侍女
遠くで雷雲が湧き上がっていた。そこから落ちる影が見えそうなほど、広々とした大海原。少女は小舟の上で傘の影に隠れながら、着物の襟をはためかせて、胸元に風を送っていた。
「ああっづうううううう~」
「おい!おえい!なにやっとんだそんなとこで!」
砂浜から怒鳴り声が届く。叫んでいるのは六尺(約180cm)を超える大男。潮風でくすんだ髪で雑に髷を結っている。いかにも牢人くずれといった風体だった。
しかし刀は立派だ。二尺六寸、やや長めの刃は黒漆の無骨な鞘に入っている。
おえいと呼ばれた少女の方はもっと過激だった。小舟からはみ出しそうなほどの野太刀が、船底にでんと横たわっている。腰には短めの打刀と、脇差までが揃う。兜をかぶれば、そのままいくさ働きができそうな格好だった。
しかし、日差しを避けてうずくまる姿は、トドよりも気だるげだ。少なくとも戦意という言葉からはかけ離れている。
「見て分かんないの〜?木陰の一つもありゃしないしさー、こうやって海風受けて涼んでんの〜」
「この穀潰しが!ちったあ働かんか!」
「この前働いたじゃーん。わざわざ南海のトンド国まで行ってさ。海賊やら紅毛相手に大立ち回り。金だっていっぱい貰ったしさー」
「もう戻って二月はたつんだぞ!それで毎日宴会だの着物だの!稼ぎなんぞろくに残っちゃいないだろうが!」
「そうだっけ?まあ無くなったら無くなったで、また王さんにおごってもらうよ〜。けっこう恩売ってるからねー」
そこまで言って、おえいは浜にいる大男、父親である柳玄斎がにやりと笑ったのを見る。驚異的な視力だったが、今さら気づいても遅かった。
「その王信殿からの依頼だ。否やは無いな?」
船の中だというのに、長者の屋敷に招かれたようだった。乗り物の限界ゆえ、広さこそさほどでもないが、その分豪華絢爛を圧縮した、宝石箱のようなきらめきの数々。
遥か北に住むという大虎の毛皮がそのまま絨毯になっている。西方の金細工や珍獣のはく製、本来は皇帝に献上されるような南海の蘭、竜涎香の香り。
成金趣味、下品と言えばそうだが、ここまで極まれば物の持つ迫力に圧倒されるばかりである。矢玉の降り注ぐ戦場で生きてきた柳玄斎も、この魔界じみた雰囲気には呑まれざるをえない。
しかし彼の娘ときたら。いたずらがばれてとっ捕まった、子供そのものの仏頂面。
数年前、最初に訪れた時こそ、目を輝かせて宝物の由来を尋ねたものだが、一通り聞くとあっという間に飽きた。
この気宇壮大さというか、物への執着の無さは雲上人並だと、玄斎は密かに尊敬していた。無論娘に言いはしないが。
「よくきてくれまシたね。おえいサン」
所々発音に癖があるが、見事な上方言葉だった。鎮西隼人の連中より、よほど聞き取りやすい。たゆまぬ訓練と優秀な頭脳もそうだが、驚くべきは的確に教えられる教師を雇える財力と人脈である。
この時代、有為の士は張り紙を出して就職活動をしているわけではない。探すだけでも一苦労なのだ。
だが目の前の老爺にとっては、それも多少の手間でしかないのだろう。
福々しい、という感想が真っ先に出る男だ。血色よく、ふくよかな頬。肥満体ではあるが、病的な感じは一切無い。海の男ゆえ、筋肉も相応についているからだろう。
赤地に金糸で細かく刺繍された衣装に、豊かな白髭がかかっている。彼の肖像画を福の神の絵と言っても、疑う者はいまい。
しかし中身はもう少し物騒だ。数百もの船団を統べる大頭目。光華沿岸から南海までの海賊を束ねる海の王が、この王信という老人の正体だった。
海賊といっても、略奪は主な仕事ではない。そもそも規模からして奪うだけでは食っていけない。
海賊という名前も、皇帝に従属していない海の勢力くらいの意味で、実態は何でもありの貿易商というのが近い。
仕事は真っ当な売り買いから、金融、密貿易(これも皇帝の認可を受けていないだけで商品は普通)、用心棒の斡旋、船乗り相手の賭場や商館の経営、武器の取引に傭兵業まで。
要は、海の周りで金が関わる事なら見境なしだ。
そして用心棒や傭兵で特に人気が高いのが、玄斎たち狗那人、別の呼び方をすれば狗賊である。気位は高いのは問題だが、信義を重んじ勇猛。同郷の者だろうが敵なら容赦なく斬る。
そんな狗賊の戦士の中でも、玄斎、おえいの親子は、王信と直に話せる程に信頼されている一流どころだった。
「まあ、王さんには世話になってるし、呼ばれたら来ますけど。でも私だけに用があるってどういうこと?戦争じゃないならどっかに潜入とか?私そういうの苦手なんだけどなー」
玄斎がしかめっ面をする。並の人間なら、その日の夜にサメの餌になっていてもおかしくない態度だ。
しかし王信はにこにこと、機嫌良さげな様子。事実、多少の無礼は多目に見てもらえるほどには、おえいという女が上げてきた手柄は大きい。そして今回の依頼も、その手柄に負けず劣らずの重大事であった。
「潜入ではありまセン。堂々とハイれます」
「入るって、どこかの商館?」
「イイエ」
王信の笑い皺が一際深くなった。
「オエイさん、宮廷で侍女をヤッテくれまセンか?」