5
厳しい王太子妃教育が始まりました。講師の皆さんは一切容赦ありません。メチャクチャ厳しいです。
なお、この話にざまぁはありません。
ルミーク公爵邸で起こった一件で、ロベリアは見事にジークフリードの婚約者におさまった。
ジークフリードは意識が朦朧としていたと訴えたが、既成事実がある以上はどうしようもなかった。国王陛下夫妻もスクロ公爵夫妻も起こってしまった事にはどうすることもできず、ジークフリードとロベリアの婚約を認めるしかなかった。
ヴァイオレットは婚約者の地位を失い、王城を出て行った。彼女は実家には戻らず修道院に行ったと聞き、ロベリアは心から喜んだ。
だがその喜びは長続きしなかった。
ジークフリードの結婚式は一年後と公示済みであり、すでに国内や同盟各国の王侯貴族に招待状を送った後だった。そのため、ロベリアには一年間で王太子妃教育を完遂するという地獄が待っていたのだった。
国史をはじめ歴代王と王妃の経歴と功績、地理、法律、財務、建築土木、軍務に兵法に加えて、近隣諸国の歴史、文化、宗教、慣習、語学。特に語学は最低でも五か国語を必修しなければならないと言われ、ロベリアは愕然とした。
語学は一番の苦手分野だからだ。
それだけではない。
国内貴族の家族全員の顔と、複雑な姻戚関係まで記された貴族名鑑を過去十年分暗記しろと言われ、貴族達の派閥関係、勢力図、協力体制まで頭に叩き込まなければならなかった。
さらには乗馬に槍に剣術という武術まで習わされた。ドレスよりも重い鎧を着せられて。
「王太子妃に剣術は必要ないでしょ!」
屈強な騎士にコテンパンに叩きのめされ、地面に泥だらけで這いつくばったロベリアは叫んだ。だが騎士からは冷たい声で至極真っ当な答えが返って来た。
「何をおっしゃいます。もし国が戦争になった場合、国王陛下や王太子殿下が出撃されることもあるのです。その時、王城と国民を守るのは王妃と王太子妃の役目です。
ヴァイオレット様はその事を良く理解なさっており、我々騎士と同程度の剣技を身に付けておられました。全身鎧を纏って軍馬に跨り、槍で騎士を撃ち落とすことすらされておりました。
姉君にできて、貴女様にできないとは言わせません」
絶句するロベリアを騎士が乱暴に起こして、まめが潰れて血塗れになった手に剣を持たせる。そして木偶坊の前に立たせて「打ち込み千本、始めっ!!」と号令をかけた。
周りの騎士が雄叫びとともに打ち込むのに、ロベリアは涙を流しながら震える腕で重い剣を持ちあげた。
「ロベリア公爵令嬢! 違います!! 何度言ったらわかるのですかっ!」
王城のダンスルームに女性の厳しい声が響き渡る。
ロベリアは正装の重いドレスを着せられ、後ろまで引き摺る白貂のマント、頭には大粒のダイヤモンドを大量にあしらったティアラをかぶり、手に扇子を持って細く高いヒール靴でただ歩いていた。
「歩く時は骨盤から足を出すイメージです! 膝は曲げない!! フラフラしないで体全体で歩くのです!!
また頭が下がっていますよ! 顔を上げて、笑顔を浮かべなさい! 頭や首が痛くても耐える!!
ほら、扇子の角度! 地(持ち手部分)が上がっていますよ! 手を下げて! 違うっ、逆です! 何をやってるんですかっ!!」
歩き方を教えている女性講師の声は段々怒鳴り声になってきた。
彼女は王妃とヴァイオレットのマナー講師も務めた人物で、国一番の厳しさで有名だった。スクロ公爵がロベリアのために雇ったマナー講師は彼女の教え子だったが、それよりもさらに厳しいものだった。これに比べたら、学院で習っているマナー授業など赤子に教えるような内容である。
ロベリアは鎧のように重いドレスとマントを着せられ、頭蓋骨を締め上げるティアラの痛みと重さに泣きじゃくっていた。笑顔など浮かべる余裕もない。背骨が軋んで全身が痛い。頭はズキズキと痛み、まともに考えることもできない。
ピンヒールで何時間も往復させられた爪先は感覚を失っている。膝はガクガクと震え、体中の筋肉が悲鳴をあげていた。
休ませてと懇願しても、
「姉君のヴァイオレット様はこの程度の事など涼しい顔でこなしていらっしゃいましたよ! 貴女様には時間がないのです! 休んでいる暇などありません!!」
と一蹴されて、本当に倒れるまで何往復もさせられた。
その翌日は食事のマナー講義だった。
外交の場では食事は非常に重要である。そのため、それぞれの国によって変わるマナーやカトラリーの使い方、食事の順番、水の飲み方まで覚えなければならない。
自国での常識は、相手国にとっての非常識になることもあるのだ。
「グラスの持ち方が違います!! 指三本で持つ! こうです!! しっかり持って! グラグラさせるのはみっともないことですよ!
グラスに口紅を残してはいけませんっ!! 唇の内側を使って水を飲むのです!! 違うっ! そんなに一気に飲んではいけません!!
トイレに行かせてほしい? 何を馬鹿な事をおっしゃるのですか!? 食事の途中で席を立つなど、絶対にあってはなりません!! 相手方に対して失礼です! トイレくらい我慢なさい!! そもそも前日から水分を控えるのは常識です! 食事の前になぜ行かなかったのですか!? それくらい常識でしょう!!
水ばかり飲んでトイレが近くなった? それは貴女様が水の飲み方すらなってないからです! きちんとできていれば飲む必要などありません!
ヴァイオレット様はできていらっしゃいましたよ! 妹君の貴女様なら絶対にできます! もう一度、最初から!!」
結局ロベリアは我慢することができずに床を濡らした。
食事の席で粗相をする事などもっての外だと講師に怒鳴られ、掃除をしたメイドに睨まれ、冷えた料理が乗った皿を持ったまま立っていた給仕係は変な顔で肩を震わせていた。
そんな彼らの姿に傷つき、十六歳にもなって幼子のような粗相をした羞恥と屈辱でロベリアは泣き崩れた。
翌日は書類決済の講義だった。
地図帳や何冊も置かれた分厚い法律書のページをめくりながら必要項目を見つけ、ひたすら計算する。
文字にして説明すれば一文で終わるが、その内容は非常に複雑なものだった。
ある領地内の道を補修するだけでも土壌の状態、周囲の環境を細かく吟味し、土地の所有者の意見書、道を利用する国民の意見書に目を通し、提出された企画案が法律に反していないか調べる。さらには工期や資材費用、人件費が適正か計算しなくてはならない。その桁はゼロがいくつも並び、計算ミスは許されない。
「ロベリア公爵令嬢。これは法律で禁止されています。法律書をきちんと読んで理解なさっていますか?
え? これで合っているはずだ? その考え方こそ間違っているのですよ。正しい答えでしたら、私はこんな事を申し上げません。
それに計算も間違っております。ゼロが一つ多いです。国庫を何だと思っておられるのですか? 国庫は国民の血税から成り立っているのです。銅貨一枚たりとも無駄にしてはいけません。それとも水増し請求なさるおつもりで? 違う? ではただの計算ミスですか?
はぁ~~……。こんな簡単な計算もできないなど、貴女様はこれまで何を学んでいらしたのですか? 公爵家のご令嬢ともなれば学園に入学する前にこの程度の計算など身につけているでしょう。
姉君のヴァイオレット様は、こんな書類は三分とかからずにこなしておられましたよ」
ロベリアの学園での成績は上の下である。ただの公爵令嬢としてなら許容範囲だろうが、王太子妃となるにはレベルが低すぎた。
そして語学に続いて数学が苦手だった。
結局、ロベリアは与えられた課題をこなすことができず、講師係を務めてくれた現役の文官にチクチク、クドクドと説教され、涙を流して謝り倒した。
自分より身分が低い者に頭を下げるなど、屈辱以外の何ものでもなかった。
翌日に待っていたのは、王城のメイド長だった。
外交で訪れた同盟国の使者をもてなす晩餐会の準備をするという課題だった。
「ロベリア公爵令嬢。この国の文化や宗教については学んでいますか? それならなぜ、この食材を使ったメニューを出すのですか? この食材はかの国ではタブーとされており、スープの出汁として使う事すら許されません。
それからこの方の食事ですが、暗殺でも計画なさっておられるのですか? この方はこの食材を食べることができません。少しでも口にすれば、命にかかわる危険な状態になるのです。きちんと調べられたのですか?
それとこの席順もなりません。この方はこの席に座る資格がございません。ここに着けるのは大臣クラスの方のみです。身分は合っている? 外交に我が国の身分や序列は関係ないのですよ。それくらい常識でしょう。
それにこの方とこの方は、反発しあう派閥の方ですので席を離さなければなりません。途中で言い争いでもはじめようものなら我が国の恥です。晩餐ではいかなる諍いの種を撒いてはいけません。
それから、なぜこのお二人を隣同士の席になさったのですか? この方々は数年前に癒着して領民を苦しめた事件を起こしています。
知らなかった? 最初の講義で貴族名鑑を過去十年分暗記するように言われていらっしゃいますよね? それができれていれば、このようなミスは起こさないはずです。覚えられない? 何を甘えたことをおっしゃるのですか?
ヴァイオレット様は三日で暗記なさいましたよ。なぜ貴女様にはそれができないのですか? 与えられた責任をきちんと果たしてくださいませ。
甘えは一切許しません。
王太子妃とは王妃様と王太子殿下の補佐役で王家を支える屋台骨の一本です。万が一にも国王陛下や王妃様に有事が起こった場合、王太子妃が率先して国民を導かねばならないのですよ。
はぁ~~。ヴァイオレット様がいらっしゃってくだされば、私も自分の仕事に専念できますのに……。私も暇ではないのです。本当に時間の無駄でございますね。
もう結構です。私は仕事に戻ります」
メイド長は講義の途中で席を立った。置き去りにされたロベリアは助けを求めて周りを見るが、料理人も従僕もメイドも、下働きの下男下女まで冷たい視線を向けてくるだけだった。
―――なんで? どうしてこうなったの? お姉さまはただ本を読んでただけじゃない。
剣が使えるなんて聞いた事がないし、外国語を話せるなんてのも知らなかった。家ではそんな言葉を使った事がないもの。
それに席順なんかどうでもいいじゃない!身分だけじゃなくて役職や派閥までなんて知らないわよ。なんで誰も教えてくれないのよ!
メイド長が残していったメニュー表と席順の紙を握りしめ、今日もロベリアは泣きじゃくった。
お読みいただきありがとうございました。