国王との謁見がすぐに叶うことはないもの)
「うん、私の荷物もお願いね」
「はい、行ってらっしゃいませ」
玄関から外に出て、くるりと向き直る。
赤ん坊のころからずっと過ごしていた場所だ。それなりに思い入れもある。
特に壊さないようにと気を付けていたけれど、見えないところが破壊されている箇所もある。
(思い出は心にあるかい? なら、次は前に進むべし。ってな。かっこ良い?)
格好良さは伝わらなかったけれど、するべきことはわかっている。
後宮の管理所は町の出入り門の近くにある。
開け放たれた扉から、訝し気な視線を受けながら中に入れば机がカウンターのようにしつらえられていて、それを挟んで言葉を交わす役人と商人の姿、警備の騎士の姿などもあった。
(思ったより効率重視だね、これは。システムチックな)
「じんいんさくげんの件できました」
机の前にいる、話をしていない人の前に行って申告をすれば、じろりと見下ろされる。
手にした書類を差し出せば慇懃に奪い取られて、あからさまに面倒くさいとため息をついた。
「各宮への人員削減の通達は、十人以上です。あと八人分、記載したら持ってきてください」
(そんなにいないわよ)
「あの、それ以上はいません」
「ここにはあなたの名前も?」
「それは、ありません」
「ならご記入ください。貴女は下女ですね? 他の方が辞めないなら貴女が辞めてください」
平坦な声でそう告げられて、彼女は瞬きを繰り返した。
そうだ、そもそも使用人とは、仕える相手がいるから必要なものだ。
主のいない宮ならば、使用人は必要ない。
最も、そうでなくとも人はいないのだが。
(ああ、そうだね、辞めてやろう。ここも外も変わらんよ)
「わかりました」
彼女はリストに自分の名前を書き足そうとした。
ファルタニア・アルトハスト、のフの辺りをつづろうとしたところで、心の声が待ったをかける。
(下女が文字を知ってるわけないじゃん。適当にバツ印でも書いた方が良い)
そういうものか、と思って、素直にバッテンを書いた。
それを差し出せば、待っていたらしい役人の人がまたしても嘆息した。
「お名前は」
「……ファル」
「こちらで訂正しておきましょう。それでは、今までお勤めご苦労様でした」
そのまま書類を手元に引き寄せて、別の作業に移ったのかもはや顔を上げてこちらを見ることもない。
ファルは、手続きは終わったとばかりにその場を後にした。
もう辞めるのだ。王女でもなんでもない。ただのファルになる。
「これからどうしようか?」
(いったん、屋敷に戻りましょう。乳母とメイドに話をして、どちらかについていけばいいわ)
父親を頼るよりもよっぽど現実味がある。
心の声に頷いて、彼女はもと来た道を戻っていった。
屋敷に戻って、出て行くことになったと乳母とメイドに告げて。
どちらかについていきたいと話したけれど、二人とも渋面だったから、孤児院に行くことにした。
前にメイドが、孤児院とそんなに変わらない暮らしだと言っていたからだ。
「たいしょくきん? は出なかったから、このお屋敷の、かねめものの……もっていっていいよ」
ファルの言葉に、乳母は母親の持ち物を少し、メイドはそれ以外に残った宝石類を取っていった。
そのまま退去の言葉を残し、あとを引かれるような顔で乳母が去っていく。
それをメイドと二人で見送って、一息ついた。
「それじゃ行きましょっか、お嬢様」
「え?」
「孤児院って一つしかないって思ってる? 私がいたところを紹介してあげるわ」
(渡りに船ってこのことかしら)
「うん、ありがとう。えっと……」
「エデよ。まさかと思ったけど、私の名前、忘れていたのかしら」
「えっと、えへへ……」
誤魔化すように笑ってみたが、呆れた顔で頬をつつかれた。
「それから、孤児院に着くまでは姉妹で通すわよ。そのほうが面倒がなくて良いの」
「わかった。エデお姉ちゃん」
「上出来」
にやっと笑って、メイドが自分の荷物を持って歩き出す。
それに遅れまいと、ファルもカバンを持ち上げた。
(意外と面倒見がいいよね、メイドちゃん。孤児院でも慣れるまでは気に掛けてくれそう)
「あっ、あの、エデお姉ちゃん」
「なあに?」
「私、ファル。知ってる?」
隣まで走っていって見上げれば、乱暴に頭を撫でられた。
「知ってる、妹のファル」
「……うん!」
メイドと下女の姉妹が後宮を去り、王都の喧騒の中へと消えていく。
日常の一幕でしかないそれは、誰かの目に映っても、特に記憶に留まることもなかった。
*
人員削減のための通達は各宮に届けられたものの、申告自体はそこまで順調ではなかった。
早々に提出してきた宮もあったが、それは気に入らない使用人がいただけの事。
また、各宮で調整して、解雇した人員を再雇用するという、実質的にただの異動が行われたこともあり、結局のところ、目標はそこまで達成できていなかった。
「全く、予算も削られてるってのに、女ってのは呑気なもんだよな」
「本当だよな、金の事なんて全然わかってない」
管理所の休憩室で同僚と愚痴をこぼす。
彼が書類を受け取った四姫の所が一番早かったが、そこだって三人だ。あと七人はどうなったのかと問いたい。
「上もお冠でな、今度は確実に人を辞めさせてやるとか、監視のために人員を派遣するんだとよ」
「うわ、面倒臭ぇな。やりたかないね」
「女の金切り声って苦手なんだよなぁー」
「得意な奴なんていねぇよ」
「やるなら楽なところが良いよな。四姫の所とか」
そういって笑い合う。
仕事を決めるのは上だが、実働は自分たちだ。ならば、できるだけ楽をしたい。
「ま、でも四姫の所はないけどな」
「なんでだ?」
「あそこは元から、少数精鋭だからだよ。二人辞めたら使用人なんていなくなるぞ」
「えっ」
「知らなかったのか? だから今回の整理でも対象外だ」
それからまた、今後発生しうる仕事の内容に話は移っていく。
ファルの相手をしていた役人は青ざめた。
受け取った書類は、確かに最初、二人分の名前があったはずだ。
じゃあ……三人目の、彼女は?
とりあえず、すぐに戻って書類を破棄してしまおう。
彼はそう考えた。
不始末は、証拠がなければ追及できない。そもそも、申告してきたのは通達がいったからだ。
ならば、悪いのは、通知した奴だ。
***
竜王が伴侶を探しているという。
竜とは世界の支配者である。その中の王が番を探しているという。
それは同族とは限らない。
竜王の国から使者が飛び立ち、世界各国へ伴侶探しの通達がなされた。
もちろん、自国の人員が選ばれれば栄誉である。
なお、竜の伴侶は獣人族から出ることが多い。巨人族や妖精族だったこともあるようだが、只人族から選出された過去事例は存在しない。
が、なぜか今回、竜王の国から只人族の国の一つへ指名が入った。
ファルタニア・アルトハストを送るようにと。
そんな王族など存在しないと当国の王は思ったが、宰相が記憶していた。
末の姫が、たしかそんな名前だった。
「いや、そんな娘はいない。竜王の国が無茶を言っているに違いない」
「滅ぼすためにですか? そんな労力をかける必要が我が国にはありません」
可もなく不可もない只人の国である。
隣国ならまだしも、竜王の国に目を付けられるいわれがない。
「ファルタニア・アルトハストは存在します。……アライト公国出身の側妃の事は覚えておられますか」
「……ああ、なんか、いたような……? 滅びそうだからと言って押しかけてきた女か?」
「ご懐妊なさっておりました。姫殿下だったのでしょう。お名前が書類にあったような」
「ああ、そういえば娘は四人いたな。見たことのないのが、そいつか」
数だけは知っている。仕事関連のどこかの書類で、そんな記述を見た記憶がある。
よくよく思い返してみれば、娘は三人しか見たことがない。
「ではすぐに、ファルタニアを送れ」
「はい」
存在すら忘れられているような姫が、竜王の国とのつながりのために役に立つと言うなら是非もない。
それに相手は只人とは違う常識の中で生きている生物である。こちらの国での知識も礼節もなにもなくとも問題ない。
一言、竜王の国に行けと命じるだけで終わり。
そのつもりだった。
「はあ? ファルタニア様が応じない?」
四姫の離宮にやった使いが一人で戻ってきたのを見て、上役は眉を顰めた。
かといって、踏み込むわけにもいかない。いかなボロ屋でも、王族の住む屋敷である。
騎士の手配をするべきかと悩んでいる所に、戸惑いがちな声が上がった。
「それが、あの、お屋敷には誰も居らっしゃらない様子で……」
「そんなわけないだろう。ファルタニア様の外出録はない」
後宮に住む王族は、例外なく外出時に申請が必要だ。
彼女の宮を訪うにあたって、各種記録は確認してある。
食料の配給はされていたし、衣類も受け取りのサインがあった。
手紙の類は返信こそないものの、投函口から溢れていたという履歴はない。
給金も届けられているはずで、彼女は未だにそこに使用人二人と住んでいるはずである。
「本当です、庭の草木は伸び放題で、外壁には蔦に覆われています。屋根の一部が傾いてもいますし、とても人が住んでいる雰囲気では……」
「人が少なく、そこまで手が回らないのだろう。応じないなら仕方ない」
強制的に扉をこじ開けるのみである。
彼は手続きが面倒くさいとぼやきながら、それでも手早く書類を揃え、騎士たちに依頼を出した。
ことは竜王の国が背後にあるので、宰相も現場にやってくる。
後宮の片隅、雑木林に埋もれたような屋敷の前に、騎士団の一個中隊と宰相とその補佐が並ぶ。
人目がないので騒ぎにはなっていないが、物々しい雰囲気である。
「では、開けてくれ」
「はい」
工具を使ってこじ開ければ、蝶番まで壊れたのか、扉がばたんと奥に倒れ込んだ。
その衝撃で辺りに埃が舞う。突然の事に咄嗟に袖で口元を覆うが、その時点で宰相は違和感を覚える。
常日頃、出入りする場所にもかかわらず、ここまで埃が溜まることはあるのだろうか、と。
鬱蒼とした茂みと半ば一体となった屋敷内にはもちろん明かりもなく、奥まった場所に淀んだ闇が人を飲み込んでいきそうな不気味な暗さを揺蕩らせている。
倒れた扉をどかせば、その下には山積みになった封筒があり、誰も受け取っていないことを証明していた。
宰相の背筋がゾワリと粟立つ。
「さ、さがせ!」
「はっ!」
騎士たちが屋敷に踏み込んでいく。
二階に上がろうと階段に足をかければ、くたびれていたそれは底が抜けて、使い物にならなくなった。
遠慮なく物音を立てているのに、誰かが出てくる気配はない。
いや、わかっている。
そもそもここに、人などいないのだ。
宰相は考える。それはいつからか。
ファルタニアが生きているならば十六歳のはずだ。彼女の母親が身罷って、使用人が二人残った。それは知っている。
ならばどちらかが連れ去ってしまったのだろうか。いや、そんなことは考えられない。
「し、使用人、使用人を調べろ!」
四姫の離宮への支給や予算は正常に運用されていた、という報告は聞いている。
そちらも検めなければならないだろう。主に、書類上ではなく、現場の意見を聞きながら。
「くそ、竜王の国になんと伝えれば良いのだ……!」
適当に別人を送り出すわけにはいかない。
名指しということは、事前にある程度の調査をしたに違いないのだから。
このままでは破滅してしまう。
娘一人のために国を犠牲にするわけにはいかない。
何としてでも探し出す必要があった。
王宮を後にして、実に十年もの年月が経っていた。
そうしてファルは姫であった事実など忘れ去り、立派に平民として生きている。
「おっしゃあー! タウントブルの肉祭りじゃあぁー!」
今日も今日とて森に分け入り、討伐対象になっていた魔物の駆除と同時に自分たち用の肉を狩っていた。
タウントブルは牛に似た味わいの肉質のためそうと名づけられているが、猪のような見た目の獣である。大人二人分程度の大きさなので、青年期の辺りだろうか。歳をとっていると硬すぎて、幼いと柔らかいが可食部が少ない。ちょうどいい頃合いの肉である。
「はー、今日も豪勢だこと」
「えー、そんな文句言うなら、ラッカスタンもつけちゃう」
脚力が大々的に鍛えられた鳥類で、その割にもも肉が絶品なので、エデの好物肉である。ここに来る前に一匹仕留めていた。
どうだとばかりにニヤニヤする妹の頭をつついて、エデはため息をついた。
「今日は良いけど、明日のご飯も考えてよ。毎日獲れるわけじゃないんだから」
(最近じゃあ魔獣が増えてるから、むしろ豊作すぎて困ってるけどね)
孤児院のメンバーで結成された討伐隊だ。気心の知れた相手との行動は気兼ねがなくて楽でいい。
ファルは立派にチームのメインアタッカーとして働いていた。
特に魔獣肉が食べられると判明してからの活躍は目覚ましい。
狩っては食べ、狩っては食べて、がりがりだった身体も年相応の肉付と、それ以上の逞しさを蓄えている。
なお怪力についてはエデにバレていた。
たまに部屋に落ちていたカチカチに固まったタオルなんかを回収していたのは彼女である。
日常動作が妙に遅いことについても、壊さないように気を付けているのだろうと理解していたらしい。
「んじゃ、またホームで焼き肉ぱーてぃーか?」
「お野菜も食べないと駄目なんだからね」
他のメンバーはエデと同年代なので、ファルより五つ以上は年上だ。
一番の若輩がファルのため、皆には妹可愛がりされている。
獲物をいっぺんに担げる余裕もあるのだけど、年下にばかりさせられないとメンバーがそれぞれにできる限りの運搬を行う。
魔物や魔獣の出る山道だが、それだけの余裕を持てるのはそれなりの経験を積んでいるからだ。
早々に町に戻り、討伐報告に行くというエデに、ファルは獲物の足を一本むしり取ってにっかりと笑った。
「じゃあ、孤児院に渡しにいくね」
「おう。俺は、飲み物買っとくわ」
「先に戻って解体をしておくわね」
「誰か着いてきなさいよ」
全員がもはや肉の事しか頭にない。
そんなメンバーに頭を振って、エデが討伐隊の詰め所に副隊長と共に向かう。
ファルは一人、ぶんぶんと手を振ってメンバーと別れ、孤児院へ足を向けた。
討伐隊として出て行くことになるまでお世話になっていたところだ。
特に親切にされたわけではないけれど、虐げられることもなく、居心地自体は悪くなかった。
全員が妙に同族意識が強い傾向だったように思う。
(まさか、こんな暮らしになるなんて思わなかったわ)
心の声が呟く。
彼女の名前はカイラらしい。
「ね、楽しいね」
(そういう意味じゃないのだけど……けど、そろそろだと思うのよね)
「なにが?」
生まれてからこれまで、心の声には助けられてきた。
助言もしかり、困難に直面しても、一人で頭を悩ませる必要もなかった。
特にカイラは未来予想でもできるのか、先々に起こりうることを何度か予言している。最も、規模が個人に因るものではなく、地域や国に起こる出来事が主であるが。
(竜王陛下が伴侶を探す時期よ。……呼ばれても、行ってはいけないわ)
「お呼びじゃないと思うけど……なんで?」
(……そうね、幸福なことなのでしょうけれど、私達にとっては必要のない事なのよ)
よくわからないな、と思いながら、ファルは孤児院と道を隔てるなけなしの低い柵をひょいっと跨いで通り抜けた。正式な出入り口はもう少し先にあるのだが、ここを越えていく方が近い。
そして、その姿を見ていたのか、目先の建物から怒った顔の老爺が出てきた。
ファルはへらりと笑って手を振る。
男性は手にした杖を振り上げた。
「またお前か! 子供たちが真似するからやめなさい!」
「おじーちゃん、お土産持ってきたよー!」
「それ以前に言うべきことがあるだろう!」
「ごめんなさい。反省はしています」
「態度に表しなさい」
「やーだよ」
けらけら笑うファルに怒鳴ろうとして、後ろから出てきた子供たちに押されて黙り込む。
いつものやり取りだ。子供たちは早く肉が食べたくて、老爺を急かす。
(血抜きもまともにしてない肉だっての。まったく)
心の声の呟きにファルは苦笑して、処理のために井戸の近くを借りる。
盥に水を張って切り取った部分を漬けつつ縦にして置いた。足先が上に来るため蹄を摘まみ、指先に意識を集中する。
(よし、おねえさんの底力をみせてやろうじゃないの)
「ふんぬっ」
ファルの指先に集まった熱が、摘まんだ部分から流れ出ていき、その分だけ下から鮮血があふれ出した。
心の声曰く、魔法らしい。
只人は魔力を持たないので、魔法など使えない。使える人も生活に少し役立てられるくらいの威力しか発揮できないくらいだ。
このように、上から圧をかけて器用に血だけを搾り出すなんて芸当はできるはずもない。
子供たちに聞かれたファルは「気合い」とだけ答えている。
後はざっくり解体して可食部を渡すだけだ。取れたて過ぎる肉はあまり美味しくはないものだが、変に腐らせるよりは良いだろうと、だいたい持ち込んだ二日以内には消費される。
差し入れも終わったので、老爺に挨拶をして帰ろうとすれば、珍しく呼び止められた。
「ファル、少し教会に寄っていきなさい」
「なんでまた?」
「いいから」
孤児院は教会に付属するように建てられていた。
ファルたちが稼ぐようになったので、実家への送金という建前でお金を送った影響で、教会本体よりも頑強で広大な建物になっている。教会へ寄付をしろとの迂遠な話も出たのだが、あくまで仕送りだ。それをどう使うのかは老爺の差配一つである。
ともかく、教会の方へ足を踏み入れれば、いつも別の教会に詰めているシスターと、見たこともない上等な織物に身を包んだ上背のある男性が壇上で向かい合っていた。
逢引きでもなさそうだ。これを見せて何をしたいのだろうとファルは訝った。
(あいつ……竜人だわ!)
「えっ」
驚いて声を上げれば、二人がファルの方に顔を向けた。
見慣れたシスターの疲れて淀んだ緑色の瞳。
あからさまに安堵してほっとした表情になっている。
対して、見たことのない男は、これまた見たことがないレベルの整った顔立ちをしていた。
金色のウェーブのかかった髪に同じ色の目。まつ毛もふさふさだし、銀と青の刺繍がこれでもかと入った白の装束が似合っている。ごちゃついたものを着こなせているのは、服に負けないくらい本体が派手だからだ。
「こちらが、お探しの人物です」
「うむ。貴女がファルタニア・アルトハストですか」
(違うって言って!)
「違うけど」
「そっ、そんなことないわよね! ファル、なんで嘘をつくの……」
「私はファル。あなたが言う、長い名前ではないよ」
「なぜ! エデが連れてきたファルなんだから、アルトハストに決まっているじゃない!」
むきになって叫ぶシスターの言葉に、ファルは首を傾げた。
どうしてそんなに確信しているのか。ファルタニアと名乗ったことはないし、エデが話したとも思えない。彼女は意外と義理堅いというか、口が堅いというか、ともかくファルが王族であったなどと口の端に上らせたりはしないだろう。
「どうやら、勘違いのようだ」
「違います! あの子がお探しの娘です!」
「まだ言うか」
じろりと睨まれて、シスターは青ざめてへたり込んだ。
どういう事だろうと経過を見守っていたら、無表情に竜人が近付いてくる。
それを首を傾げながら見上げていたら、目の前に立った彼がふと笑った。
「ファルタニア・アルトハストという人物に心当たりはありませんか? 我らが主が探しているのです」
(知らないと言って! 知らないって!)
「うーん。申し訳ないけど、私のわかる範囲では居ないかな……」
「そうですか、わかりました。ご協力感謝します」
困ったような笑顔に、ファルは引っ掛かりを覚える。
なぜかはわからない。悪い事をしたな、という気持ちになった。
「ん、悪いね」
「いいえ。ところで、貴女の家はこちらでしょうか」
「ん-ん? 近くに仲間と家を借りてる」
(ちょっと、そんな詳しく話さなくていいわよ! さっさとさよならしましょ!)
小さいながらも罪悪感があるからか、つい話してしまった。
そういう部分は慎重になるべきであると、何度も心の声が注意してきていたのに。
「んっと、仲間が待ってるから、帰るね。それじゃ」
慌てて告げて教会を飛び出す。
扉の外に驚いた顔の老爺がいたので、手をぶんぶんと振って帰る旨を知らせた。
カイラがずっと、彼から離れるように忠告している。
それがなぜなのかはわからないが、これほどまでに焦っている彼女は珍しいので従ったほうが良いのだろう。
チームで借りた一戸建てに戻れば、庭先にバーベキューの準備がなされていた。
前に狩った残りの肉もある。盛大に食い散らかしても問題なさそうだ。
とはいえ、それは明日以降も同じだけ狩りをすることが前提になる。
「そんで、その人は誰?」
「ん-、教会にいた……誰?」
「エド・シスルトという。探し人を訪ねてここまで来た」
いきなり知らない人を連れてきたファルに驚くでもなく、チームメンバーは彼の訪問を受け入れた。
部外者に気を許さない彼女がそれほど警戒していないからだ。
「へー。食ってきますか?」
「ありがたくいただこう。代わりにこれを」
気軽に食事に誘う、その返答に差し出してきたのは竜王の国の金貨だ。
貨幣は各国のパワーバランスによって価値が変わるけれど、かの国のものだけは変わらない。
不変の富の象徴。それがさらっと出てきて、さすがに全員が沈黙した。
「私は竜人だ。竜王様の伴侶を探しに来たんだが、ファルタニア・アルトハストという人物を知らないだろうか」
金貨を指ではじいて、にこりともせずに問いかけるエド。
暗幕のように重く垂れる沈黙。
しんと重苦しい空気が支配する中、わざと大きな音をさせ、勢いよく門が開かれた。
報告にいっていたエデと副長が戻ってきた合図だ。
「庭先で焼き肉する時は、扇風機回しなさいって言ったでしょ!?」
そのまま会場入りしていつもの注意を口にするエデ。
慌てたのは焼肉の準備をしていた面々である。
「あ、やべ」
「ご近所から苦情が来るんだからね!! って、どなたさま?」
「ファルタニア・アルトハストを知ってるか」
「そこの子よ。うちで夕飯食べていくの?」
「ああ、そうさせてもらいたい」
さらっと暴露して、あらそう、と頷くエデ。
(エデ! あのメイド! あっさりとバラして!!)
ファルは恨みがましい目をエデに向けた。
彼女は何かあったかと視線で返してくる。
「言わないでほしかったのに」
「俺達も言わなかったのに……」
「あっそ。でもお客人はほとんど確信してたわよ。私達が認めるまで居座るつもりだった、そうでしょ」
「只人にしては察しが良いようだな」
「これを飯のタネにしてたこともあるのよ」
得意げな顔をして、鼻で笑う。
そのままファルに近付いて、妹分の頭を撫でた。
「あんたは嫌がるかもしれないけど、やっぱり特別な子なのよ」
「エデお姉ちゃん」
「竜王が伴侶を探しているって組合でも聞いたわ。行ってきなさい、ファル」
「……やだ」
エデはこの町の出身だ。だから戻ってきた時には仲間がいた。隣に見慣れないチビを連れていたとしても、彼女はどうやってもここの人だ。だからどこへ行っても帰ってくれば受け入れられるし、帰ってくる場所はここになる。
しかし、ファルがここを離れるということは、彼女達とは二度と会えなくなる可能性が高い。結局のところ、どれだけ親しかろうと、余所者なのだ。
それでもファルにとって彼女らは大切な仲間だ。十年を共に過ごした、家族のような関係の人達。
「世界を見てきなさい。ここで終わるような才能じゃないのよ、あんたはね」
後宮にいた時、ファルはとても小さかった。とても一人じゃ生きていけないほどに。だからやめておけばいいのに、その手を取ってしまった。だけどもう、ひとり立ちをしてもいい頃合いだ。
それに、他の誰ではなく、ファルだからこそ、もっと広い世界を見てほしいとも思う。彼女ががここで生涯を終えることが、エデにはどうしても正しい事とは思えない。
だから、嫌われ憎まれたとしても、追い出すべきだ。ファルが自分たちとは違うことを十分にわかっているから。
「竜王の伴侶になるってことは、王妃様よ。お金持ちよ。そうなったらたら、ラッカスタンを山盛り持って帰ってきなさいよ」
エデは平坦を心がけたけれど、少しばかり声が滲んでしまった気もする。
そんな自分に気付かないふりを続ければ、ファルが真剣な顔をして見つめ返してきた。
「山三つ分をお土産にするから、胃腸を鍛えておいてね」
「全部生肉にするつもりじゃないでしょうね? 日持ちを考えなさいよ」
「おーい、焼けたぞー」
「おや、これはなかなかうまいな」
「ちょっと、感動のシーンに焼肉臭を差し込まないで」
「ガラじゃねぇだろ、エデ姐さん。いてっ」
姉妹が真剣な話をしているというのに背後では飯の準備をしていたらしい。
ファルは思わず笑ってしまった。怒るべき場面なのだろうけれど。
じゃれあうチームメンバーたちを見ていれば、心の内にカイラの言葉が届く。
(行っちゃ駄目。行かなくていい)
「でも、行きたいよ。行ってみたい、ほとんどの人が足を踏み入れたことのない場所に、すごく行ってみたい」
(……後悔するわ)
「うん、カイラがそう言うならそうだと思う。でも、それでもいいから」
(経験なしで生まれる後悔なんて存在しないし、その記憶も思い出も自分が掴み取った価値だ。忠告なんてクソくらえだな、お前の後悔なんて知らんし、私がそう思うのはお前に価値を見出していないだけだってな)
心の声が何を言っているかはわからなかったけれど、ファルは決めた。
「エデ、行ってくる」
「ん」
戦利品を皿の上に山盛り持ったエデが座る席の隣へ腰かければ、乱暴に頭を撫でられた。いつかのように。いまでも妹だから。
仲間たちとの喧騒の中に溶けていく日常は、それでもファルの中にいつまでも残り続ける。
***
竜王の国はすべての大陸の北方に位置している。
とても寒くてとにかく寒い。寒いという言葉しか出てこなくなるくらいに寒い。
事前に寒いと聞いていたので、十分な対策をしてきたはずなのに、それでも歯の根がかみ合わずにがちがちと音を立てる程度には寒い。
寒さを通り越すと痛くなるというが、ただただ寒い。
ずっと冷水に身体を漬けているかのようだ。痛みはないのに体の芯から冷えるので、毛皮を体に巻き付けていても内側から冷気が漂っていると錯覚する。
「寒い」
(室内は温かいから、もうしばらくの我慢よ)
「でも寒い」
馬車の中はそれでもマシだった。
門前から玄関までは自力で歩かなければならないらしく、目の前のゴールにたどり着くまででこれである。
ここから帰るとなった場合、同じだけの思いをしなければならない。北方の住人があまり外に出たがらない理由がよくわかった。
「お急ぎください、ただでさえ遅れているので」
「ふぎぃ」
平気な様子のシスルトが急かす声をきいて、ファルは嫌そうな顔をした。
やっぱり来るんじゃなかった。早々に後悔している。
(ま、何事も経験だな。ちょっと謁見したらとっとと帰って二度と来なきゃいい)
「むぐぅ」
唸りながらなんとか玄関口まで到着し大扉の脇にある通用口から中に入る。
こちらも広くて冷え冷えとしているが、外のように芯から冷えることもなく、体を揺すぶれば徐々にではあるが温かさが戻ってくるようだった。
「そのままこちらへ」
シスルトが先導するのに任せて、歩を進める。
(ここは変わらないのね)
カイラがため息をついた。
どうやら知った場所らしい。
(おそらく、謁見の間に行くことになるわ。そこには竜王がいる……人の姿をした絶世の美形だけれど、騙されないで。見初められでもしたら、面倒くさいことになる)
彼女の忠告に頭の中で頷いて、ファルは案内された場所へと足を踏み入れた。
こっそりと入室したのだが、目ざとい何人かがこちらを振り返る。
「うわぁ」
特に獣人が多い。
それに、人と同じような見た目なのに耳が長かったり、身長が低かったり、透き通るような見た目の者もいる。
背中に羽が生えていたり、角があったり、灰色の肌を持つ人もいて、ここだけで全世界の人種を見ることができるのではないかと思われた。
「あら、あなた」
その中の一人が声を掛けてきた。
ふさふさとして光沢のある毛並みの、猫科の女性だ。顔は獣寄りであるが、二足歩行で体型は人寄りである。平均的な見た目の獣人と言っていい。
ぱちりと大きなアーモンドの目に、金色の好奇心がクルリと翻る。人種が違うとしても魅力的だ。
「毛皮もないのに、ここまで来たの? ご苦労ね」
(……嫌な子が来たわね。相手にしない方が良いわ)
「それに貧乏くさいわ。これを恵んであげる」
言いながら、側に控えた侍女が持っていたマントをぽいっと投げてくる。
色艶のない毛皮でできたそれは、裏地もきちんと縫製されていて、身に着ければ随分と温かくなることが見て取れた。
(ほら、こうやって馬鹿にしてくるのよ)
つんとマズルを上に向けているけれど、気になるのかチラチラとこちらを見てくる。
(えっ、ツンデレじゃん。お礼を言ってもらっておきなよ)
「うん、ありがとう。寒かったから、すごく助かる」
「ふん、私に感謝しなさいよね。貧乏人には過ぎた代物よ」
「あったかいね、本当にありがとう」
ファルがにっこりと笑ってお礼を述べれば、ぷいっとそっぽを向いてしまう。
だが、毛並みに隠れてわかりづらいはずの表情が少し緩んでいることも赤面しているらしいこともなんとなくわかってしまった。
良い人だ。ファルが上機嫌になれば、カイラが呆然とした様子で呟いた。
(え……照れてるの? この子……)
ふるふると微かに揺れている尻尾へなとなしに目をやっていたら、耳を震わせるような大きな音がした。
銅鑼が鳴らされたらしい。遠くにいてもあまりの迫力に肩が跳ねたくらいであるから、近くの人など気絶しても不思議はない。
音は出入り口とは反対側、部屋の奥の方から響いてきた。
知らせるためのその音に逆らわず目をやれば、椅子の上に鎮座した何かが運ばれてくる。
アレは何だろう、とファルは首を傾げるばかりだが、他の面々は何事か近くの人と話をしていた。ざわめきが止まない室内に先ほどと同じ音が鳴り響く。
しんと静まり返った場に、通りの良い低めの声が朗々とことを告げる。
「こちらが竜王様だ。……諸君も知る通り、我らが王は伴侶と同じ姿を取る」
そんなの初耳だ。
ファルはポカンと口を開けるばかりだが、他の人達には常識であるのか、ならなぜその姿なのか、という疑問を投げかけている。
「魂の姿であるという事だ」
回答はそれだけ。
未だ伴侶の姿を取っていないだけであるか、既に伴侶が亡くなっているのか、それすらわからない。
こんなことは竜国史のどこにもないとのことである。
「ふわー……」
(決まっていないなら、目を付けられないようにした方が良いわ。個室があるはずだから、王が伴侶を定めるまで引きこもってればいい)
「あ、ねえねえ」
どうやっても室内がざわめくのをいいことに、ファルはマントをくれた彼女に声を掛けた。
「なにかしら」
「名前、教えて? 私はファル」
「ふん、マナーがなってないわね。でも特別に教えてあげるわ。私はベルカイラ=エストス。東のエストス領土を治める飛猫族の当主の娘よ」
「……カイラ?」
聞き慣れた名前を呟けば、ベルカイラは耳をぴくぴくと動かした。
「いきなり馴れ馴れしいわよ。でも、ふん、そうね。あなた、素直だから、そう呼んでもいいわよ」
(ち、違うのよ! たまたま思いついたのがカイラって名前だっただけで、この子を思い出したわけじゃなくて!)
「ありがと、でもカイラって知り合いがいて、おなじだとなんだか申し訳ないから、ベルでもいい?」
「ええ? まあ、いいけど……」
訝しげではあったものの、ベルカイラは承諾してくれた。
隣で成り行きを見守っていた侍女が耐えきれなかったかくすりと笑う。
「ちょっと、アゼイル」
「ごめん、でも、すぐ友達ができて良かったわね。すごく緊張していたものね」
「むぐ……もう、これからの事の説明があるみたいだから、ちゃんと聞くわよ」
どうやら侍女とも気安い仲のようだ。
辺鄙なところに一人で放り込まれたけれど、友人もできた。
一応の所、上出来な出だしであろう。
今後については、カイラが指摘したように個室が与えられるようである。そこで竜王が伴侶を見定めるまでは自由に過ごしてよいそうだ。
伴侶ができれば、候補たちは家に帰っても良いし、ここで仕事に就いても良いらしい。
「それならどうしようかな……」
「ねえ、ファル」
「うん?」
「後で一緒に庭園に行かない? ここでしか咲かない、珍しい花があるのよ」
「うん、いいよ」
気楽に答えれば、ベルは嬉しそうにぱっと笑顔になる。
それに気が付いて咳払いをして居住まいを正しているけれど、かなり舞い上がっているのか尻尾が揺れていた。
「それでもまずは疲れを癒してからでよいかと」
「シスルト」
どこかへ行っていた竜人がぬっと現れて、ファルは驚いた。
ベルとアゼイルも背中の毛を逆立てている。
(そんな直ぐに済む話でもないだろうし、一日休んでからでも良いんじゃないか? 休む間もなくここまで来たし、麻痺してるかもしれないけど、疲労がたまってると思うぞ)
「ん-、それもそうだね。ベル、庭園は明日でもいい?」
「わ、わかったわ。明日ね」
ばいばいと手を振って、シスルトの案内で宛がわれた部屋へと向かう。
そこはハンターとして使っていた拠点よりも広い部屋で、さらに扉が付いていて、寝室と水回りが別にしつらえられた豪華なところだった。
廊下も広くて高くて眩暈がしそうだったのに、ここに滞在する人たち全員がこんな待遇だなんて。
ファルはそれだけで目が回った。庭に出るのを明日にしてよかったと思う。
「それで、ファルタニア様」
「うん?」
「こちらにお掛けください。温かいお茶を用意いたします」
「え? うーん、わかった」
(今更だけど、こいつって胡散臭いよな)
心の声が訴えてくる。
確かにその目線で見れば、シスルトはなんとなく怪しい。
(はあ。とにかく、何が何でも目を付けられないよう大人しくしているのよ。そのうち、派閥も出来上がってくるから、一番大きなところに所属して目立たないようにすればいいから)
「どうぞ、お召し上がり下さい」
「ありがと」
作法も何も知らないので、カップをむんずと掴んでグイッと飲み干す。
確かに熱い。それを無理矢理に飲み下して、もう一杯と所望する。
余りの勢いに面食らったのか、シスルトは目を丸くし、次いで微かに笑った。
「なに?」
「いえ、なんとも」
お代わりをついで、シスルトが口を開いた。
「竜王様がいらっしゃいます」
「へ?」
(逃げて!!)
カイラの悲鳴に近い叫びと同時に、出入り口とは別の扉が開く。
寝室に繋がると説明されていた方だ。
ファルが立ち上がり、シスルトが跪く。
台車のようなものに押されて入室したボンヤリしたものが、ぶわりと背を伸ばしたかと思えば、人の男の姿を模った。
半ば透けているので色味はあまりよくわからないが、切れ長の目も薄い唇も、標準よりは随分と美形に分類されるものだ。体躯もがっしりとしており、ちょっと殴った程度ではぐらつきもしなさそうである。
「そんな、アルス……?!」
「えっ」
(おや、分離した)
彼に反応してか、カイラがファルの身体から飛び出してきた。
こちらも半透明であるが、その姿はファルを十歳ほど大人にしたような雰囲気である。姉妹と言われても違和感がない程度には似ていた。
『だから言っただろう。人生をやり直しても、君は僕の所に来る運命なのだと』
「いや、うそ、嘘よ……また、またあんな思いをしなければいけないの!? 生まれで苦しんで、無理矢理こんなところまで連れてこられて、ほ、他の皆から嫌われて遠巻きにされてっ、苦しくて、でも、貴方は……!」
『すまない、だが、君でなくてはダメなんだ。ファルタニア・アルトハスト、君が僕の伴侶なのだから』
「え……?」
そこで名前が出てきてファルが疑問を浮かべる。
が、そんな雑音など気にしないとばかりに、竜王はカイラを抱きしめた。
(え、ナニコレ意味わかんない。なんで見せつけられてんの?)
「あの、シスルト?」
抱き合う二人に聞いてもらちが明かないだろう。
まだ知った顔の竜人に問いかければ、彼は立ち上がってそっとファルの背中を押した。退室を促される。
しばらく彼らだけにしておこうということらしい。
説明さえして貰えるなら否やはない。押されるまま、ファルは部屋を後にした。
「それで一体どういうことなの?」
「詳しいことは我々も分かりません。とにかく、竜王は伴侶としてファルタニア・アルトハストを探しており、我々はそれに従ったまでです」
「おん?」
(それにしては探しに来るタイミングも遅いというか……うーん、わからんことが多すぎる)
「あの、シスルト」
「なんでしょうか」
人のいないところ、ということで、図書館に併設されたシスルトの書斎を使用している。
使用人でこの待遇はかなりいいとのことで、彼はそれなりの役職持ちであるようだ。
「私、カイラともう一人、魂の状態? の人がいるんだけど……」
「そ、そうなのですか? ええと、よくわかりませんが……」
(思うに、時間逆行系だと見てるんだけど、竜王とカイラ以外は知らない感じかな。誰も事情を知らないとかひどくね? 竜王もさあ、側近にくらいは話しておいていいと思うのよ)
「その人が言うには、時間逆行じゃないかって」
「ああ……確かに、竜王様でしたら、そのくらいは可能でしょう」
うんうんと頷くシスルトに、ファルは呆れた。
結局のところ、真実はカイラと竜王しか知らないのだ。主と伴侶とを二人きりにしてあげたかった彼の気持ちは尊重しないでもないが、わからないことが放置されている事実にはイラつく。
(で、これからどうするんかって話だよね。竜王が伴侶と同じ姿を取るってことはさ)
「え、もしかしてカイラが魂のままだから、竜王も魂の姿ってこと? 国を治められるの?」
「ああ、当地は問題ありません。……政治的な部分や討伐面では多少、難はあるかもしれませんが」
(問題なんじゃないかなー)
心の声が嘆息交じりに呟く。
(伴侶に甘すぎなんじゃ? あの様子から、カイラのわがままで時間逆行したわけで、結果として魂になっちゃって、国政の先行き不安なわけで。世継ぎもできないでしょ)
「うーん……」
(ま、でもカイラが育てたって意味ならファルがそうだよね)
「え、私?」
「どうかなさいましたか?」
心の声は他人には聞こえない。
ファルは、言われたことをそのままシスルトに伝えた。
「ああ、なるほど。つまり、カイラ様のお子様も同然ですから、ファル様は公女様ですね」
「え?」
とんでもない方向から攻撃が飛んできたような衝撃。
口を開けてシスルトをみやるが、彼は天啓を得たとばかりの晴れやかな笑顔だった。
「それであれば、様々な懸念が解決します。いや良かった」
「いや良くない」
「何を仰います。竜王様もその伴侶も魂の状態である以上、物理的な面での解決は公女様に担っていただかなければ」
「いやいや、だからね」
(ごめん、余計なこと言ったわ)
逃げてしまいたい。
だが、この北の果ての国から独力で脱出することはかなわないだろう。
外はとにかく寒いから。
「は、話し合いをしよう。まだ、カイラ達の話も聞いていないから」
「そうですね、公女様」
シスルトの中では決定事項となってしまったらしい。
たっぷりと時間を取ってから部屋に戻れば、何やら艶やかな竜王とこころなしやつれたカイラがいた。
何があったかはわからないが、なにがしかの合意には達している様子ではある。
ファルも図書館で話たことを伝えた。
『大体は君達が話していた内容で合ってる』
「そ。で、今後についてなんだけど」
『ファルタニアは僕の伴侶だ。二度と離れない』
「あ、うん」
「そもそも、なぜ過去に戻ろうなど。何があったのですか」
そうだ、それだ。
どうにも、竜王がカイラにべったりとくっついているため、ファルは上手く頭が働かない。
「……私が、やり直したいって思ったのよ。一つも自分で思い通りにできなくて、いきなりアルスに伴侶とかいわれて、その時は嬉しかったけど……他の候補の子達にやっかまれて、悪女だなんて言われて。もう一度、最初からやり直せたら。こんなところに来なければ、こんな思いはしなくていいって」
『僕の威光があれば問題ないと思っていたんだけどね、女性の嫉妬は恐ろしいね』
(こいつクズでは……?)
人と竜では感覚が違うだけだろうとファルは一人で納得することにした。
心の声は言い方がストレートすぎて他の人には聞かせられない。
「でも、カイラは私じゃないよ。過去に戻ったのに、なんで分裂したのかな」
(あ、それ自分っす。なんかね、創生の女神が言うには、世界が滅びそうだからキーパーソンの身体を乗っ取って方向修正してほしいって)
「はあ?」
思わず声が出た。
竜王とカイラの視線がファルに向く。一人で疑問を出して変な声を出しているようにしか見えない。
「いやごめんなさい、ちょっと驚愕の新事実が……」
『ふむ、まあとにかく。ファル、君は我々の娘として、代理の領主となってほしい』
「待って」
どういう話のこじれ方をしたのか、そんな結論を突きつけられてファルが待ったをかける。
しかしそれは決定事項だと言わんばかりに、竜王は大きく頷いた。
『君は二人目のファルタニアだ。一人目が伴侶なのだから、君は娘だろう』
人と竜の考えることは違う、そう思う。
だが認められるかといえば別の話である。
「その件については協議が必要と思います」
『僕が言うのだから、決定事項だ』
口元がひくつく。
ファルは思い切り息を吸い込み、五秒止めて、思いっきり吐き出した。
「分かりました、とにかく、では、私の言う通りに動いてくれますか」
『任せよう。僕はファルタニアと新婚休暇に入る』
(クソが)
言いたいことを心の声が言ってくれた。
少しだけすっきりはしたけれど、だからと許せる所業ではない。
「シスルト」
「はい」
ともかく、それでも一つの事は成し遂げたわけだ。
カイラを竜王の元へと送り届けた。これはファルにしかできなかったことである。
後は心の声が承ったらしい、世界の破滅とやらをなんとかすればいい。
そのきっかけ探しから始めることにはなるが、そのために竜公国がもつすべての権限と伝手をフル稼働すればよい。
権力の使い方としてまっとうだろう。
「世界各地の騒動について調べ尽くして。重箱の隅をつつくくらい詳細に」
「分かりました」
(ブレインとして協力しようじゃないか。なんたって神様に指名されてここに来たからね)
とか言いながら、ここまで何もせずにいた心の声である。全くもって頼りにならない。
やれるのは、きっと自分だけだ。
世界がどうにかなる、その中に姉も仲間も含まれている。だから、できることはするだけ。
「なんでこんなことに……」
(ははは、がんばろーね)
心の声がお気楽に告げてくる。
頭を殴ってやりたいが、実体がなかった。
*
ファルタニア・アルトハストが見つからない。
所在をしたためるか、本人を竜王の国に送るか、いずれかで良いとの再通達があったが、本人がどこにいるか杳として知れなかった。
只人の国として久方ぶりの栄誉である。どうしても竜王の国と渡りをつけたかった彼らは、どうせわかるまいと身代わりの女性を送り付けた。
後日、高官の一人の首が王宮に届けられた。身代わりを提案した男である。
見つからないのであれば、二月ごとに王族のいずれかの首を持ってくるようにと通達の内容が変わった。
血統書をつけて北の国境に連れてこいという。
ファルタニア・アルトハストの行方が血眼になって探された。賞金がかけられ、生け捕りにした場合のみ報奨金が出ると、手配書が国中に出回ったが、それでも本物は見つからない。
初めて捧げられた王族は、傍系の遠縁でつまらない前科のついた男だった。
只人達にも竜王の威厳がじんわりと浸透していく。
その手配をしているのは公女となったファルタニア・アルトハストであるのだが、只人にはわからぬことだ。
民草に影響がでないよう、竜王に温いと怒られながらも、このような措置になっていることも。
彼らは、すでにいない少女を探し続ける。
脳内が中華寄りになっているけども、舞台は別に中華じゃない…
などと思いながら書いたので、自分でも世界観がわかっていません。どうしよう。