第268話・名前の壁と従属契約
アーシェンは嘘をついている。
見た目はいつもと変わらないのに赤く染まったということは、アーシェンの体調が悪いということだろう。
どこが悪いのか、どうしてそれを隠しているのか。つい疑うような目をアーシェンに向けてしまう。
いつでも魔虫の蜂蜜を口にすることが出来るのだから、病気やケガではないはずだ。
焦る気持ちを抑え、ルーリアはアーシェンを見つめた。
魔虫の蜂蜜でも治らないとなると何だろう?
人族の体質? それとも、まさか呪い!?
赤く染まったアーシェンから目を逸らし、お茶のカップを両手で持って視線を手元に落とした。
一気に跳ね上がった心音を移すように、手がかすかに震え、お茶の表面に小さな揺らめきが広がる。
「それより、ルーリアちゃん。初めての神殿はどうだったの?」
アーシェンの明るい声に、ルーリアはハッと顔を上げた。にこやかな笑顔のアーシェンは、今は赤く染まっていない。
そっと小さく息を吐き、ルーリアは返す言葉を探した。
「……いえ、その。ちょっと急だったので、実はあまりよく覚えていないんです。周りの景色よりも、いろんなことで頭の中がゴチャゴチャしてて……」
今も嫌な不安が押し寄せてきて、何から考えればいいのか分からないでいる。
「まぁ、いきなりだもの、そうよね。今回の後処理が落ち着くまで、ガイン様たちは神殿にいる予定だと聞いているわ。ルーリアちゃんはどうするの?」
今回の件が終わったら、エルシアは一時的に神官長を務め、クインハートにその席を譲るための指導をする予定でいると、ユヒムに連絡があったらしい。ガインも同じく一時的に騎士団長の座に就き、それから引き継ぐ騎士を選ぶという。
神官と騎士団、どちらの立て直しにも恐らく数年はかかるだろうと、ガインは考えているそうだ。
「ガイン様たちは出来ればルーリアちゃんと一緒にいたいそうだけど、場所が場所だから、ルーリアちゃん自身に今後のことは選ばせたいみたいよ」
「……そう、ですか」
自分はまだ、ミンシェッドの本家の者たちとは会っていない。代々エルフの純血を重んじてきた一族だから、自分が歓迎されるとは思っていない。
……出来れば会いたくないとさえ思っている。
もし目の前で父親のことを悪く言われたり、その血を引いていることを蔑まれたりしたら、冷静ではいられないと思う。
「お父さんとお母さんの側にはいたいです。でも、正直に言うなら、神殿には行きたくありません。……たぶん神殿に行ったとしても、わたしが外に出ることはないでしょうから」
アーシェンの嘘に動揺したからか、ルーリアは自分でも不思議なくらい、自然と本音を漏らしてしまっていた。
ガインたちと一緒にいたいけど、神殿に行っても屋敷に閉じこもり、忙しい合間を縫って二人が訪ねてきてくるのを待つだけとなるはずだ。
それなら、少しは自由に動けるこの森で、ガインたちのたまの帰りを待っている方が良い気がする。
魔虫の蜂蜜を作りながら待つのであれば、少しは人の役に立つことも出来るだろう。
「……わたしはここに残っていた方が良いと思います」
「ルーリアちゃんがそう望むなら、私とユヒムは全力で協力するわ。ルーリアちゃんが望む通りに過ごせるように、そうするために、私たちはいるんですもの。あとから神殿に行きたくなったとしても、それはそれで構わないと思うわ」
「……アーシェンさん……」
……何かがおかしい。
アーシェンの言葉を聞き、ルーリアはそう感じた。今までだったらきっと「ありがとうございます」と礼を伝え、協力してもらうことに何の疑問も持たなかっただろう。
でもそれは、あくまでルーリアが魔虫の蜂蜜屋の娘だったからだ。
自分たち親子とアーシェンたちの繋がりは、シャズールたちが元神殿騎士だった頃からのものだ。それは分かる。だけど、アーシェンたちは商人だ。
生産者と商人という間柄で考えれば、魔虫の蜂蜜は絶対になくてはならない物だろう。
それなのに、今のアーシェンの発言は、魔虫の蜂蜜の心配を全くしていないものに聞こえた。
蜂蜜があってもなくても、どちらでも良いような。言葉の端々に何があってもルーリアのために力を尽くすと言っているような、強い意志が感じられた。
……どうしてそこまで?
蜂蜜を持たない自分に対し、アーシェンたちがそこまで決意している理由が分からない。
商人の二人が、商売抜きに動く理由とは?
ルーリアはユヒムとアーシェンに、人としての信用や信頼とは別の、何かを意図的に隠されているような、そんな疑いを持ち始めた。
二人は自分に、何か大切なことを隠しているのではないか、と。
◇◇◇◇
「!」
──これは、森にある住居に戻ったのか?
やっとルーリアの所在を捉えたセルギウスは、思わず息を呑んだ。間違いない。ペンダントの反応があるのは、あの森の建物の中だ。
今すぐに駆けつけたくても、詳細が分からないため下手には動けない。行った先でまたリューズベルトと鉢合わせする可能性もある。
神兵招集がかかったと思われる昨日から、リューズベルトは学園に来ていなかった。
自慢にも何にもならないが、セルギウスは何かとタイミングが悪い。それを誰かのせいにする性格ではないが、変に空回ることが多いため、今もどのタイミングで動くべきか思い悩んでいた。
そんな主を見兼ね、クロムディアスは口を開く。黒剣の姿のまま、他の者には聞こえない声でセルギウスに話しかけた。
『動かれる前に確認させていただきたいことがございます。従属契約において一つ、見落としが存在するやも知れません』
やっとルーリアの所在が掴めたというのに、今さら見落としだと!? と、セルギウスは軽く目を見張った。どうやら運も悪いらしい。
『……見落としとは何だ?』
『あの方のお名前ですが、偽名の可能性はございませんでしょうか? 契約には真名が必要となります』
真名。確かに失念していた。
これはクロムディアスの責任ではない。
そこまで思い至らなかった自分のせいだ。
『あの方のお名前をご存知の方に、お心当たりは……?』
クレイドルなら恐らく知っているだろう。
それはすぐに思い浮かんだのだが。
『……難しいな。仮に知っていたとしても、素直に教えてもらえるほど自分が信用されているとは思えない』
『左様でございますか』
ルーリア本人にもそうだが、クレイドルにも今回の従属契約のことを明かすつもりはない。
契約のことを隠すと決めた以上、真名だけをクレイドルから聞き出すのは難しいと思えた。
……手詰まりか。
『まだ偽名だと決まった訳ではございませんから、まずは今のお名前で試してみましょう。それで契約が通らないようでしたら、住まいを少々探らせていただくことにはなるかと思いますが』
無断で家の中を探るというクロムディアスの提案に、セルギウスは眉を寄せた。
『……気は進まないが、仕方あるまい』
『そちらはワタシにお任せいただきたく存じます』
『ああ、そちらは任せよう』
『かしこまりました。念のため、夜まではお待ちください。そちらの方が契約に好都合ですので』
『……夜か。分かった』
そして、その日の夜。
セルギウスは再び、ルーリアの部屋を訪れていた。
家の中は物音一つしない、静かな状態だ。
念には念を入れ、今回は初めから魔法で姿を消し、ルーリアの部屋に転移すると同時に罠などの解除も行った。前回、騒がせてしまった猫妖精も即座に眠らせている。
部屋の中にはすーすーと、ルーリアの寝息がかすかに聞こえるだけだった。
「では、ひとまず試してみるといたし──」
そう言いながら、ルーリアの眠っているベッドに近付いたクロムディアスだったが、不意に言葉と足を止めた。
「……おや、これは──」
「どうした? 何か問題でも……」
クロムディアスに続いてルーリアを覗き込んだセルギウスも思わず言葉を止める。
「……何があった?」
ひと目で分かるほどの変化を起こしているルーリアの姿に、セルギウスは魔眼を向けた。
髪色の変化はこの際いいとして、ルーリアの魔力が昨日までの倍以上に増えている。
何かの制限を解いたのか、それとも──。
まさか! と思い、セルギウスは机の上にある小さな白いカバンに目を向けた。
真っ先に頭をよぎったのは、邪竜の存在だ。
こんな小さなカバンのどこに、どのように収まっているのかは不明だが、セルギウスの魔眼は邪竜の気配を確かに捉えていた。
こっちは特に何の変化もないようだ。
「このままで構わない。契約を行ってくれ」
「は、かしこまりました」
クロムディアスはルーリアに向き直り、すぐに従属契約の文言を口にした。
『闇の凪を受諾せよ
暗黒を織る者の名において隠物は交わされた
日を遮るものより永遠に輝くものへ
我が名は クロムディアス』
詠唱により、ルーリアの身体の下に黒色の魔法陣が、一つ、二つと光を帯びて広がっていく。
『回転する輪より外れし者
夜に漂うものより儚き者
彼の者の名は ルリ……』
クロムディアスが『ルリ』と名を口にしたところでバシッと弾く音を立て、契約の魔法陣は光を失い消えてしまった。
「……やはり無理か」
「申し訳ございません。そのようです」
そこからクロムディアスが部屋の中に探りを入れ、机の引き出しから手紙を見つけたことで、名前が『ルーリア』であることが分かった。
…………ルーリア。
しかし、それだけでは不十分だった。
その名前で行った従属契約も失敗に終わってしまったのだ。
……まだ何か足りないのか。
その後、クロムディアスは住居内を丹念に探したが、真名に繋がる手掛かりは何も見つけることが出来なかった。
「大変申し訳ございません。こうなってしまいますと、ワタシにも為す術がございません」
「……そうか」
こうなってくると綺麗事も言っていられなくなる。
クレイドルに事情を話すしかないのか、そう思った時。セルギウスの脳裏に、ふと思い浮かぶものがあった。
魔眼で見た時の、ルーリアの付き添い人が身に着けていた衣装だ。あれには確か、神殿の神官たちと同じ紋章が描かれていた。
ルーリアはハーフエルフだ。
それなら、もしかすると……。
「クロムディアス。名をルーリア・ミンシェッドで行ってみてくれ」
「……ミンシェッド。かしこまりました」
三度目の正直だ。
クロムディアスは先ほどと同じように文言を口にした。
『闇の凪を受諾せよ
暗黒を織る者の名において隠物は交わされた
日を遮るものより永遠に輝くものへ
我が名は クロムディアス
回転する輪より外れし者
夜に漂うものより儚き者
彼の者の名は ルーリア・ミンシェッド』
──弾かれてはいない。
『時測りの欠けるものより
無光より来たる夢の織り手へと
揺らめくもの を 輝く輪へと繋げ
其の者の名は シュナイゼル・ロイシュタッド』
クロムディアスは契約の文言に主の真名を連ね、満足げに唇の端を上げた。
『星の撒き散らされたるものを桎梏せよ!』





