夜10時以降、外出してはいけません。
文中の植物名。本文末に写真ありです。
シャスタデージー Shasta Daisy 学名 Leucanthemum x superbum
フランスギク(英名 Oxeye Daisy 学名 Leucanthemum vulgare)とハマギク Nipponanthemum の交配種。
雑草扱いのフランスギクより花が一回り大きい。7-10cm
書き物に行き詰って家を出た。
男の気ままな独り暮らし、書いているのは糊口をしのぐだけの所詮雑文。とは思っても、するりと書けないとやはり辛い。なぜ自分の言葉はこうも滞るのかと頭を傾げたくなる。
玄関を後ろ手に閉めると、街灯のない路地はもう暗かった。夕食後、片付けもせずにPCに向かっていたから、どうだろう、10時過ぎといった頃合いだろうか。
夕立が洗い流した透明な夜気の上に、夏の星座が広がっていた。
真上に光るベガはダイヤのついたタイピンのように私をぶすりと固定する。
そして、北斗七星の柄杓からアークトゥルス、スピカへと続く大曲線がかまいたちのように右脳を抉った。
「言語野は左にあっても、右脳の対応部位が働かないとダメらしい」
拾い読みした学術論文の受け売りを口にしてみる。
執筆でも受験勉強でも、疲れて頭痛が出るのはいつも右脳だったから。
そして、今も。
「いっそのこと痛みごと、抉ってくれよ……」
星を眺めてくらりとした姿勢を何とか立て直した。
気温は17度前後、Tシャツの上に羽織った長袖シャツがはためく。
日本の夏とは比べ物にならない爽やかな空気に、河原公園まで行ってみる気になった。
8メートルほどの小さな青い橋を渡ると、そこは公園というより広々とした緑地帯。
遊歩道に沿って短く刈り込まれた芝生と、その向こうには野生動植物保護のため手つかずに残した草原がある。
アカツメクサ、ゼニアオイ、キンポウゲ、シダルセア、そんな花が草穂に交じって揺れているはずだ。
暗がりの中では、風に波がしらを立てる海のようにしか見えない。
芝生の上を動くものがいた。
ろうそくの炎のような白い形が、ふわっふわっと上下に。
「なんだ、うさぎのしっぽか……」
思考も反応も何もかもが遅い。これほど疲れていたら、書けるものも書けないはずだと苦笑した。
そして、何とはなしに、うさぎが消えた方角に芝生を横切る。
かすかな風が心地よい。
進行方向に大きな不定形の黒ずみがあるが考えもせずに歩を進める。
辿り着いてみると低木の茂みだった。
うさぎは株元の巣穴にでも入っていったのだろう。
緑色には見えない塊に顔を近づけて目を凝らした。
白樺やメープルの木々を窒息させんばかりに、ブラックベリーが絡みついている。
その繁殖力の旺盛さを暑苦しく思い、私は顔を顰めた。
そういえばそろそろブラックベリーが熟し、バケツに集める人々を散見する季節か。
植物の生の営みも、ただでその恩恵に与ろうとする人の逞しさも遠い。
私は独り取り残されている気がする。
茂みに沿ってぐるり歩くことにした。
特に理由はない。
うさぎを探したいわけでもない。
すぐに元居た場所に出ると思ったのに、茂みは後ろに長く伸び、私を次の暗闇へと誘った。
そして視界が開けた時には……
目の前に一面、シャスタデージーが広がっていた。
真ん中が黄色くて、花びらが白い、手のひらほどのマーガレットのような花。
のったりと上がってきた寝待月を受けてか、辺りにぼうっと光を反射している。
その光の中心に、白いローブを着た女がいた。
腰まで花に埋まり心持ち前かがみで、波打つ金髪が花に届きそうだ。
花のひとつひとつを両手で掬うようにして覗きこんでいる。
この世のものとは思えなかった。
相手が人でないなら、きっと自分のことも見えないだろう。
見えても話しかけないだろう。
きっと、あの花々の精か何かだ。
シャスタデージーの群落は私の足元で終わっている。
同じ水に手を浸すかのように花冠を支え、眺めてみた。
何の変哲もない、子どもが生まれて初めて描く花の形、ではないだろうか?
花芯から垂れた夜露に、指が濡れた。
「近所のひと、じゃないの?」
「は……?」
声の主のほうを向いたつもりだったが、顔は相当呆けていただろう。
シャスタデージーの光背を背負ったブロンドが後光を放つ。
片側の髪をかき上げて耳に掛けると、じっと見つめた。
「そこの橋から投身したって聞いてない?」
聞いてはいた。2週間前だろうか。
救急車のサイレンが、車道の無いこの河原公園から聞こえたから、ローカルニュースを検索したのだった。
私の口をついて出たのはこんな感慨だった。
「やはり自殺じゃ成仏できないのか……」
「ジョーブツ?」
そこだけ母国語のままにした単語を、女は問い質した。
無理して「安らかに永眠する」と言い換えると、相手は口元だけで笑ってくるりと背を向けた。
そして花々を撫でるようにしながら、うさぎがいなくなったように闇の奥に消えた。
「地縛霊……、なのか?」
口にしてみて頭を振った。花の精だろう。そうあってほしい。そう思うことにしよう。
家に帰るには、自殺現場、件の青い橋を渡るしかないのだから。
川に引きずり込まれるとは思わないが、霊だと思うとあの美しさが損なわれる気がした。
ふらふらと公園の遊歩道を歩く。
硬質なアスファルト上だと、スニーカーの中の湿り気が急に気になった。芝草の屑がつま先に貼りついてもいる。
立ち止まって片足ずつぶらぶらしてみたが、靴が乾いてからはたいたほうが早いか、と思い直してまた歩き出す。
そんな私を後ろから追い越す人がいた。
遊歩道にまばらに街灯があるだけのこの河原公園、11時近いだろうに、女性の一人歩き。
サンダル履き、レギンス、その上にオーバーサイズのTシャツ。公園を抜けたところのコンビニにでも行ったのだろうか。
私はその人の背の向こうの、青い橋を眺める。
あそこから飛んで死ねたりするものだろうか?
橋からの落差は6メートルくらいか。水深は、まあ、足が届かないくらいだな。いつも濁っているから、病気でなら死ぬか?
目を上げると、橋のたもとの街灯に照らされた、女性の逆光のシルエットがあった。
片手を腰に当てて振り返っている。
「同じ方向なら送ってくれてもいいんじゃない?」
「は?」
「Tシャツ夜露でぐしょぐしょなのに、上着貸してくれる気もないわよね」
「え?」
神秘的な花の精のローブに見えたものは、無機質な街灯の下では、ヨレヨレに濡れたTシャツでしかなかった。
私はいつの間にか消えていた頭痛の源だった右こめかみに手を当てて、左目に抗議の意を含ませた。
「生身の人間には興味がなくてね……」
「あら、残念」
女は屈託なく笑った。
そして連れだってゆっくり歩きだした。並んでみると、私のほうがほんの少しだけ背が高い。
「何を……してたの?」
生身の人間なら、花の精でないなら、いったい何を?
「明日、海に花を流すの……。夕立で花、大丈夫だったか気になって……」
「精霊流し?」
と言っておいて、ここは日本じゃなかったと思い直す。
日本語で書き物をしていると、どうも言語チャンネルが切り替わらない。
「命日?」と言い換えた。
女は思ったより殊勝にコクリと頷いた。
「一周忌。あの花好きだったから。遺灰も流せたらいいんだけれど、まだ、ダメみたい」
「急がなくて、いいんじゃないか?」
私も5年前に妻を亡くしている。子もなく身軽なのだが、それだからこそ、家を売って日本へ帰ってしまえば、人生にひと区切りがついてしまいそうで恐い。
日本に落ち着いて、「あの頃はよかったな」と一括りにしてしまいたくない。
今ここで、妻のカケラや残像と暮らし続けることができるなら、そのままでいい。
「身投げした人は助かったはずだから」
女は言い訳のように語る。
「偏屈なお向かいさんだとは思ったんだけど、よく見えないし、もし悪い人だったら恐いから脅かしとこうかなって……」
ふっと笑いが洩れた。
「なあんだ。高貴な花の精に遭えたって思ってたのに」
女はよっぽど笑ってみせる。
「そっちのほうこそ、かなりうすぼんやりな反応だったわよ?」
「ま、そうかな、執筆のほうがうまくいってなくてね」
「小説家なの?」
「いや、雑文書き」
女が足を止めた家は一方通行の路地を挟んだちょうど真向かいだった。
玄関を背にした姿を見てやっと、「そういえばこんな絵柄を見たことがある」と思った。
私の近所付き合いは最低限、両隣に不在時の小包の受け取りを頼まれるくらい。
正直なところ、向かいのご主人を見かけないことにも気付いていなかった。
少し申し訳なく思って聞いてみた。
「明日海へ行くって、一緒に行ってくれる人は?」
「誰も。散灰するなら来たいって友人多いんだけど、私がまだムリだし、みんなに声かけてだんどりする気分でもないの」
「車、出そうか?」
女はびくっと目を合わせた。瞳が揺れている。警戒の中に、ほんの小さな「お願い」が隠れている気がする。
「大勢に来てほしくはない。静かに夫と向き合いたい。誰かに傍に居てほしい気はするけど、親しい人だと泣き崩れてしまう。そんなところじゃないか? オレくらいの距離感がちょうどいい」
「でも……」
「邪魔しない。運転手と荷物持ち。長距離でも構わない。明日一番行きたい海辺を選んで、うちのドアベル鳴らして。何時でもいいから」
「でも書く仕事あるって……」
「用事ができたほうが執筆ってのは捗るもんなんだよ。それに、オレも5年前に妻と死別してる経験者だから」
花の精の儚さも腰に手を当てた強気も消え失せて、何とか自力で立っていようとする女が見えた。
抱きしめてやりたいと思うくらいに。
「下心はある。君と旦那さんと、オレとうちのと、4人で一緒に居られたらなって。人魂ふたつと人間ふたりって言ってもいい。やっと一周忌でそんなこと言われても困るだろうが、少しずつ知り合えたら嬉しい。じゃ、おやすみ」
背を向けて路地を渡りそのまま玄関に入った。
ふうっと肩で息を吐く。
自分が恋に落とされたことは自覚している。
彼女が明日どうするかは、きっと彼女にもわかっていないだろう。
明朝、夫に散華する花を摘みながら、花占いしてほしい。
Il m'aime un peu, beaucoup, passionnément, à la folie, pas du tout.
(彼は私をちょっと好き、いっぱい好き、情熱的に好き、狂うほど好き、全然好きじゃない)
白い花びらを一枚ずつ引き抜きながら唱え、最後の一枚に賭けて。
それが貴女の心に沿った答えなら嬉しい。今の私にはどれが正解なのか、全くわからない。
恋心なんてないほうが安心か? それとも情熱を見せて少し強気に出てほしい?
死んだ伴侶ごと愛し合おうなんて、綺麗事だろうか?
教えてくれ。
貴女は織姫星のように私を、この地に繋ぎとめたのではないのか?
―了―
作中の身投げの話が「最後の金星」https://ncode.syosetu.com/n8809hb/
とっても淡いホラーになってます。