タピオカ☆パン
目を覚ますと、スマートフォンにセットしておいたアラームが鳴っていた。
午前5時。学校の無い土曜日は、いつもこの時間に起きる。
家族を起こさないように、そろりそろりと階段を下りる。リビングに電気をつけると、キッチンに向かい冷蔵庫のドアを開けた。作り置きしていたおじやを早食いして、ミックスジュースをコップに注ぎ、飲み干す。ゼリー飲料をバッグに入れて、サイクリング用のウインドブレカーを着て、準備完了。春とはいえ、早朝の空気はかなり冷える。寒さ対策はサイクリストの必須項目だ。
北欧風の造りのリビングを出て、玄関に置いてあるロードバイクのタイヤ空気圧をチェックする。タイヤの中にはチューブが入っており、それに空気が入り膨らむようになっているが、最近ラテックス素材のチューブを試しに使っており、それが空気が自然と抜けやすい素材であるため、毎回乗車前に空気を入れ直す必要があるのだ。乗り心地が良くなる。ただ、まあ面倒ではあるのでしばらくしたら普通のチューブに入れ替えようかと思う。
空気を入れ終えてブレーキ系統の効きを確認、ライトの点灯の確認もする。しばらく走ればすぐに陽が昇るが、途中、トンネルもある。
ドアを開けて鍵を閉め、バイクに跨る。今日もよろしくね、と心の中で思う。
ペダルにクリートで足を固定し走り出すと、程よい寒気を顔に浴びる。自然と眠気が吹き飛ぶ。
家は河川敷のすぐ側に有り、数分もしないうちにサイクリングロードに入れる。女子高生が早朝、日の出前に一人で出かけるのはそれなりに危険な行動だろう。ただ、河川敷には近所の老夫婦など、顔見知りがこの時間帯からウォーキングなどを始めているので、それなりに安心感はある。
しばらく河川敷を走っていると「見慣れた」後姿を見つけた。
100メートルほど先、陽が昇るか昇らないか、という薄暗さの中、輝くブロンドの後ろ髪が左右に規則正しく揺れている。
またあいつか、と思う。会うたびに馴れ馴れしく話しかけてくる、あいつ。
この自転車道は町唯一のもので、自動車も走っていないし便利なのだが、それ故に今まですれ違った事のある奴との遭遇率が異常に高い。
そもそもあいつの場合、私の練習時間を狙って同じ時間帯に走っているのだろう。ほとんど毎回遭遇する。
面倒だな、と思う。別に、奴だから面倒なのではなく、誰が相手でもそうだ。私は人付き合いがとてつもなく苦手なのだ。
かと言って今まで行ってきた朝のルーティンを変更するのも嫌だし、何より早朝の空気感が好きで走っているのだ。空気はまだ汚されていない状態で澄んでいるし、雑音も無い。草木が揺れる僅かなさざめきの音が、一週間の嫌な事をすべて雪いでくれる。
まあ、毎回途中からあいつは私についてこれなくなるので、多少我慢すればいいだけのことだ。
じわじわと距離をつめて、横に並ぶと早速話しかけてきた。
「おはよう、しずく。今日もよろしくな」
ブロンドの美少女、九頭竜姫子はそう言って、そそくさと私の後ろに回った。握りこぶし五個分ほどの距離を保ち、ぴったりとくっついてくる。これはロードバイクに於いて有名なドラフティング――所謂風よけのテクニックである。
先頭を走る者の後ろに付いて走った場合、その速度を維持するために必要なパワーを三割ほど削減できる。それほどロードバイクにおいて空気の抵抗、風向きは大きな壁になる。物理の法則に従い、速度が上がれば上がるほど空気の抵抗は増加し、強烈な負荷となり脚にのしかかってくる。
小賢しくも、姫子はそれを解ったうえで、私を発見するや否や後ろに張り付くのだ。
「今日はできれば、最後まで付いていけたらいいな」
姫子の落車事件から一か月ほど経つか。あれから数回、共に走る場面もあり、簡単な会話はするようになった。
「今日は最後まで着いてこられますかね」
私の土曜練習ルートは、県が上級者ルートと定めている、ヒルクライムを含めた総計百キロメートルのコースだ。サイクリングロードを抜けて海沿いに走り、標高七百メートルの山を登り、下る。美しい日本海が臨めるという事で、一見すると気持ちのいいコースだが、なかなか初心者では完走自体難しいコースだろう。
姫子は、途中のヒルクライムにさしかかる一歩手前でいつも千切れていなくなってしまっていた。まあ、山に到達するまでにも坂はあるし、距離も長い。ロードバイクを初めて一月では、着いてこれなくて当然であろう。
「着いて行くさ。いつもと一味違う姫子様を見せてやるよ」
ちらりと後ろを見ると、姫子は不敵に笑っていた。
相変わらず、整った顔立ちだな、と思う
眉と目はやや吊り上っているが、恐ろしく左右対称で双眸は大きく見開かれていて、型で切り抜いたクッキーみたいに可憐で可愛らしいまぶたをしている。鼻はツンと自信たっぷりに高く、唇なんかは何も塗ってないだろうに綺麗な桜色だ。肌なんか、本当に生きているのか疑わしいほど白い。
ただ、脳裏には犬グソ落車をした時の彼女が焼き付いており、どれほど美人であっても「残念」のレッテルははがせない。申し訳ないが、あの時の事を思い返すと少し吹き出しそうになる。
しばらく走って、自転車専用の道が終わった。ここからは海沿いの車道をひたすら走る。車通りも少ないが、いくつか信号もあるため、急な停車に備えて姫子はいくらか距離を置いて、後ろを走っている。距離をあけるとその分、ドラフティングの効果が薄れる。しかし姫子はしっかりと着いてきていた。いつもだと今頃はもうすでに千切れているはずなのだが。
後ろをちらりと見ると、姫子は息を荒げながらも真っ直ぐにこちらを見据え、ペダルを回している。そして、足元を見てはっとした。いつものランニングシューズではなく、ロードバイク用のビンディングシューズを履いていた。足とペダルを固定することで効率の良いぺダリングが可能になるものだ。そう言えばさっきから信号で止まるたびに、クリートを外す音がパキンパキンと聞こえていたな。
姫子がロードを初めて一か月――シューズにまで手を出すとは。ビンディングの導入は、初心者にとってはそれなりの覚悟と手間が必要だ。本気でロードバイクに向き合う姿勢が無ければ買う事のない物だろう。
本気なんだな、と感心した。以前言っていたロードバイクで有名になりたいと言う話も、冗談ではなく真面目に自分の将来を夢見たものであるようだ。そして現に、着実に速くなっている。
いよいよ、山の入り口が見えてきた。
ここは県内で有名なヒルクライムスポットで、平均斜度6%、13㎞もの距離を登るコースだ。
私はスピードを落とし、姫子に話しかけた。
「これから山を登ります。私は自分のペースで走りますが、ヒルクライムは経験がありますか?」
「いや、まだ無い」
「そうですか。まあ、当人の自由ですから止めはしませんが――登りきるつもりならば途中で足を止めない事です。再スタートできなくなりますよ」
慣れないビンディングでヒルクライムをするのは、あまりお勧めしない。基本、登り道しか無いため、途中で足を着いてしまうと次にペダルにうまくクリートを装着できなくなるのだ。平坦ならば慣性で車体が進むためその間に嵌め直せるが、坂道では漕がなければすぐにバイクが停止し、バランスを崩す。坂での再発進は慣れが必要なのだ。落車のリスクを背負うことになる。
視線を前に戻し、フロントのギアをインナーに落とす。ほんの少しの間だけペダルが軽くなる。坂に入ると、途端に足が回らなくなる。呼吸も少し、荒くなる。
だが、私はヒルクライムが好きだ。山の静けさも、周囲の緑も、飛んでいる鳥も、すべてが癒しだ。吹くそよ風はまるで山が呼吸をしているようで、だんだん荒くなる私の呼吸と呼応して、隣り合わせで一緒に深呼吸をしているかのような感覚にさせてくれる。
山は、否、山だけが私の唯一の友達。数少ない理解者だ。
姫子は、もう姿が見えなくなっていた。だが、こればかりは仕方のない事だ。
脚質、という言葉がある。体系や筋肉の質によって決められる、自身の得意な走り方を差して用いられる分類だ。
とりわけ、平地のトップスピードが凄い「スプリンター」と、坂を上るのが得意な「クライマー」の二種類が有名だろう。両方ともそつなくこなすタイプは「オールラウンダー」と言う。
私はクライマーだ。姫子より体が小さい分体重が軽い。登りでは重さが数㎏違うだけで大きな差となるのだ。
そして私は中学性の頃からヒルクライムをしてきた。初めて山を登る姫子と差が付くのは当たり前の事だった。
だが姫子に合わせていると練習の効果は薄まるし、せっかく登っているのだから自分のペースで走りたい。初心者を山で一人で走らせることに多少負い目を感じるが……まあ、好きで着いてきているのだから、そこは自己責任という事でお願いしたい。
だが、不思議な感覚だ。こうやって人の心配をするなどいつ以来だろうか。
中学生からずっと、長らく一人で走ってきた。大会などに出ると話しかけてくる奴もいたが、無視してマイペースに走り続けてきた。誰かを気にかける事など無かったのだが。
姫子が後ろについてくるようになって、何やら自分でもよくわからない感情が芽生えつつある。サンタクロースからプレゼントを貰った時のような「気が付いたらいつの間にやらそこにあった」感覚だ。そしてその中身がなんなのかが解らない。
「おっと……これは酷いですね」
落石である。それもかなりの量だ。握りこぶしほどの大きさの石が車道にばらまかれていた。車でも通るのを躊躇しそうな状態だ。ロードバイクのような細いタイヤで踏みつければ一発でバランスを崩す。パンクも避けられないだろう。慎重に石の間を縫うように通り抜ける。
落石地点から2㎞程登ったところで、ふと姫子の事が気にかかった。
まだ、登り続けているのだろうか。
そして登っているのならば、さっきの落石箇所は無事にパスできたのだろうか。
ヒルクライムでパンクなぞしたら、もう終わりだ。きっと予備のチューブも持っていないだろう。しかしパンクして諦め、来た道を下るというのもかなり危険だ。最悪の場合、崖下に転落する可能性も――。
「……ああ、もう、気がかりですね」
Uターンして、来た道を下る。
勝手に着いてきた初心者など、放っておけば良いのに。いや、今までの私ならそうしただろう。
まあ、もし死なれでもしたら目覚めが悪い。仮にも同じ学校に通う者同士だ。ただ、それだけの事なのだろう。
落石地点に辿り着いた。姫子はまだ来ていないようだ。
もしかすると、既に諦めて下山したのかもしれない……と考えた矢先に、九十九折を曲がって登ってくる綺麗なブロンドの髪が見えた。
だが、相当辛いのだろう。苦痛に歪んだ顔面が威嚇時のゴリラのようになっていた。
「はぁ、はぁ、あれ、しずく、待っててくれたのか?」
姫子は落石の手前でバチンとクリートを外し、足をついた。
「あ、しまった足ついちゃった」
「いや、それで良いと思います。こんな石だらけの道を無理に走らなくても良いです」
「はぁ、にしても、登りだとこんなに差が付くものなのか……ちょっとへこむわ」
ゴリラ顔のまま姫子はドリンクを一口飲んだ。
「正直言って、予想よりもずっと登れています」
この地点で、6合目付近だろう。しかも、想像していたより差が付いていなかった。外見の派手さから軽薄なイメージがあったが、根性がある。
「っていうか、しずくは自分のペースで登頂するつもりだったんだろ。先、行けよ。私はなんとかして再スタートするから」
なんとかして、とは言うがおそらく無理だろう。足が震えているし、この状態で登りの再スタートは危険だ。できたとしてもこの後に斜度10%を超える激坂区間がある。
「……今日は引き返しましょうか」
「はぁ? どうしたんだ、急に」
この地点に戻る時、長く下ったせいか体が冷えてしまった。エンジンのかかりきらない状態で残りの四割を登っても、大した練習にはならない。
「体が冷えたので。なんだか気力が失せてしまいまして」
「冗談じゃない! 私ぁ登頂するぜ!」
そう言うと姫子はなにやら背負っていたリュックから飲物を取り出し、見せつけてきた。
タピオカミルクティーだ。コンビニで買ったものだろう。
「山頂でのタピオカミルクティーでブレイクタイム、SNS用に写真を撮るんだよ、そのために必死こいて登ってきたんだぜ」
「えぇ……」そんな理由で登ってきたのか。驚くべき執念だ。
「でも、もう無理でしょう。太ももがプルプルしてますし……この先もっと辛い登りがありますよ」
「……じゃあ、予定変更だ」
姫子は、自分のスマートフォンを私に渡してきた。画面を見るとカメラの撮影モードのようだったが、少々見慣れないアプリだ。
「山頂で撮れないなら……この場で動画を撮ってやるさ! 題して、坂を上りながら余裕の表情でタピオカドリンクを飲む美少女クライマー、だ。そこの画面下にある配信ボタンを押せば、SNS上で動画が配信されるから、撮影頼む」
「え、いや、大丈夫ですか? そもそも坂道発進できるんですか」
「そこは根性とセンスで何とかするから」
姫子はバイクに跨り、まず右足をペダルにはめこんだ。そして、サドルから立ち上がり、体重を利用して右足を一気に踏み下ろす。すぐさまクランクを反対方向に回転させ、左のペダルが下に来た瞬間、左足も器用に装着させた。
「お、おお」上手い。初心者は焦りで上手く装着できない事が多いが、器用な性質なのだろう。
「なにしてんだ、しずく! 早く撮ってくれ」
「あ、は、はい」
おっと、いけない。今私はバイクから降りている状態だ。ぼんやりしていると姫子は先に登って行ってしまう……と思ったが、想像以上に遅かった。小走りで十分追いつく。やはり体力の限界か……ゴリラの顔になっているが、この映像を配信してもいいのか?
姫子はドリンクホルダーに差し込んでたタピオカミルクティーを手に取った。私も配信ボタンを押す。画面には「現在配信中です」という文字と、タピオカミルクティーを手に持った美人過ぎるゴリラの動画が写っていた。
ハンドサインで「オッケー」の合図を送る。配信開始したという意味だ。
姫子は勢いよくタピオカミルクティーを啜り上げた。
「んごっぱぁ!」
乱れた呼吸――そこにタピオカを流し込んだことで反射的にむせ返ったのだろう。
姫子は大量のタピオカを口と鼻から大量射出した。
「タ、タピオカァーーー!」
意味不明の絶叫が山にこだました。
帰宅して、少し気になって姫子のSNSアカウントを覗いてみた。
アップロードされた動画は削除されていたが、視聴者のコメントだけは数件残されたままになっている。「ゴリラがカエルの卵を顔面から生み出す貴重な動画」「残念美女」「最後の絶叫で笑った」と書き込まれている。
まぁ……目立ててよかったね。
正直私も笑えたが、まぁ黙っておこう。
シャワーを浴びてリビングのソファに座ると、スマホにメッセージが届いた。
姫子だった。明日はリベンジで、地元の観光地にサイクリングしに行こう、と書かれている。
タピオカ噴射後、麓のコンビニに立ち寄り、そこで連絡先を交換した。初めての事だったので少し戸惑いはしたが、不思議と嫌な感じはしなかった。
「いいですよ」と返信。すぐさま行き先と集合時間のメッセージが帰ってきた。
地元の観光地か……そういえば、ヒルクライムばかりでそういう場所には言ったことが無いな。
「わかりました。美味しい物が食べたいです」
「なら、怜泉寺ってお寺周辺が観光地で、美味いゴマ豆腐ソフトクリームがあっておすすめなんだが、どう?」
「いいですね、楽しみにしておきます」
楽しみ――人付き合いでこんな感情が湧いたのは本当に何時振りだろうか。
なにか、頭の中にあるものが自分の脳みそじゃないみたいだと、そう思った。