小説新時代 「読む」消費から「書く」消費へ
世の中には油絵が趣味という人がいます。
彼または彼女はおそらく油絵を描くことが趣味で、プロの画家の油絵を購入して取集するのが趣味ではありません。もちろん世の中には高額の売り絵を何枚も購入する資産家もいますが、油絵を描くことが趣味の人より数的に少数派でしょう。
一方、小説が趣味という人もいます。
一昔前ですと、こういう人はプロ作家の小説を文庫本などで読むことが趣味で、自分で小説を書くことが趣味という人は圧倒的に少数派でした。
ただこれからは小説も油絵同様、自分でクリエイトすることが趣味という人が多数派になりそうな気がします。少なくとも創作を趣味とする人の割合が、読み専だけの人に対して増えていくでしょう。
「小説は売れない」という業界の”ぼやき”は出版不況以前からありました。最近ではこれまで成長分野とされていたラノベでさえ厳しいようです。
小説を読みたいという需要は世の中にあまりないからでしょう。その一方で、小説を書きたいという人はたくさんいます。「なろう」ユーザーの数からして明らかです。
他人が書いた小説を読みたいのではなく、自分が小説を書きたい、または自分が書いた小説を他人に読んでもらいたい。こういうニーズが、出版不況をよそに世の中にはたくさんあるのです。
1.不特定多数への情報発信力
PCやインターネットの普及で、小説にまつわる私たちのライフスタイルに変化がもたらされました。
それは私たちが不特定多数の人たちへ情報発信する力を獲得したということです。
ネットが普及する以前、つまり90年代前半以前くらいでしょうか。不特定多数の一般大衆に情報発信できるのは、マスメディアで表現することが許される一部の特権的な人たちだけでした。ジャーナリストやキャスターといったマスコミ関係者か、評論家、芸能人、文化人、スポーツ選手、政治家といった有名人たちです。
プロの小説家もこの中に含まれます。また『××白書』を執筆する官僚たちもこの中に含めていいでしょう。
この時代、あえて言えば公衆便所の落書きが、普通の人が不特定多数の人たちにメッセージを伝える唯一の手段でした。ところが公衆便所の落書きで表現できるのは、せいぜい猥褻な下ネタやヘイトスピーチの類です。政治や経済、あるいは社会問題のまじめな議論ができる場ではないし、文学作品を発表できる場でもありません。
それが今では「なろう」のように、普通の人が小説を書いて、それを不特定多数の人に読んでもらえる場が無償で与えられたのです。ネットが普及する前の時代に人生の大半を過ごしてきた私に言わせれば、これはとてつもなく画期的なことに思えます。
もちろんこれまでにも同人誌に所属すれば他人に自分の小説を読んでもらえましたが、同人誌のメンバーはせいぜい10数名でしょう。昔の同人誌では100名以上の人の目に触れることはまずありません(現在の文学フリマは除きます)。
2.プロ作家と「なろう」作家の違い
ところでプロ作家と「なろう」ユーザーなどのネットで作品を発表するアマチュア作家との違いは何でしょうか。
第一に金銭的報酬が得られるかどうかでしょう。第二に読者数の違いでしょう。
一般にプロ作家の作品はアマチュア作家にくらべ、多くの読者に読まれます。しかしながら売れない小説の場合、初版三千部で重版なし、というのもあるでしょう。
そうなると「なろう」でアクセス数の高い小説の方が、書籍化されたプロ作家の作品よりも多くの読者に読まれているという、”プロアマ逆転現象”も一部で起きているのではないでしょうか。
またアマチュア作家でも小遣い銭ぐらいなら現実的に稼ぐ方法はあります。
文学フリマやアマゾンを利用すれば、自費出版で書籍を売ることができます。自分で印刷と製本を行って書籍を作成する趣味をザインと呼ぶようですが、ザインを極めれば自費出版のコストも大幅に削減できます。
さらには電子書籍でよければ、アマゾンのkindleダイレクトパブリッシングを利用すれば、コストゼロで自分の小説を販売できます。
こう考えると、プロとアマの差が昔にくらべ、かなり小さくなってきていると思うのです。
3.アマチュアリズムの台頭
現在、小説に限らずすべてのアート界に起きている潮流は二つあります。一つはアマチュアリズムの台頭、もう一つはフリーカルチャーのムーヴメントです。すべてはIT技術の進展と何らかの関わりがあります。
フリーカルチャーのムーヴメントとは、工業製品の特許や芸術作品の著作権をなくすべき、またはオープンソース系ライセンスに変えるべき、という思想です。これを小説に当てはめると、たとえば二次小説や三次小説を歓迎するという流れになります。
話が脱線するので、フリーカルチャーについてはこれ以上の深追いはやめましょう。
さて、小説はもちろん、音楽、映画、漫画、アニメ、ゲームのすべてにおいてアマチュアリズムの波が押し寄せてきている気がします(絵画、造形についてはよくわかりません。ご意見のある方、感想お待ちしています)。
ニコニコ動画を見るとボカロのコーナーで、アマチュアが作詞作曲した多くの曲を初音ミクが歌っています。ユーチューブではアマチュアが一人で作ったアニメを見つけました。
このようにアマチュアが不特定多数の人たちに自分の創作した作品を自由に発表できるのが、ネット文化の醍醐味といえます。
ところでこのような時代のプロの役割とは何でしょうか。プロのアーティストの作品は、アマチュアのアーティストのお手本になります。自分の腕をもう少しブラッシュアップしたいと思うアマチュアが、プロの作品から技を盗むのです。
「なろう」ではよく、「小説の書き方」講座の広告を目にします。講師の多くは書籍化を経験したプロ作家たちです。プロ作家たちは小説を書き、書籍を売って商売するという形式から、生徒から授業料を徴集して小説の書き方を教えて商売するという形式にシフトしたのでしょうか。
ここでもまたアマチュアリズムの台頭を感じます。
4.非書籍化「なろう」作家こそ時代の本流
さて、「なろう」では自分の作品の書籍化(自費出版を除く)を最終目標に小説を書いている方が多いと思います。しかしながら上記の理由から、むしろ書籍化されないアマチュアの「なろう」作家こそ今のような時代の本流ではないかと思うことがあります。
こんなふうに書くと「底辺作家のひがみだろう」とツッコミが入りそうですが、私はそれに反駁できるだけの十分な弁解はできません。
ただ小説を書き終えたときの独特の満足感は、「なろう」ユーザーなら誰もが経験あると思います。たとえ他人から評価されなくても、こうした満足感だけを求めて小説を書くのもアリではないでしょうか。
小説は「読む」消費の時代から「書く」消費の時代になったのです。
だとすれば非書籍化「なろう」作家、つまり他ならぬ私たちこそ真の新しい文学の担い手なのかもしれません。そういう自負を持って、胸を張って今後とも創作活動に励もうではありませんか。
たとえアクセス数、ポイント数、ブックマーク数が低くてもめげることなく(笑)。
(了)