第2章 第3話
帰宅途中で左頬が腫れてしまった。洗面所の鏡で見たら、頬骨がドス黒く黒ずんでいる。慌てて冷蔵庫から保冷剤を取り出し薄手のタオルで包み患部に当てる。
ママに見つかったら何と言われるだろう。去年アイツらに暴行を受けた時、背中に凄い痣が出来てママは激怒して学校に乗り込み、謝罪と対策を引き出していたなあ。
ママは今日は買い物か習い事か。習い事といえば、ママはとても飽きっぽい性格で、僕の知る限りこの数年間でもホットヨガ、お菓子教室、フラダンス、陶芸教室、ボディコンバット、と渡り歩いている。
だがどれも半年と続かず、パパと二人で呆れているのだ。パパはゴルフ一筋。暇さえあれば近くの練習場に行っている。こないだなんて、コンペの帰りに相当スコアが悪かったのか、バンカーショットの練習をしに稲毛海岸の浜で砂掘りしてたらしい。
そんな両親のD N Aを受け継いだ僕は、マルチな趣味を細永く楽しんでいる。そう、アニメ、漫画、ゲーム。どれも小学生からの付き合いさ。
そんなママも夕方までには帰宅するだろう。さて部屋に戻り宿題でも済ませようか、とリビングのソファーから立ち上がろうとした時。
「ただいまー、ママー、友達を連れてきましたー」
と言って彼女が帰ってきた。
は? トモダチ?
転入して一週間でトモダチを家に連れて来るとは…中々外面の良いヤツだ。コミュ力も相当高いのだろう。何方にせよ僕には関係のない事なので、しれっと自室に上がってしまおう、ソファーから立ち上がり、リビングを出て階段に向かう。そこで彼女達と鉢合わせになる。
「秋田、くん、だよね?」
嘘、だろ?
彼女が連れて来たトモダチは、あの『イシュー』事件の当事者、湯沢かなえだった。
考えてみると、凄いシチュエーションなのである。
仄かに抱いていた淡い想い。通常これは『初恋』と定義されるだろう、そう。僕にとって湯沢かなえはその『初恋』の相手だったのだ。
その湯沢かなえが発端となった、中学二年の授業中の『イシュー』事件。今思うと笑っちゃう出来事だったのだがー「あー、ゴメンゴメン、やっちゃったー」とでも言っておけば、数日で記憶から消え去るような出来事だったのだがー
今でも夢に出るくらい忘れられないーすかしっ屁をした後の、困ったような恥じらう様な湯沢かなえの真っ赤な顔。そして、その強烈な臭い。そして…
『くっせー、誰だよすかしたの!』
『何食ってんだよ、くっせー』
『誰だよ、これって秋田じゃね?』
『ああ、コイツ小学生の時も全体集会でこきやがったし』
『コレは異臭騒動と言わざるを得ないね』
『ぶはっ イシューだ、イシュー 秋田イシューな』
クラスに沸き起こる大爆笑。
真っ赤な顔で机を見つめる湯沢かなえ。
差しかけた人差し指を、僕はそっと下ろし机に突っ伏す。
僕じゃない僕じゃない僕じゃないんだ
でも真実を言ったらこの子が傷付いてしまう
こんな強烈な臭いの発生源が彼女だなんて知れ渡ったら
彼女は学校に来れなくなってしまうー
傷付くのは、僕だけで良い
それで彼女を守れるなら、それで良い
その決心がやがてクラス中、いや学年中が僕を異臭源と認定させ、以後女子が僕に話しかけることは無くなった、何なら男子さえも。
そしてその決心が未だに僕の心に深く突き刺さっている棘となっているー
食卓で僕が淹れた日本茶を啜る湯沢かなえは、記憶の彼女よりも数段美しく成長している。元々大人しい感じの控え目な子だったイメージなのだが、それは今も持続しているようで、この場を盛り上げているのはユートン一人なのである。
何でも湯沢かなえは総武台高校国際科におり、中国にとても興味を持っていると言う。ユートンとは転入早々に意気投合し、昼食も帰宅もずっと一緒だとの事。
ただ、湯沢かなえにアニメや漫画の興味はあまりなく、そこがユートンの物足りないところだそうだ。知るかそんな事。
僕としては家に上がってから一回も僕と目を合わせようとしない湯沢かなえとどう接したら良いか全く分からず、ただユートンの解説もどきの会話に耳を傾けるだけだった。
「―それで、私がホームステイ先に秋田満という高校生がいると言った時、かなえは驚きましたねー」
ユートンに倣い、以後かなえ、と呼ぶ事にしよう。
かなえは苦々しく微笑み頷く。
「中二の時に同じクラスだったのに、仲良くなかったのですね、ミツルさん」
キモっ さん付けやめろ
「でもこうして再会しました。私たちは友達ですね、かなえ?」
ちょっと待て。コイツの空気処理能力は僕のお墨付きだ。どうしてこの苦虫を噛み潰した様子のかなえに気付かない? まさかコレは、わざと…?
「これからは三人で遊びましょう。私はショッピングに行きたいです。今度の日曜日、三人で出かけるでしょう。いいですか、かなえ?」
間違いない。この下手くそな日本語の使い方。一方的な押し付けがましい約束。コイツは僕とかなえの関係を知っている! もしそうでなくとも、かなえの僕に対する感情を熟知していやがる。
でも何故? まさかあのイシュー騒動をコイツが知っているとでも? そんな筈はない、だってコイツはまだここに来て一週間…
「もうすぐママさん帰って来ますね。ミツルさん、かなえを駅まで送ってあげます。いいですか? ああ日曜日。私はとても楽しみにしています。かなえも楽しみですね?」
強引な約束をさせられたかなえはマジで困った様な表情だ。其れでも軽く頷くと、僕の後に続き玄関で靴を履き、僕達は駅へと向かう。