予兆
「カントクーーーッ!」
健は後ろからの声に振り向くと助監督の吉村和也が手に持った台本を振り、さらには難しい顔をして健の元へと向かってきていた。
「おぉ。カズ。どうした?」
和也は健の所まで来ると手に持った台本の中身を指さし健へと見せた。
「ここなんすけど」
健は和也の隣へ立ち、覗き込み目を通すと和也が来た方向を見た。
そうして少し考えると、
「わかった。すぐ行く」
そう言うと自分の台本を手に取り和也と共に歩き出した。
あのプロポーズから数ヶ月がたった。
両親への挨拶や友人、知人への報告。指輪やウエディングドレス。新居への引越しに書類関係など結婚に向けての準備を着実に進めてきた。
だけど式の日取りは健の映画が完成してからと決め、入籍もその時にしようと二人で決めた。
健の映画撮影では様々な問題がありながらも人々に支えられ助けてもらえるおかげで一応の順調であった。
今年の冬は暖かい陽気が続く。それは健の気持ちを表すようで健はさらにそれに答えるようにやる気に拍車がかかっていき、毎日おそくまで映画と向き合い「より良いものに」と寝る間を惜しんだ。
苦しく辛く逃げ出したい想いの中、それでも健は毎日をとても楽しんでいた。
それは他の者たちにも伝染してゆき皆も必死に、でも楽しんでいる。
「今日ウチでメシ食わねぇか?」
その健の誘いに誰よりも先に和也が嬉しそうに手を挙げ「いきます。いきます。」とはしゃぐ様に大声をあげた。それを見て周りも笑いながら手を挙げだす。
「またノロケですか?」
手を挙げた人数を数え始める健の後ろから声がし、その声に怪訝そうに振り向くとチーフ助監督の櫻井絢が嫌味な笑みを浮かべて立っていた。
「アヤは来なくていい」
絢は軽く溜息をはくと意地悪な笑みをうかべる。
「だって、美人だろ。料理美味いだろ。優しいだろ。って結さんの自慢ばーっかりですもん。」
絢は手近のイスへと腰を下ろし。健はむくれて絢をいじけた様に睨み。二人は隣り合うようにイスに腰掛けた。
「だって本当じゃん。それにお前は呼んでない」
「いいえ、行きますよ。カントクはともかく結さんの事は好きですし」
健は短く溜息をつくと絢に背を向けて立ち上がる。
「さぁ、続きをやろう」
健は力なく言い、皆はそのやり取りを見て笑いを押し殺そうとするができずに各々の仕事へと向かった。
絢もゆっくりと立ち上がる。
「でもカントク。籍はまだ入れてないんですから大事にしてくださいよ」
「・・・ずっと、大事にするさ」
背中を向けたまま頭をかく健は自分にしか聞こえない程小さく呟く。
それを見て絢はクスリと笑った。
「カントクー」
和也が健に向かって手を振っている。健はそれに対し手を挙げ軽く返事をすると、振り返り絢へと向く。
「じゃぁ、こっちの準備よろしくな」
先程迄とは違い隙のないような雰囲気を纏った健は優しい笑みを向けて言い、絢も先程と変わり真剣な雰囲気で笑みを見せ「はい」と返す。
スイッチが切り替わったように変わった二人は、様々な仕事を共にしてきた、言わばコンビ。
互いに嫌味や意地悪を言い合いながらも、互いをよく知り信頼しあっている。
簡単に言えば仲のいい二人だった。
健は絢の返事を聞くか聞かないかで振り返り、歩き出していった。
だが・・。
「カントクっ!」
大声をあげ、駆け寄る絢。
膝を付き、目元を強く押さえる健。
周りもざわめき、大声を上げる者もいる。
走り駆け寄ろうとする者も居たが健の静かに挙げられた左手によって制された。
騒々しく慌ただしくなり張り詰めた空気。のはずなのだがまるで静かに思える、それは優しくない冷たい静けさ。まるで音の死んだような、そんな空気を感じた。
絢は立ち上がろうとする弱々しい姿な健の肩を支えゆっくりと立ち上がらせた。
立ち上がると健は目元を押さえたまま何度か頭を振った。
「大丈夫ですか?」
「・・・大丈夫。ちょっとふらついただけだから」
一瞬の事だった。
和也達の元へと行こうと2、3歩歩き出した時、急な目眩におそわれ、目の前が真っ白になった。
そして気づけば膝を着いていた。
絢は健を支えながら心配そうに見つめていた。
健はその眼差しに気づき力の抜けた体を立て直しながら絢へと笑みを向けた。
「ありがとう。もう大丈夫」
そう言って健は絢の手から離れようとゆっくりと歩き出した。
それでも絢は支える手を離さなかった。ただ少し遠慮がちになっていたが離れることなく健の後ろから着いて行く。
健は歩きながら少し霞む目を押さえたり、何度も瞬きを繰り返す。絢はそんな姿に心配が増し少し歩幅を広げ健の横へと着いた。
そして眉間に皺を寄せ健の顔を見つめた。
「本当に大丈夫ですか?休んだ方がいいんじゃないですか?」
「大丈夫だって。少し寝不足なだけだからさ」
優しく明るい笑顔を向ける健を見て絢は何も言えなくなってしまった。そのまま足も歩みを止めてしまった。
健はそのまま歩いて行ってしまい。絢はその後ろ姿を心配そうに見つめる事しかできなかった。