ふたりの始まり
「結―。行くよー」
仰向けになりながら空を仰ぐ。お腹の上で手を組み、瞼を閉じて。
風と草葉が擦れる音が心地よく、力が抜ける感じは眠気を誘った。
学校の中庭。結は穏やかな時を感じていた。
いつも健が眠るその場所は、とても気持ちが安らぎ。
彼がなぜここへ来るのか分かる様な気がした。
「結―」
もう一度呼ばれた声に結はゆっくりと瞼を開いた。
「うーん。いまいくー」
気の抜けた返事を返す結は、目を開けただけで何一つ動きを見せなかった。
そんな微動だにしない結を見て、呼びかけていた女生徒は軽く溜息をついた。
「先に行くからね」
呆れたようなその声に結は気もなく「うーん」と返した。
青い空が広がる視界。ぼーっと変わる白い雲の形を観察していると視界に健が入り込んできた。
結は急にハッと我に返るが、視界から健が抜けた。
そして隣から心地よい香りと共に風が感じられた。
結は首だけを動かし見ると、健がすぐ隣に腰を下ろした。
「何してんの?」
結を見ず、手元のサンドウィッチのフィルムを外しながら問うと、一口頬張った。
数回噛み砕き飲み込むと顔だけを結へと向け目を見つめた。
結はドキッとした心音を聞かぬフリをして起き上がったがそれは、自然とは言えない程慌てたものだった。
「ごめんなさい」
その場所で。
彼の場所で横たわっていた事にばつが悪くなり口をついて出た言葉。
健は何の事かわからなかったが、とりあえず前回も少し強い口調だったから、そのせいかもしれないと申し訳なくなった。
「別に、いいよ」
素直になれない言葉に健は自己嫌悪し、二人はしばし無言となった。
結は同じ場所で体育座りとなり、健はそのまま隣で胡坐をかきサンドウィッチを頬張っていた。
俯く結は視線だけでチラチラと健の横顔を伺い、その度に少しはにかむ表情をどうにか歯を食いしばるように押し隠した。
健は前を見つめたまま、隣り合う彼女に何を言おうか考え続けていた。まずは謝ったほうがいいのか、それとも御礼を言うべきか。でも、いきなり御礼を言われて「あの言葉が嬉しかった」なんて気持ち悪いだろうと。
最初に「何してんの?」なんて、間違った言葉の選択だったと後悔した。
「サンドウィッチですか?」
結も同じで言葉が見つからず。出た言葉がこれだった。
「あぁ」
健もまた言葉を見つけられず出た言葉はそれだけだった。
会話が終わった。
その瞬間、二人並び肩を落として自分を責めた。
―――何聞いてんのよ。見ればわかるじゃない。もっと聞きたいことあるでしょ。あぁ変な娘だと思われたかも。せっかく話せるタイミングなのに。
―――「あぁ」ってなんだよ。高圧的だし無愛想すぎだし。それに会話終っちゃったじゃねぇか。もっとうまい返しをできねぇのかオレは。
その時、結は健の傍らにスケッチブックを見つけた。
「あ。それってこの間の」
何も考えず出た言葉は、あまりに自然で二人の会話を紡ぎ治した。
「ん?あぁ。そうだよ。・・・見る、か?」
「はい。見たいです」
結のその時の表情は眩い笑みだった。とても自然な考えなしの表情だった。それを見た健は一瞬唾を飲み。そして、ゆっくりとスケッチブックを結へと差し出した。
受け取ったスケッチブックを、目を輝かせてみる結。健は、その横顔を見つめ、嬉々としているその姿もそうだが、先程見せた笑みを、それをもっと見たくて見ていたくて。そんな事を考えるだけで笑みが零れて、少し擽ったくなった。
そこから二人の間の会話は絶えなかった。
絵が好きなのか?という始まりから会話は弾んだ。
「オレの描く絵にはストーリーがあるんだ。例えば、これは」
昔からの知り合いだったかのように互いが上手くはまっていった。
まるで、パズルピースのように。
「え?それで、その後はどうなっちゃうんですか?」
会話は何気ない事や互いの事まで広がった。
「私も映画、好きなんです」
不思議だった。先程まであった、緊張やいたたまれない空気はなくなり。
「あそこからの景色が好きなんだ」
落ち着くような、安心するような、居心地のいい空気があった。
永久に続けばと思える時間があった。
だからチャイムが鳴った瞬間、二人の間の会話は止まり、空気も流れるのをやめた。
どちらからも立ち上がることをせず、できずにいた。
「時間だな」
細く通り過ぎるように呟いた健の表情はどこか寂しげで。
「そう。ですね」
結もまた同じように寂しげで上辺だけの笑みを張り付けていた。
無言のまま一時止まった二人。先に立ち上がったのは健だった。それを見て結もまた名残惜しそうに立ち上がった。
先に歩む健の背中について歩く結の足取りは重く、しかし健に置いて行かれることもなかった。
「明日も」
と、言いかけてやめた。今日は金曜日。次、会えるとしたら月曜日。たった二日だったが、なんだか遠い先のような気持ちになった。
そんな事を思った瞬間に足取りは更に重さを増し、歩みに力が入らなかった。
「明日」
背中から発せられた言葉に結は目を丸くしてその背中を見つめた。
「明日。・・映画、観に行かないか?」
そう言って振り向く健は、緊張した面持ちを隠し切れないようで。
まるで告白でもしているかのような表情だった。
「はい。観たいです」
眩い笑み。先程と同じ、自然で反射的な笑み。健の恋した笑み。