2098年のGHF監染官
ウィリアム・H・マクニールの『疫病の世界史』とマレイ・ラインスターの『メドシップ』に触発され、近未来の地球で新たな疫病と戦うGHF(世界保健軍)と監染官について書きました。
監染官に最初に会ったのは、東京は台場のアーコロジー廃墟だ。そ、海に浮かんだ有線地。腕や顔に鱗はやしてイキってる半魚人たちのたまり場。治安は悪いが、活気はある。
あのへんは、霞ヶ関ナノハザードの時に除染に使った漠砂が今も空気の中を漂ってるんで、無線はノイズが入りまくり。お上品な常時接続者は絶対に近寄らない。常時のやつら、頭の中でAIが助言してくれないと、歩くときに右足から出すか、左足から出すかも決められないから。
そんなわけで、AIに監視されずに自由に生きて、自由に死にたいヤツだけが台場には集まる。このご時世、自宅のトイレの中まで常時監視されてるもんな。クソぐらい勝手にさせろってんだ。
あ? 見てるのは建物の管理AIだけ? ばーか。そんなはずないだろうが。世界中のAIは混沌回路ってんでつながるんだ。
だから、AIに覗かれずにクソがしたけりゃ台場にいきな。あそこなら、どれだけクソをしようが、AIは監視してない。ま、人間の変態は覗いてるかもしれないけど。安心しろ。AIと違って人間に見られても記録は取られない。そいつの頭をカチ割ったら、あんたのクソの記憶は消えてなくなる。
あー……でも、クソはしばらく残るな。台場のアーコロジーは廃墟なんで、トイレは全部簡易型使い捨てトイレだ。回収されるまでは、そのまんまだ。
そういや、監染官の仕事にはクソが大事らしいな。あたしが最初に見たときも、クソに指つっこんでやがった。
ん?
ああ、すまねえ。勘違いさせたな。さすがにいくら監染官でも、他人のクソに自分の指はつっこまない。突っ込んでたのは、そいつの相棒の猿の方だ。いやもう、驚いたね。
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食えば出る。
朝から腹具合が悪かったあたしは、アーコロジーの廃墟をうろっとして、まだ生きてそうなトイレを見つけると、中にはいって出すものを出した。昨夜のパーティーで半魚人が持ってきた貝か何かがダメだったんだろうな。
生きてそう、ってのは言葉のあやで、台場アーコロジーは、完全な廃墟だ。
運がないっていやあ、運がないよね。第三次関東大地震のあとにそのへんの崩れた建物を更地にして、ナノ化処置で地下10kmまで地盤強化して、これで第四次大地震がいつきてもビクともしない、理論上は日本列島がプレートに引き裂かれて沈没しても平気で海の上に突っ立ってるって謳い文句でオープンして半年もしないうちに霞ヶ関ナノハザードだ。ナノハザードは局所的だったけど、暴走するナノマシンの除去に使った漠砂が、このへんに溜まっちまって動かない。おいおい。地球の公転に置いてかれ、太陽光にあおられて銀河の彼方へ飛んでくんじゃなかったのかよ。危機管理AIの野郎ども騙しやがったなって言っても、あとの祭りだ。
こうして新品の廃墟になっちまった台場アーコロジーは、常時接続者お断りの、ガラの悪い連中のたまり場となったってわけだ。
人が集まれば食うものは食うし、出るものは出る。そういうのを放置しといたらヤバいってのは、このへんうろつく半魚人連中だって知ってる。人の出入りが多そうな場所にあるトイレには、使い捨てのトイレシートが積んである。シートをトイレに突っ込んで上から出せば、出したモンがあっという間に干からびるって寸法だ。そいつをクルクルってまとめてゴミ箱に突っ込めば、有線のゴミ回収ドローン連れたやつが持ってってくれる。
とはいっても、使い捨ての簡易トイレシートだからな。出したもんが水みたいな時は、干からびるまで時間がかかる。自分のウンコがシートの上で萎びたミミズみたくなるのをじっと見てるのもアレだから、あたしはトイレのドアは開けたまま、手洗いを先にした。ついでに鏡に映った自分の顔とにらめっこ。げ。右のほっぺたのダミー鱗がはげかかっててショック。まだ2日もたってないのに。あたしの趣味とはちょっと違うけど、このへん半魚人多いからね。ダミーでも鱗はやしてりゃ、「あんたたちをリスペクトしてるよ」って意思表示になって、いさかいを避けられるんだ。
美容院いって鱗つけなおすか、それとも首んとこにエラっぽい入墨回路を埋めてごまかすか。基因いじって本物の鱗はやすのはイヤだなあ。そんなことを鏡見ながら考えていると、なんかが後ろを通った。
振り返る。なんもいない。いや、トイレのドアがかすかに揺れてる。
あたしはコートのポケットに右手を突っ込んで糸玉を握る。ここは有線地なので、AIにつながった監視カメラはない。自分の身を守れるのは、自分だけだ。
そろそろと足を忍ばせてトイレに近づき、ドアをぱっと開く。
猿がいた。小さいヤツだ。尻尾が長くて目がデカい。
なんでこんなところに猿が、という疑問はすぐに消えた。
猿のやろう、あたしのクソに指つっこんでやがったからだ。
「おい! 何やってんだ!」
あたしが怒鳴りつけると、猿が驚いて飛び跳ねた。半分固まった茶色いクソの粒が床にピピッ、と線を引く。
「てめえっ!」
あたしはポケットの中の手を引き抜こうとして、自重する。いくらあたしでも、小さい猿に糸玉を投げたらまずいと判断できるだけの自制心は残ってた。
猿がはねて逃げる。尻尾をブン、と振ると、尻尾についてた水がピッ、と飛んで、あたしの頬に、ペチッ、とついた。
「っっっ!!!!」
今度はさすがに我慢できなかった。いくら畜生でも、やっていいことと悪いことがある。万物の霊長ナメんじゃねえぞ。
あたしはトイレの外へ逃げた猿を追いかけた。いた。ポケットから手を出し、サイドスローで投げる。
廊下の角を曲がって、男が出てきた。男は猿を見て声をかける。
「お、ここにいたのかラークぅっ?!」
猿が床にぺたん、と腹ばいになった。猿に当たるはずだった糸玉が、男の腰のあたりに命中する。糸玉が瞬時にほどけ、男の腰に巻き付く。絞まる。
「おひょおおっ?」
男が情けない声をあげて倒れた。ごきり。あ、変な音がした。
倒れた男に、猿が近づいて、キィキィわめく。こいつのペットか。
「おい。大丈夫か」
あたしは男に声をかけた。うめき声がかえってくる。死んでない。よし。
あたしは用心しいしい、男に近づいた。
「その猿、あんたのか? あたしのクソに指つっこんでやがったぞ」
男を観察する。肌の色は日に焼けて浅黒い。鱗は見えない。半魚人の仲間じゃないな。小柄だが、骨格も筋肉も立派。着てるものは……うん、いい仕立てだ。センスは古臭くて合わないが、金はありそう。海外からの旅行客か? 台場にはけっこういる。有線地だから、遠隔旅行ってわけにはいかない。自分の足でうろつくしかないんだ。
「ああ」
男はもぞもぞと床の上で体を動かし、顔を猿に向けた。
猿がクソをいじってた指を得意そうにたてて、キッキッと鳴く。
「ラークに悪気はないんだ。ぼくにほめてもらおうとしてやったんだ。ごめんよ」
「は?」
猿がクソをつついたのは、男にほめてもらうため?
てことは、こいつは変態か。顔はけっこういいのに、情けないヤツめ。
「じゅげむじゅげむ」
「え? ──あたたたたたっ! 絞まる! 絞まってるっ!」
男が縮む糸玉に引っ張られて海老反りになりながら悲鳴をあげた。
「黙れ。ひとのクソをいじって喜ぶ変態が」
「違うっ、違うってばっ、これ仕事っ、ぼくの仕事なのっ」
「おまえの頭の中にしかない仕事に付き合う気はねーよ」
「ほんとっ、本当っ。胸のポケットに身分証はいってるからっ」
「身分証だされても、こちとら素人だ。真贋なんかわかんねーよ。それにここじゃ盗んだモンかもしれねーからな」
「フラッシュアップしてくれたら……あ。しまった。ここは有線地だ」
「諦めな。大丈夫。おもしろい形になったところで、武装民生委員呼んでくっから。ごこーのすりきれ」
「ぎゃーっ、折れるっ、折れちゃうっ」
男の面白い顔と情けない悲鳴を堪能し、猿にウンコいじられた憂さも晴れたので、武装民生委員を呼びにいく。
何をするにも、無線が使えないので歩いて行かなきゃいけない。詰め所まではちょっと遠いから、アーコロジーのテラスに出て。ぶら下がってる鐘を鳴らす。3点鐘。
しばらく待つと、詰め所から、走ってくる姿が見えた。外骨格車椅子の色からしてヨタ婆か。
ヨタ婆は、100才過ぎには見えないきれいなフォームで走ってくると、テラスの下からジャンプ。5mを飛び上がってテラスに着地。
「よう、ヨタ婆さん。元気そうだな」
「何があったんだい」
「変態がでた。トイレに入ってきて人のクソをいじってた。ガイジンだと思う。今は糸車でグルグル巻いてあるから引き取って」
「はあ……世も末だねえ。そろそろ世紀末だけど、あとどれだけ騒ぎが起きるか、あたしゃ想像もつかないよ」
「ヨタ婆お得意の、激動の百年ってヤツ?」
あたしはトイレに向かう。
ヨタ婆は外骨格車椅子を車椅子モードにしてついてくる。車椅子モードだと、外骨格部分が、足じゃなくて手として使える。こいつと力比べとなると、でけえ半魚人でもかなわない。警察の入ってこない台場の治安は、武装民生委員のじいちゃんばあちゃんたちが担ってる。
「冗談で言ってんじゃないんだよ。今の時代は何もかもが加速しすぎてる。AIだけがすごい勢いで突っ走って、人間は取り残されてんだ。こんな歪んだ社会が、そう長く続くはずがないよ」
「あー、はいはい」
話させるとくどいんだよな。100年生きてるから。
生返事をしながら、通路を進んでトイレの前へ。
そこにはエビになった男と、お供の猿が……おや?
「あの男かい?」
「うん。え? なんで糸車がほどけてんの?」
男は通路に座り込み、猿と向き合って、床に広げたものを棒でつついてた。
げっ。
あたしの使用済みトイレシート。あの変態やろう、性懲りもなく!
「てめ──」
「おいあんた! 何やってんだい!」
ヨタ婆の怒声。ビリビリと通路の壁と天井が震える。
男がこっちを見た。
「ああ」
男がニッコリ笑った。
変態のくせに邪気のない、いい顔しやがるじゃねえか。
「これ排泄したの、あなたですよね。後でお話を聞きたいんですが」
言ってることは紛れもない変態だがなっ!
さすがにビビっちまったあたしの前に、ヨタ婆の外骨格車椅子がズイ、と出る。
「話を聞かせるのはあんたの方だよ。武装民生委員詰め所まできてもらおうか」
「いいですよ。簡易検査が終わるまで待ってください」
男がそう言って、真剣な顔で……うう……あたしのウンコ……棒でつついて……これもう、泣いていいよね?
「あんた! いい加減に──」「キキーッ!」「──ちっ、なんだいこのエテ公!」
「やめろ! ラーク!」
ヨタ婆に飛びかかった猿を、男が鋭い声で叱咤する。
「こちらは終わりました。新しいミクロ寄生パターンの兆候があります」
「新しいミクロ寄生? 新しい病気ってこと?」
「はい。可能性段階ですが」
男がうなずき、あたしを見る。深い茶色の瞳。まつげ長い。
男は胸のポケットからプレートを取り出した。手袋をはずし、素手でプレートに触れると、キラキラとプレートが虹色に輝き、表面に文字が浮かぶ。
GHF──世界保健軍(Global Health Force)。
「ぼくはGHFの一等監染官ジル・バーステン。こっちはぼくの相棒のラークです。あなたは?」
「あたしは武市マヤ。こっちは武装民生委員のヨタ婆ちゃん」
GHF監染官。
それを聞いてヨタ婆が息を呑むのがわかった。
どうやら、かなりの大物らしい。
それからしばらくして。
「なあ、あんた……えーと、バーステンさん」
「ジルでいいですよ、マヤさん」
「んじゃ、ジル。そっちもマヤでいいぜ。詰め所で、何を話してたんだ? 爺ちゃん婆ちゃん、みんなすげえ真剣な顔になってたぞ。そんなにヤバいのか?」
ジルが詰め所にいる間は、あたしは外で待ってたのだ。
ジルがほやっ、とした脱力した笑顔になる。口調も砕けてきた。
「ヤバくはない。今はまだ、警戒段階だよ」
「でも、ここで新しい病気が流行ってんだろ? その……あたしも罹ってる、んだよな?」
「罹ってる可能性は高いね。でも大丈夫。今ここで流行りかけてるのは、新しいミクロ寄生パターンだけど、関わってるミクロ寄生者は、既知の存在だ。そいつを特定すれば、GHFが蓄えた治療技術ですぐに治せる。GHFは常に備えている。新しい病気の発生を防ぐことはできないが、早期に発見すれば、すぐに治せるんだ。安心して」
「んー……そうかよ」
「安心できない?」
「まあ、な。備えてくれてるんなら、罹る前に治して欲しいってのが正直なところ。ほら、ワクチン接種とか、そういうのでさ」
「ごめんね。でも、それは難しいなあ」
一緒に昨夜パーティーがあった桟橋へ向かいながら、ジルが説明する。
「人類の歴史は疫病との戦いの歴史だった……といいたいところだけど、戦いっていうよりは、歴史のほとんどの期間、疫病の一方的な襲撃が長くて、人間社会はそれに右往左往するだけだった」
「そうなのか? 医者って昔からいるんだろ? 何やってたんだ?」
「医者はいたし、中には名医と呼べる人もいた。だけど、何かと戦うためには、相手を知る必要がある。人間は長いあいだ、相手を知る手立てがなかった」
「じゃあ、医者はどうやってたんだ?」
「物語で戦ってたんだ」
「物語?」
「なぜ病気になるのか。病気の原因は何か。どうすれば治るのか。わからないなりに、それっぽいものをつなげ合わせて物語にしたんだ。体液のバランス、瘴気、祟り、天地の気。本当のことはわからなくても、人は諦められない。狩猟で動物の行動を読んだり、農耕で天候の変化を読んだりした時と同じく、経験を積み重ね、物語にしてつなげて病気と戦ったんだ。よくわからないところは神や精霊という接着剤を使ってね」
「はー」
あたしは自分に置き換えて考えてみた。
昨夜のパーティーは、それまで喧嘩してた半魚人グループ同士が手打ちするってんで、その証人みたいな感じで大勢集めてて、あたしもそこにいた。
もしあそこで、あたしがなにか病気に罹ったんだとしたら……物語としては、やっぱ、よくわからないものを食っちゃダメってことかな。半分くらいは、何かよくわかんないもの食ってたものなあ。あいつら、料理の腕はいいから味はいいんだ。味は。
でも、よくわからないっていうなら、台場の外で食べてるものだって、中身がちゃんとわかって食べてるわけじゃないものな。お店で売ってるとか、食堂で出てきたとか、そういうのだけで食べてる。いちいち、どこの何で、なんてチェックはしてない。
あたしの判断基準といえば、みんな食べてるものだから大丈夫だろう、ってことくらいか。それ、昨夜のパーティーと一緒だよな。
「なんか……あんまり役にたちそうにない?」
「そうだよねえ」
ジルも苦笑した。
「相手が目に見えて、手で触れて、という存在だったら人間の持つ物語の力はバカにならない。その時代にはわからない科学の法則を神と精霊におまかせしても、そう大きくはハズレないんだ。でも病気は違う。ミクロ寄生者は目に見えない。ほとんどのものは手で触れられない。病気に罹った体の中をのぞく手立てもない。ほとんどを空想と仮定で組み立てた物語じゃ、病気には勝てない」
「砂上の楼閣ってやつだな」
あたしの言葉を翻訳機が伝え終わるのに少し間があって、ジルがうなずいた。
「そういうこと。でも、19世紀末になって──つまり、200年ほど前になって、ようやく人は科学の力で、相手の正体を見ることができるようになった。見えないままでも、統計と科学的思考を駆使して相手の存在を浮かび上がらせることができるようになった。戦いらしい戦いができるようになったのは、それからだ」
そこからは、人間社会の連戦連勝だった。
今度は、戦う相手のことがわかってないのはミクロ寄生者──疫病の側だった。
ワクチン。抗生物質。中間宿主の根絶。
疫病たちは、自分たちが何をされたのか知ることもなく、人体という沃野から追い払われた。
「歴史上、いや、先史時代からずっと人間を食い物にしてきたペスト、マラリア、発疹チフス、住血吸虫、天然痘、コレラ……中には手強い敵もいたが、人間社会は彼らに対して勝利を続けた。疫病の根絶はできなくても、ほとんどの人が健康に生きられるようになった」
「万々歳じゃんか」
「でもね。疫病に対する赫奕たる勝利は、疫病との戦いの終わりを意味しないんだ」
「なんで」
「人体はミクロ寄生者にとって、餌場でしかないからね。他の疫病が追い払われて空き地になっていたら、必ず、そのニッチを埋めようとするやつが出てくる」
「出てこなくていいって」
「そうはいかないよ。生態学的な隙間は、必ず埋められる。水が容器の隙間を見つけて漏れ出すように。科学の法則は人の都合では止められない。健康な人体という餌場には、必ず新たなミクロ寄生者が出現する」
20世紀末から21世紀半ばにかけて、新たな病気が次々と人体を標的として出現した。
「今から半世紀前の2046年。ZZ型インフルエンザ、一般にゾンビインフルと呼ばれる疫病が世界中で猛威をふるい、いくつかの国家が崩壊まで追い込まれたことで、世界保健軍(GHF)は生まれたんだ。WHOと国連軍が合体した超国家組織で、人間社会全体の敵である疫病と戦うための強い権限と組織を持っている」
「それで武装民生委員のじっちゃんばっちゃんがビビってたのか」
「あの人たちにとって、ゾンビインフルの恐怖は実体験だもの」
「なあジル。監染官ってのはエラいのか? 猿連れてんのはなんで?」
「うーん」
ジルは腕を組んだ。
ジルの隣で、猿が真似をする。
あたしも真似をしてやると、ジルが笑って、猿が怒った。
「GHFの中では給料はいい方だけど、エラくはないなぁ。GHFの中でエラいのは、相棒のラークの方かも」
「このウンコいじりの猿が?」
「キキーッ」
「お。なんだ。やんのか」
あたしが猿をにらみつけると、猿も牙をむき出しにして威嚇してきた。
「監染官は、世界中をうろついて、新しいミクロ寄生パターンが発生していないか、探している。流行する前に見つけだし、対策を整えるためにね。でも、新しい疫病って、なかなか見つかりにくいんだ」
「ゾンビインフルみたいに、インフルかかったやつが誰彼かまわず噛みつきはじめたら、すぐ見つかるだろ」
「ああやっておかしな行動を引き起こす病気ばかりじゃないからね。だから、ラーフがいる。こいつはマーガトロイド計画で生み出された、人間と同じ病気に罹りやすい監染猿だ。ぼくたち監染官にとって大事なパートナーだ」
自分が話題になっていると気づいた猿が、キキッ、と鳴いた。
聞けば、こいつはもう台場で流行りはじめている病気に罹っているという。
「でもこいつ元気そうだぜ。病気に罹ってるようには見えないな」
「うん。監染猿は病気に罹りやすい。でもすぐに抗体を作り出して、自分の中に入ってきた病気を退治する」
「すげえな。おまえ、そんな便利なもん持ってるのか」
自分がほめられていると気づいた猿が、得意そうに自分の胸をとんとんと叩く。
「ラーフは賢いからね。おっとそうだ。これをマヤに返しておかないと」
「ん? あ、あたしの糸玉。そういや、どうやって解いたんだこれ?」
「ラーフがやってくれたんだ」
「すげえ」
猿が鼻の穴を大きく広げて、ムフー。
「……こいつ、人間の言葉かなりわかってないか? ペットの犬猫でもそういうところあるけど、あいつらより反応が……具体的って感じがする」
「よく見てるね。監染猿の知能は人間にひけをとらないんだよ。そういうふうにデザインされてる」
「へー」
「……こいつが怖くない?」
「なんで」
「監染猿には人間の基因を組み込んである。GHF権限でこうやって外を出歩いているけど、本来は厳重に密封されたP4施設から出してはいけない人造種だ」
「病気と戦うために必要なんだろ。ならいいじゃんか」
「そうか」
「ファッションで基因いじるのは台場にいる連中なら誰でもやってるよ。半魚人どもなんか、体中の皮膚に鱗はやしてやがるぜ。あたしもほら、首から背中にたてがみつけてる。カッコいいだろ? ホラホラ」
あたしがコートを片袖脱いで背中みせると、ジルが顔を赤くして目を泳がせた。
こいつ、けっこう純情だな。可愛い。
話をしてて、あたしはジルが思ってたより年上だと気づいた。最初は30才くらいって印象だったんだけど、40才か……もしかしたらもうちょい上? あたしよりずいぶん年上の男が、あたしの背中見てドギマギしているのは、なんか勝利した感じがある。
「コホン、まあ、いいんじゃないかな。ファッションは人それぞれだからね」
「なんだよー。反応薄いなー」
「んーと。あ、あれかい。昨夜、パーティーがあった桟橋っていうのは」
海辺に出た。視界が広ける。
第三次関東大地震と世界的な海面上昇で、海はずいぶんと内陸へ食い込んでる。台場はアーコロジー建設のために地盤強化したからまだ陸地だけど、周囲が沈んで孤島になってる。
このへんをウロウロしてるのは、鱗つけた半魚人どもだ。中には非合法間違いなしのレベルまで基因いじって、サメのような顔になったやつらもいる。
ジルが鼻白む。
「これも……ファッションなのかあ……若い子って……」
「どっちかというと信仰かな。こいつらちょっとイカれてて、どれだけ見た目が魚類に近づけるか、グループごとに競ってるところあるから」
あたしは声を潜めてジルに話す。
「ここでは、口のききかたに気をつけなよ。話していいヤツはあたしが選ぶ」
ぐるっと桟橋を見回す。
お、よかった今日は頭の中までイカれたルルイエ団の連中がいない。いつもはウロウロしてるのに。今日はゼロだ。もしかして、昨日のパーティーで酔いつぶれてまだ寝てんのか。となれば、コソコソはしなくていいな。お、ヒトデのおっさんが開いている屋台がある。こいつはいい。
あたしは、桟橋の隅っこにある屋台に向かう。
イカを焼いている、手が四本あるヒトデ男のシルエットに、ジルが「いいの? 大丈夫?」と目で問いかけてくる。あたしはニヤっ、と笑って足を早める。
「よう! スタレンジャー!」
「お、マヤかい。そっちの色男とお猿は誰だい?」
スタレンジャーは遠目には違法な基因改造に見えるが、増えてる二本の腕は背負った作業用外骨格だ。その上からヒトデっぽく見えるスーツを着てるが、本人はいたって生真面目なおっちゃんである。離婚歴あり。子供3人はまだちっちゃいから、営業停止になるようなことはしない。
「こいつのお猿にウンコいじられた。その罪ほろぼしで今日は連れ回してる」
「わっはっは。そいつは災難だったな」
「じゃんじゃん焼いてくれ。払いはこいつがもつ。みんなにもおごりだ」
「ええー」「キキー」
ジルが情けない声をあげる。猿が、ジルの真似をして、スタレンジャーが笑う。
見慣れぬ顔と猿に警戒していた周囲の連中が、スタレンジャーの笑い声とイカが焼ける匂いに引き寄せられて「なんだなんだ」と集まってきた。あたしは、スタレンジャーにイカを焼かせ、そいつらにも配る。
こうして猿は「ウンコ猿」、ジルは「ウンコ猿の兄ちゃん」として周囲に認知された。
ジルは不本意そうだったが、すぐに警戒されずに話ができる利点を理解した。それからは積極的に半魚人どもに話しかけた。相手にとってヘンなことを聞いてるみたいだが、なにせ「ウンコ猿の兄ちゃん」であるから、まわりも平気で答えている。よし。
イカうめえ。
「おーい、みんなー! 今日はもうイカはないぞー! 終わりだーっ!」
しばらくして、スタレンジャーが胴間声を張り上げ、のれんを下ろした。
「えー」「なんだもう終わりか」「けっこう食ったな」
「おれまだイカ1本しか食ってないのに」「おまえ、それ2本目だろうが」
「こいつはゲソだからイカじゃない」「ゲソもイカだ!」
「ありがとな、ウンコ猿の兄ちゃん」「ウンコ猿もまたねー」
「マヤもほどほどにしといてやんなよ」
集まった連中も、無料で食えるイカがないと聞くと、さっと散っていった。
ジルが渋い顔でスタレンジャーと支払いについて話をする。
「現金でないとダメだよね?」
「ここは有線地だぜ? 準備はしてあんだろ?」
「そりゃそうだけど。あとで説明がたいへんなんだよ」
「領収書は出してやるよ。フラッシュじゃなくて紙で」
「イカ焼き……やっぱり説明がたいへんそうだ」
支払いの間、あたしは箒で周囲を掃除した。有線地では、誰かがゴミを拾わないと、ゴミはいつまでもそのままだ。他のところだと、そこらにゴミを放り投げれば掃除用のロボが回収してくれるんだけどな。
箒で集めたゴミを、袋に詰め、屋台にもっていく。
「あそこの白線まで掃除しといたぜ」
「おう、ありがとな」
「鱗がいっぱい落ちてたぞ」
「あー、それな。このところ、すげえ落ちてるんだよ」
ジルはもらった領収書を見て、裏返し、表返し、ため息をついてポケットに入れた。
「よ、ジル。なんかわかったか?」
「うん。でも、どうも見えてない要素があるみたいで、そこで悩んでる」
「なんだなんだ。えらいもったいぶるな」
ジルはあたしに顔を近づけ、声をひそめた。
「……誰かが病気を意図的に広めてる可能性があるんだ」
「はあ? そいつ、正気か?」
正気を失う病気か。ゾンビインフルみたいな。
「わからない。何か別のものを広めようと……」
ジルが言葉を止め、あたしの顔を見つめる。
なに、その真剣な眼差し? え、やめて。
ジルの指が、あたしのほっぺに触れる。うわ。うわわ。こら猿、見てんじゃねえっ!
「……マヤ。これは?」
ジルの指が、あたしのほっぺから離れた。鱗が一枚。あ、もうはがれてる!
「ファッション用の付け鱗だよ。2日前につけたばっかりなのに」
「基因改造ではやしたんじゃないんだね?」
「あたしがやってんのは、たてがみだけだよ。このへん半魚人が多いからな、なんもないと、うるさいヤツがいるんだ」
「……なるほど。そういうことか」
ジルがうなずいて、ポケットから取り出した棒で鱗をつつく。
それから、あたしの顔を見る。
なあおい。それ、ウンコいじってた棒だよな?
いじるたび、消毒してるみたいだけど、同じものだよな?
「ほっぺた、調べたいけどいいかな?」
よくねえよ。
よくねえけど……ええい、そんな瞳をあたしにむけんじゃねえ!
「マヤ?」
「せ……責任、とれよな……」
「あー? うん? もちろん」
あたしは覚悟を決め、目をつぶった。
ほっぺたを棒でちょんちょんされる。
うんこいじった棒で……くそ……泣きたい……
「見つけた」
ジルの口調は重く、煮えたぎる情動が、一言の中にこめられていた。
あたしは目を開き、ジルを見た。
ほにゃっ、とした笑顔で、ジルがあたしを見る。
「隠れていたピースを見つけたよ、マヤ。ありがとう」
「お、おう」
それならいいんだ。うん。
あたしの覚悟が役に立ったんなら。うん。
「おい、お二人さん。気をつけろ」
スタレンジャーの低い声に、はっ、となる。
「まずいのが来たぞ。ルルイエ団だ」
「ちっ」
「マヤ、ルルイエ団って?」
「ファッションじゃなくて、マジもんの半魚人だよ。鱗も皮膚の基因いじって本物をはやしてる」
「なるほど。それは興味深い」
そう言うと、ジルはスタスタとルルイエ団の連中に向かって歩いていった。
止める暇もありゃしない。
猿はいつの間にか姿を消している。
「君たち。ちょっといいかな」
「なんだあ?」
ルルイエ団の集まりの中央にいた、アンコウみたいな顔のやつが、鱗もなにもないジルを胡散臭そうに睨みつける。
ジルは、あたしのほっぺたをつついた棒を出して、にっこり笑う。
「鱗、ちょっと調べさせてもらいたい」
取り巻きの半魚人どもがざわついた。
アンコウがジルの胸ぐらを掴む。
「てめえ。なにもんだ」
おかしい。
ルルイエ団は普段から面倒なヤツらだが、昨夜の手打ち式のパーティーでは、それなりにまともだった。当たるを幸いで周囲に喧嘩ばかりふっかけてたのが、ようやく落ち着いたかとみんなほっとしてたのに。
「鱗がかゆい子、けっこういるんじゃないか?」
「ああっ?」
「ファッションで鱗を付けてるだけなら、剥がれ落ちて終わりだけど、基因をいじってるなら、そうはいかないだろう。早急に治療が必要だ」
あたしは、はっ、とした。
2日ではがれたあたしの鱗。屋台の周囲に散らばっていた鱗。
「あ、姉御……こりゃ……」
「だまんなっ!」
動揺した取り巻きを、アンコウが怒鳴りつける。
「こいつは魚神さまのお印なんだ。海からきて、海に戻るものにとっては祝福で、ニセモノには罰となる。ルル主さまからそう聞いただろうが」
「なるほど。そういう物語にしたのか」
ジルの声が強く、厳しくなる。
「この病気は神様がくだしたものじゃない。それどころか、海には何の関係もない。元は白癬菌。水虫って呼ばれてるカビの突然変異だ」
「なっ──この罰当たりがっ!」
「やめろっ!」
ジルを殴ろうとしたアンコウにあたしは飛びついた。
アンコウがジルを放り投げて、あたしに向き合う。
「邪魔するなっ!」
「うるせえっ! そっちこそよくも人に水虫うつしやがったなっ! 絶対に許さねえ!」
「こいつは! 人が海に戻るために必要なことなんだよ! それがなぜわからない!」
「そんなもん、わかるかあーっ!」
あたしは糸玉をアンコウに投げた。振り払おうとしたアンコウの腕に当たった糸玉がほどけて巻き付く。
「ぬあっ!」
「へんっ、ざまあないなっ! おい、ジル! 今のうちに逃げるぞ!」
「え? あ? いや、ぼくは彼らの治療を──」
「そいつは後にしとけ!」
あたしはジルを助け起こすと、逃げ道を探る。
それと猿。どこに消えた猿。あ、桟橋のはしっこにいやがる。
「お前ら! あいつを逃がすんじゃないよ!」
「へい!」
糸玉で上半身がグルグルになったアンコウが手下に命じる。
「だあーっ、じゅげむじゅげむごこーのすりきれ、かいじゃれすいぎょの、痛っ」
舌かんだ。
くそ、普通の護身用なんで、アンコウみたいなバケモノにはあまりきいてない。
手下の半魚人に追い詰められて、あたしとジルは先端にまで逃げた。猿がいる。
ん? 猿のやつ、なんか丸いレンズを地面に置いて、いじってるぞ。
「ありがとうマヤ。ここでいいよ」
「いや、よくねえよ。こっからどうするんだよ」
糸玉を馬鹿力でねじ切ったアンコウが、半魚人を連れて近づいてくる。
「大丈夫。ラークが応援を呼んでるから」
「応援?」
あたしは猿がいじってるレンズを見た。
通信機かなにかか? これが台場でなきゃ、役に立ったんだろうが。
「あのな。忘れてんなら言ってやるが、ここは有線地。漠砂のおかげで、どことも通信できない孤島だぞ。猿の使ってる通信機がいくら高性能でも──」
「ラークが使ってるのは、レーザー誘導装置だよ」
「レーザー? 誘導?」
「きた」
ジルが空を見上げた。
あたしも見た。アンコウも、半魚人も、桟橋にいる全員が空を見た。
ジル以外が、あんぐりと口をあけた。アンコウの口は特にデカい。
ぐんぐんと。天から塔みたいなのが降りてくる。
これででかくなかったら、おとぎ話に出てくる蜘蛛の糸かと思っちゃうようなのが。そして塔の先端には、エイのような形をした飛行機がくっついてる。
分離した。滑空して降りてくる。
桟橋の先の海に着水。波が桟橋の上まで押し寄せる。足首まで濡れる。
波が引く前に。飛行機が桟橋に乗り上げた。
機首の扉が開き、中からゴツい装甲車。
装甲車の横腹に誇らしげに描かれているのは『GHF』の文字と、地球儀に蛇の絡みついた杖──アスクレピオスの杖──の紋章。
装甲車の扉が開き、強化外骨格に医療器具を満載した武装医務官が飛び出してくる。有線ドローンを周囲に浮かべたちびっ子もいる。
「さて──」
ジルが、腰を抜かした様子のアンコウや半魚人に向き直る。
「治療をはじめようか。大丈夫、すぐに君たちも健康になれるよ」
めちゃくちゃイイ笑顔だった。
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これが、あたしと監染官の馴れ初めだ。
この時も、いろいろあったりしたんだが、また今度にしとこうか。
あ? ここからが本番だろって?
うるせえ。こちとら資格試験で忙しいんだよ。GHFは給料はいいんだが、仕事できねえやつには厳しいからな。
監染官の隣は、あたしのもんだ。
……猿は別枠としてな。