ハッテムブルク編 収束に向けて
片腕に漆黒に染まった歪な紋様を浮かべ、そこから飽和するかのように溢れ周囲に浮かぶ無数の黒点。
それは太郎どころか、周囲全体を包囲するように拡がりを見せた。
存在が不安定な黒点は対象者である太郎から離れたら維持できずに消滅してしまうはずであった。
しかし、多くの生物を食らった事により、『暴食』は進化していた。
相変わらず不安定な存在であることに変わりはないが、規模、量がけた違いに増加していたのだ。
その結果、不安定な存在ではあるが、余りある黒点が消滅しては増殖してを繰り返す事で広範囲に拡げることが可能になっていた。
その周囲の変化に一番怯えていたのはクルルカであった記憶には覚えていなくとも身体がこの物体の恐怖を覚えていた。
「まずは、クルルカかな」
「ウルゥゥ……」
弱気の鳴き声が響く。
それが今クルルカが出来た最大限の威嚇であった。
「主人の顔を忘れたアホは紐で縛って連れて帰らないとね」
足場が陥没し、太郎がその場から消えた。そう思った瞬間にはクルルカの背後に高速で回り込んでいた太郎は乱雑に脚を振るう。
その速度は異常なまでに速い。
型も何もない只道端に転がっていた石ころを転がすように蹴ったそれだけなのに。
その場の誰もがその動きすら視認することが出来なかった。
直撃したクルルカはというと、重厚な竜鱗を意図も簡単に貫かれ、吹き飛ばされていた。
吹き飛ばされる先には密集された高密度の黒点により出来た黒い靄が拡がっており、飛んできたクルルカを受け止めると同時に獲物を喰らうか如くにクルルカの身体を丸ごと飲み込んだ。
悲鳴が響く。
苦しそうな鳴き声だ。
当然だ。
今のクルルカは生きたまま消化されているのと大差ない。
しかも頑丈な肉体。密集された高密度な黒点と言っても消化するには多少なりとも時間がかかる。
激痛が走る苦痛な時間は長いものになる。
「大将っ!?」
呑み込まれたクルルカを見てルミナスは慌てて駆け寄った。
その少女の動きを見て太郎は忠告するように彼女に話しかけた。
「触れたら君も巻き込まれるよ。それに今は暴走したそのアホを元に戻してるだけ」
「そう、なんですの?」
「ああ、クルルカは有能な部下だからね。簡単に死なせたりしないさ」
それは一見すると部下思いな優しい言葉に聞こえた。
しかし、太郎の裏を考えてしまうと、そんな生易しいモノではないことは容易に想像がつくだろう。
そう。簡単に死んで楽をさせてあげない。死なないぎりぎりで酷使し続ける。
そう言った意味を暗に秘めていた。
その裏を知るよしもないルミナスは安堵した表情を浮かべる。
太郎はその様子を確認した後に振り替える。
此方を警戒した様子で伺っていたトゥアイとテラファス。
その様子から先ほどの動きすら見えていなかった事が予想できた。
「貴方誰なの?」
「ヤバイ香りがぷんぷんするやな」
「安心してくれるといいよ。完全に壊すつもりはないからさ」
太郎が暴食をトゥアイ達に向けようとした時、その間に割り込む形で巨体が太郎に飛びかかってきた。
「アゥアァァァッ!」
完全に自我を失っていたドゥーンだ。
その迫り来る化け物に太郎は仕方なそうな顔を浮かべた。
自分の予想通り自我を失った化け物が出来てはいるが、この位置では本来の目的を完遂することは出来ない。
誘導してやる必要があるなと太郎は一瞬考えるも直ぐにその考えは取り消す。
下手に手間取ったら折角誘い込んだ勇者に逃げられる可能性があるからだ。
呂利根の能力は今後の計画に邪魔でしかなく、今回の作戦のメリットを考えると確実にここで仕留めておきたい所だった。
だから多少再生能力が優れる事を考慮してこいつは強引に移動させるかと腕を前に掲げた。
突進したその巨体を太郎は片手で受け止めた。
衝撃で砂ぼこりが舞う。
骨が軋む音が耳に入る。
その直後、続いて骨が砕けた音が響いた。
太郎の腕ではない。
異常発達したドゥーンの骨がだ。
太郎が思いきり掴みすぎた為、鋼鉄をも貫く強度を誇る骨が容易に砕け。
巨体を生かした重量と速さを重ねたドゥーンの突進は太郎の膂力によってピタリと停止した。
「アゥアァァァゥーアァッ!」
肥大化した脚に力を込める。
普通なら質量で勝るドゥーンが太郎を吹き飛ばすはずだと言うのに、結果はピクリとも動かなかった。
「君はあっちで好きに暴れているといいよ」
太郎がドゥーンの膨脹した肉を掴み、ドゥーンの巨体を街の方へと投擲した。
ドゥーンの巨体は宙を浮き、民間人がいる場所へと飛んでいった。
そして建物すら巻き込み、ドゥーンが街に落下する。
ダメージはそれほどないはずだ。
現に直ぐに立ち上がり周囲を見渡している。
これで予想通りあれが理性なき獣なら、近くに人がいればそいつを躊躇う事なく襲うはずだ。
太郎の予想した通り、ドゥーンは此方を気にした様子もなく、その場でまた暴れ始めた。
「これで予定に一歩近づいたかな……後は」
クルルカを呑み込んでいた暴食がクルルカを外に吐き出した。
その一糸纏わぬ幼き姿、クルルカ本来の姿に戻っていたのをルミナスは確認すると駆け寄って抱き寄せる。
クルルカを喰らった黒点は満足したように太郎の回りに這いずり戻ってきた。
そこにはあるはずの無い意志があるように感じられて太郎は再度違和感を覚えた。
「君はそいつ、連れて逃げていいよ。君たちの仕事は終わり。約束通り後日魔隷の呪は解除するから」
太郎はルミナスにそれだけ言うと、トゥアイ達に向き直る。
「お待たせしちゃったかな?」
「いいの。ごはんって待てば待つほど美味しくなるから」
「K5意味わからんで」
「もう、その名前で呼ばないでよ!私にはトゥアイって名前があるの」
「そうやったなすまんすまんトゥアイ」
「ふふ、君たち面白そうだから普段なら雑談の少しでもしたいんだけどね……今日は時間が余りないんだ早急に片付けさせてもらおうかな」
太郎が暴食を周囲に集中させる。
蠢く黒点は太郎の指示を今か今かと待ちわびているように見えた。
「どうやらこの子も人形が美味しいかどうか楽しみにしてるみたいだ……喰らえ暴食」
暴食が、黒点が、真っ直ぐに放出される。
光すらも吸収する漆黒の靄。
それがトゥアイとテラファス目掛けて襲いかかった。
「トゥアイ!下がるで!」
テラファスは接触するのはまずいと逸早く気付いたようで鉄の壁を出しながら後ろに飛び退く。
「貴方を、食べさせて!」
トゥアイは友であり家族でもある大剣を大きく振り被りつつ、太郎目掛けて突っ込んだ。
彼女は敵を殺すことに喜びを覚える戦闘狂だ。
そこに相手との実力さは関係ない。
多少の戦略なりを練る知能はあるが、頭より先に身体を動かす部類の所謂、脳筋であった。
「無茶や!トゥアイ!」
テラファスが叫ぶ。
トゥアイと同じ戦闘狂と言ってもテラファスはその闘いの過程に楽しみを覚えるタイプだった。
相手との実力さを把握し、心理的駆け引きを行いつつ、闘う。
その為、心は興奮しつつ、頭は常に冷静だ。
だからこそ、同胞の行動が危険だと言うことは容易に想像ができてしまった。
トゥアイが黒点とぶつかり合う。
切り裂く事が不可能な黒点は大剣を包み、トゥアイの身体を取り込む。
なまじ痛覚を感じない人形の身体のせいで己が喰われている事に気づかないトゥアイ。
しかし、自分が大きな何かに流されそうになっているのには流石に理解できた。
そこで考える案は当然、力のごり押しだ。
黒い靄の中を力で突き破ろうと全力で脚力を加える。
「流石、人形、痛覚も恐怖すらも感じないか」
捕食されると言うのは生物にとって恐怖せざるを得ない事柄だ。
それを感じないのは人形の強みと言えるだろう。
しかし、恐怖というものは闘いにおいて非常に重要なファクターであることには違いない。
恐怖は飼い慣らしさえすれば、鋭い危機察知能力として活用できるからだ。
これがあながち馬鹿に出来ない。
この能力を持たず今のように恐れることを知らず只がむしゃらに飛び込んでくるのは格好の獲物でしかなく自然界で生きていく事は叶わない。
トゥアイはなまじ強さがあるせいで格上と闘って来なかったからこそ自分が今狩られている側だと認識出来ていない。
それはこのトゥアイの性格設定をした呂利根に原因がある。
自分ならもっと上手く設定するんだけどなとぼんやり考えながら、暴食を操っていく。
この暴食は物質を喰らうだけではない。
動きのエネルギーすらも奪うのだ。
トゥアイが全力で踏み込んだその脚力も黒点によって吸収し、暴食の成長を促す。
一度、これに囚われれば逃げ出すには黒点を越える膨大なエネルギーが必要となる黒死の牢獄であった。
もがくトゥアイ。
しかし、一度囚われてしまってはトゥアイの力では脱出不可能た。
身体が黒点により喰われていっていた。
「鋼鉄の迅刃っ」
トゥアイを取り囲む黒き牢獄を壊すためにテラファスは自分の最も貫通力の高い魔術を発動させた。
鋼鉄の刃は黒い靄に直撃するも衝撃は吸収され、刃は瞬時に消失した。だと言うのに、テラファスは楽しそうに笑っていた。
「くぅー、燃えるわぁ」
スペックレベル5のトゥアイが手も足も出せないのだ。
テラファスでは到底相手にならないことは当然だ。
だからこそ、テラファスは燃えていた。
自分より圧倒的に強い相手にどう立ち回るか。
この危機的瞬間が一番楽しいのだと笑みを浮かべ、目を爛々と耀かせているのだ。
しかし、それは一瞬にして終わる。
太郎の両腕がぶれたと思った瞬間、テラファスの両脚は消失した。
「ぬわぁっ!」
驚きの声。
人形であるから痛みによるショック死といった事になることはないが、流石に自分の足が突如無くなったら驚かざるを得ない。
「悪いね。取っちゃったよ」
悪びれた様子もなく、薄笑いを浮かべる太郎。
その両腕にはテラファスからもぎ取った脚を掴んでいた。
「なぁっ」
幾らなんでも速すぎる。
そう思わずにはいられなかっただろう。
太郎の姿が消えた訳でもなく、確かにその場から動いた様子はなかったのだ。
まさか一瞬にして自分の脚をちぎり、元の位置に戻るなんて面倒な真似をするはずがない。
そして、それを実現するとしても全く認識出来ないはずがない。
であるならば、これは能力によるものだ。
そう思い至るのは至極当然だ。
「そう、これは能力によるものだよ」
太郎がテラファスの表情を読んだように応える。
投げ捨てた両脚を暴食が喰らいながら、テラファス本体にも襲いかかる。
脚を奪われ、移動力を失った自分では黒点から逃げる手段は無い。
それをテラファスは理解する。
自分の破壊、死が眼前に来てると理解してなお、テラファスは楽しそうに笑顔を浮かべていた。
彼女にはそうプログラミングされているから当然と言えるが、その代わり映えの無さに太郎はつまらなそうな表情を浮かべた。
「やっぱ、どれだけに人に似てようとも造られた心じゃつまらないな」
そして、暴食がテラファスを呑み込んだ。
囚われた二人は声を発することも出来ずに只消化されていく。
それを傍目に太郎は次の戦闘地区に視線を向ける。
複数の膨大な魔素を持つ者同士のぶつかり合い。
4つは分かる。
芽愛兎、呂利根、それに二人の人形。
だが、残りの一人が太郎にも分かっていなかった。
勇者クラスの魔素量を持つ者でこの場に誰がいたか?
可能性として考えられるのは芽愛兎の仲間、それか自分が渡した強化薬によるモノか、あるいは両方か。
しかし、強化薬は使ったとしてドゥーンを超える程ではないと考えると一致しない。
「うん、分からない」
考えていても仕方ないかと足を芽愛兎達の方へと向ける。
「さて、芽愛兎の所に向かおうか」
クルルカを抱いたまま座り込むルミナスに一目も触れずに、太郎は新たなる戦場へと飛んだ。