叙章 『北紀行、あるいは抄遍の類比』
此の国で『神』と呼ばれる存在は、“唯一無二のモノ”ではない。
この世に初めて生まれた『意識』の欠片――そこから分かった“尊きモノ”は、やがて八百万にまでその数を増やしていった。
かつて『人』であったモノに宿り、かつて『獣』であったモノに宿り、かつて『物』であったり『土地』でかあったモノに宿る……それは、『神の御魂』と呼ばれる極めて原始的な『霊魂』が宿った存在。
そんな『八百万の神々』は、やがて人々の生活の中へとごく自然に溶け込んでいった。
あるモノは『豊穣の神』や『大漁の神』、『学問の神』や『縁結びの神』として人々に奉られ、またあるモノは『妖怪』や『物の怪』の類、もしくは穢れた存在として人々に忌み嫌われ……その多くは古より時に力添えをしては人々を支え、時に世を怨んでは人々に仇なしてきた。
また、人の側も祈願のために祀り上げ、祟りを畏れては崇め立てる――それは、人々と『共存共栄する神々』として、ある意味“対等な関係”であり、外の国の『唯一絶対的な神』とはまったく異なる存在であった。
その様は、現世の光と影を映す鏡の如く……。
しかし、長い年月が流れた現代ーー人々の記憶からも忘れ去られようとしていた『神の御魂』を宿したモノ達は、突如として自らを“先住民族『アルザル』”と呼称。その存在を世間に曝してまで保護を訴え始めた。
だが、現代の社会はそれを受け入れようとはせず、逆に彼らを危険種として隔離してしまうのだった。
彷徨の果てに……三人の少女達が辿り着いた先は、『黄泉国』への入り口――『黄泉比良坂』を思わせる巨大洞穴であった。
「うー……、ほんとに入るの? スッゴく暗いし、奥が何にも見えないんだけど……」
細身で短髪。ボーイッシュな見た目の少女――御神唯姫は、眼の前に現れた巨大な『穴』を覗き込むと不安げに声を震わせた。
幾つかの紆余曲折を経て、小一時間ほど彷徨い続けた末にようやく見つけた“手掛かり”ではあったが、大蛇が大口を開けて待ち構えているようなその迫力に、唯姫はつい後込みしてしまう。
「そうね……中に入る以外、他に選択肢はなさそうだし……かといって、ここで引き返したとしても事態は何も変わらないわ」
隣りに並んだ長い黒髪の少女、神矢サヲリが応える。
すでに覚悟を決めている――そんな口振りに聞こえたのは、“この件を早々に片づけて、ひとまず平穏な日常を取り戻したい”……といった気持ちの表れからであろう。
だが、たとえ此度の事件が解決を観たとしても、彼女達に平穏な日常が戻ってくる保証などどこにもない。自分達の“類い稀な身の上”を良く知るサヲリは、そのことを誰よりも理解している人物であった。
そしてもう一人……。
その傍らで二人の様子を“じーっ”と窺っていた小柄な少女――池神織子は足音を忍ばせながら、彼女達に気づかれないよう徐々に距離を取っていく。
興味本位からこんな場所にまでついて来てしまったが、正直言ってここから先は厭な予感しかしない。
これ以上、この件に関わるのは危険かもしれない……身を退くには、ここいらが潮時であろう……と、そう判断しての行動だった。
「――って、織子! 何、一人だけこっそり帰ろうとしてんの!?」
その場からそっと後退っていく織子の気配に気づいた唯姫が、咄嗟に彼女を呼び止めた。
「オ、オリコはちょっと野暮用を思い出したので……じゃ、じゃあ、後のことは全て君達に任せたぞ!」
「そうね……」
その声に振り返ると、いつの間にか織子の背後に回っていたサヲリが、冷めた表情で彼女の退路を塞いでいる。
「――へっ……?」
「ここまで勝手について来ておいて、今さら“サヨナラ”はないんじゃないかしら……ねぇ、池神織子?」
「いいやああだあああー! あの中には入りたくニャいいいー!!」
後退を阻まれた上、サヲリにあっさりと首根っこを掴まれた織子は、頭から“猫のような耳”を生やすと、ジタバタと暴れて抵抗を試みた。
「オリコは『天巫女』じゃニャいんだぞ! だから、一緒に行く理由だってニャいんだぞ!」
「でも、この中では一番“頑丈”そうよね? ついて来たからには一蓮托生……つべこべ(ガスッ!)言って(ドガッ!)ないで(バギッ!)早く(グシャ!)入りなさい? ふんっ、ふんっ、ふんっ、ふんっ!」
「け、蹴るニャ! 堕ちるってばっ! わかったから蹴るニャ!」
すっかり“猫耳少女”と化した池神織子は、サヲリから足蹴にされ『穴』へと落とされそうになるのを、岩肌に爪を掛けながら必死の形相で堪えた。
「うん、うん。やっぱり織子は、ボクらを見捨てたり出来ない友達……そう、たとえるなら『かけがえのない“仲間”』と書いて『とも』と呼ぶ――ってヤツなんだよね」
「しくしく……唯姫のアホタレ……友達ニャら、見てニャいで助けれや……しくしく」
サヲリの蹴りが止むと、膝を抱えてしゃがみ込んでいじける織子。地面に『の』の字を書きながら、わざとらしく泣き真似をしてみせる。
「あなた達……『とも』と読むのなら、普通『強敵』とかではなくって……?」
「「…………」」
「――って、そんなことはどうでもいいから、さっさとお逝きなさい? ほら、御神唯姫……あなたもよ」
三人の間に空虚な時間が流れると、サヲリは慌てて言葉を繋いだ。
「ククク……ニャにやらごまかしたニャ?(ガスッ!)ぎゃん!」
「うー……、神矢さんからお先にどうぞ……」
織子共々先を急かされる唯姫だったが、巨大な『穴』を前にして二の足を踏んでしまう彼女に、先陣をきって意気揚々とその中へ入って行ける勇気などあろうはずもない。
まったく、情けないわね……と、見かねたサヲリが二人に向かって手を差し伸べる。
「ほら、二人共……手を貸しなさい? こ、これなら一緒に行けるでしょう?」
「あ、ありがとう……神矢さん」
「じいいいー……ニャんだか顔が赤いぞ? 神矢サヲリ」
「う……うるさいわよ、池神織子。手、放したら途中で置いていくんだから……いいわね?」
そんな台詞を口に出した途端、さらに顔を“かあああ……”っと紅潮させてしまうサヲリは、素っ気ない態度で明後日の方を向いた。
「ニャ、ニャにっ!? まさかのツンデ――(ドカッ!)痛いってばっ! オリコの尻ばっか蹴るニャー!」
互いの手を握り合った三人の少女達は、暗く深い『穴』の中へと恐る恐る分け入っていく。
繋いだ掌から伝わってくる温もりだけが、孤独ではないことの証として――不安を紛らわすには、今はそれだけで充分だった。
「でも、この体勢って……かニャり歩きづらくニャいか?」
「そうね……厭だったら放しても構わなくってよ?」
「ボ、ボクはこのままでいい……かな?」
「ほら、みなさい?」「お前ら、顔赤いぞ」「うー……」
侃々諤々、喧々囂々……。
事件の発端は、数週間前にまで遡る――
☆
′二一年卯月ノ二十六日
『今なら、“約束乃地”にだって行ける気がしないか?』
吐く息も白々と、洩れては灰色の空に霞んで消えていった。
端から見れば独り言のようであっただろう……ふっと浮かんだ言の葉が、不意に彼女の口を衝いて出てくる。
(そう……?)
『ああ、旅立ちにはいい日和だ。そう、完璧なほどに……』
(確かに、冷たい風が気持ちいいかも)
大陸から強い寒気が流れ込み、どんよりとした分厚い雲が頭上を覆っていた。
寒空を泳ぐ鯉幟の背景では、季節を違えた粉雪がちらちらと舞い踊り、遅かりし春の到来を拒み続けている。
ただ……普段とは異なるそんな情景でさえ、廣瀬遥夏の双眸には映る余地などなかった。
午後の予鈴が鳴っている。
春の大型連休を間近に控え、誰もが少しばかり浮き足立っていた……そんなあの日の昼下がり、極東学院大学附属高等学校――通称、極東学院高等部の校舎は、平穏な日常から騒然な事態へと徐々に移り変わっていった。
いつもは誰も、滅多に立ち入ることのない屋上――周囲を、見上げるほどの高さで囲われた金網フェンスの上に腰かけた少女は、虚ろな表情で流れる雲を眺めている。
耳にしたイヤフォンからは音が漏れ出し、大音量で曲が流れていることを想像させた。
「廣瀬、大丈夫か? なぁ、少し話しをしようじゃないか。まずはそこから降りて……な?」
「…………」
彼女の不審な行動に気づいた生徒からの報せを受けて、屋上へと駆けつけた教職員らが懸命な説得を試みるも、イヤフォンに阻まれて廣瀬遥夏の耳には届かない。
足下に広がる校庭では野次馬と化した多くの生徒達が群がり、彼女の一挙手一投足を固唾を呑んで見守っている。その中から、一人の聡明な瞳を持つ“長い黒髪の少女”の存在を認めた遥夏は、“フッ”と冷笑を浮かべてみせた。
『はん? あれが神矢晃比古の娘――三貴子が一人、『地之巫女』の神矢サヲリか。フフフ……貴様は黙ってそこから見ているといい……そして、己が未熟さを呪うがいい』
フェンスの天辺にゆっくりと立ち上がった遥夏は、紫色に染まる唇でそう呟いた。
(私達、『アルザル』に対する挑発……? いや、むしろ脅迫か……見せしめの公開処刑、といったところかしらね。そして、これが“奴等”のやり方……良く理解ったわ)
野次馬の群れから一人距離を置いたサヲリは、冷ややかな眼差しでその様子を見上げる。
『この少女には、これから“約束乃地”まで行って貰う……が、それは貴様ら『アルザル』の罪だ。“罪は償われなければならない”ということを、良く覚えておくがいい……』
(――何? 私、何でこんな所に……ここで何してるの!?)
地鳴りのような野次馬達のどよめきを、廣瀬遥夏は深層意識の奥底で聞いた。
現在に至るまでの全ての挙動は、遥夏本人とは別の意思によって操られていた……と、そう理解出来た瞬間、閉ざされていた記憶と共に、今まで感じたことのない恐怖心までもが一気に揺り起こされていく。
(どうしてこんなことに……誰か……誰か助けてよ!)
途端にガクガクと膝が震え出し、遥夏の白い太腿を生暖かい液体が“ツー……”と伝って滴り落ちる――同時に、強烈な目眩が彼女を襲うのだった。
『フフフ……『地之巫女』といえど、未だ神祖との『禊儀』が済んでいない貴様には、この少女を救うことなど出来はしまい? 我々を謀かった報いだ……とくと後悔するが良い』
「愚かなことを……」
世の理を陰から支配しようとするモノ――Varius AXA Ahuracsus……略称、秘密結社『ヴァグザ』の非道な行いを眼の前で見せつけられた神矢サヲリは、強い憤りを感じずにはいられなかった。
踵を返すと、長い黒髪をなびかせながら校庭を後にする。途中、作務衣姿の老人と中等部の女子生徒といった“風変わりな二人組”と擦れ違い、サヲリは足を止めた。
「屋上に上がった者達は、何やら“見えない壁”に遮られて、あの娘に近づけんそうじゃな?」
杖を手にした老人は、サヲリにだけ聞こえるような小さな声でそう呟いた。
「そうですか……それで、私に何か?」
「このまま放っておいて良いのか? あそこで“縛られて”おるのは『陽之巫女』の、その“影”として……サヲリ、お前自らが連れてきた娘ではなかったか?」
「ええ、“奴等”を欺くために用意しておいた“影”の一人……ですから、このような場面で彼女を失ったとしても、それは想定の範囲内……ということですわ」
彼ら――老人とサヲリは、周囲に悟られることのないよう小声で会話を続ける。
「――それに……あのような状態では、もはや手の施し様があるとも思えませんわ。それよりも今は、彼女を操っている者の捕獲を優先すべきかと……違いまして?」
老人に背を向けたまま、サヲリは振り返ることなく淡々と答えた。彼女から視線を外した老人は、暫し思案を巡らせる。
「ふむ、いかにもお前らしい理屈じゃて……して、これからどうするつもりじゃ?」
「“奴等”の狙いが『陽之巫女』にある以上、侵入者はまだこの附近に潜んでいるはず……ならば、その者を捕らえた後に新たな策を講じますわ。他にご質問がなければ、私は急ぎますので……」
畳みかけるようにそう述べたサヲリは、軽く会釈を済ますと速やかにその場から立ち去っていった。
(これといって打つ手もなかろうに……相も変わらず、可愛げのない女子じゃて)
蔑んだ目でサヲリを見送る老人――学校法人『極東学院』の理事長を勤める神矢宗義は、隣りに控える少女の頭をグリグリと撫で回しながら深い溜息を吐いた。
「ふむ、あれで冷静に振る舞っとるつもりなのじゃからのう……殺気立っておるのが手に取るようじゃわい」
落ち着いた口調で装ってはいても、時折険しい表情を垣間見せていたサヲリ。後手後手に回ってしまったこの状況を、苦々しく思っていることなど想像に難くはなかった。
「ん、素直じゃないとこもサッちんの魅力の一つ……っていうか、そこを慕ってくる“下僕”も少なくない感じ?」
神矢宗義の“お抱えくの一”――中等部三年の水縞蓮華は、そう進言すると物知り顔でコクコクと頷いた。
「そうやって周りが甘やかすから、ああしてつけ上がる……“全てを抱え込まねば気が済まん”あの我儘気質がいつまでも治らんのは、みんなお主らのせいじゃて」
そう愚痴をこぼす神矢宗義は、サヲリの祖父であると共に、二十万とも三十万ともいわれる『アルザルの民』を束ねる“首長”といった立場でもある。
そんな宗義からしてみれば、身勝手極まりない孫娘に手を焼いている姿など、他者には見せたくはない所だが……いざ本人を前にすると、“祖父の顔”がつい出てしまう。
(身の程を知るには良い機会じゃが、その代償が級友の命ではのう……あの若さで背負わせるには、ちと忍びなかろうて)
杖を手に校舎へと向き直る宗義は、鋭い眼差しで屋上を見据えた。
「時に蓮華さんや……お主の眼力を以てしても、あの“カラクリ”は解けぬものか?」
「ん、さっきからずっと呼び掛けてるけど、全然応えない。多分、蓮華の『傀儡廻し』とは、術式の根本からして別物っぽい……っていうか、あの人……『御魂』が全然看えない。“抜け殻も同然の生者”って感じ?」
身の丈の半分近くもある木箱を軽々と背中に担いだ少女は、おかっぱ頭をこねくり回す老人の手を払い除けると、表情を変えることなくそう答えた。
「ふむ、『御魂』もなく、か……まったく不可解じゃのう」
「でも、蓮華にはだいたい想像がついてる……っていうか、“オカルト”の範疇だから直接見たわけじゃないし、想像の域は超えない感じ……だけど」
『旋風の傀儡師』の異名を持つ水縞蓮華の能力、『傀儡廻し』とはーー『御魂』と呼ばれる“霊魂体”に直接憑依することで、“さも人形の如く”相手を意のままに操る術式である。
たとえ憑依を拒んだとしても、『御魂』が“器”から弾き出されるだけで、元の肉体に戻されることはない。その場合、“霊魂体”としてこの世に浮遊し続けて自然消滅を待つか、『木偶人形』へと移されて蓮華が死する時まで彼女に使役することとなる。
ただ、『御魂』有りきの能力故に、『御魂』のない“器”だけ……いわゆる、空の肉体のみを操ることなど、現在の蓮華には不可能に思えた。
「――元々、『御魂』を持たないモノを操る術者……たとえば、『人形使い』や『死霊術師』とか『霊幻導師』なんかに近い感じ? 蓮華の術式でどうにか出来る代物じゃない……絶対」
『口寄せ』の降霊術が基礎となっている自分の能力では、あの少女の身に起きている不確定要素の塊のような現象には、到底干渉出来るものではない……そう言って俯く蓮華であった。
「ふむ、蓮華さんともあろう方が、そこまで情けない物言いをされるとはのう……この学舎も、いよいよを以て終いかもしれんて。はぁ、桑原桑原……」
塞ぎ込む蓮華に向かって、宗義はこれ見よがしに嘆息してみせた。
(やはり、侵入者を捕らえんことには話しにもならんか……さて、どうしたものかのう)
「蓮華……サッちんの応援に行く」
それまで諦めムードを漂わせ、ただ俯いているだけであった蓮華は、意を決したかのように顔を上げると宗義に向かってそう訴えかけた。
「ふむ?」
「索敵なら蓮華にだって……っていうか、爺様……蓮華が傍にいなくて大丈夫? 自分のこと、自分で出来る?」
「そうさのう……」
真っ直ぐな瞳で見つめてくる少女を横目に、宗義は白く伸びた顎ひげを弄りながら暫し黙考……ややすると杖を大地に突き立て、“パーン!”と大きく柏手を一つ打つ。
「我が御魂、神祖と在りて天上より鑑しまして、我が身を衛る楯と成り賜ふ……」
祝詞に次いでササッと“印”を結ぶと、気合い一閃! 自らの周囲に青白い光輪の渦を纏わせつつ、瞼を閉じて精神を集中――『静謐』と『拒絶』の空間式を編み上げ、不可侵領域の術式を展開させていく。
それが幾重にも重なり交じり合うと、中心よりおよそ二メートル四方が特殊な“力場”と化す……何人も立ち入ることの叶わない『結界式』の完成であった。
「儂のことは気にせんで良い。主として命ず……蓮華よ、あの跳ねっ返りの元へ早く行ってやりなさい」
宗義はサヲリが向かった先を杖で指し示し、蓮華を促した。
「ん、わかった……っていうか、御意!」
そう凛々しく頷いた少女は、“ピィー!”と指笛を鳴らし、頭上に奇妙な翼影を呼び寄せる。
「行くよ、旋風っ!」
“それ”を伴うと、水縞蓮華は高等部の校舎へとサヲリの後を追うのだった。
(敵の本体を見つけ出すなど、我が『天龍衆』にかかれば造作もないことじゃが……若い連中がどこまでやれるか、見物ではあるかのう? あやつらの成長なくして、『アガルタ』の開廟など決して成しえんのじゃからな……)
「――様……御館様」
気づくと、恭しく頭を垂れたダークスーツ姿の男が一人、『結界』を隔てて宗義と向かい合うように立っていた。
「ふむ、防人か……? 『天龍の八武』が、わざわざこんな場所に顔を出すとは珍しいのう……いったい、どんな用向きじゃ?」
「はっ、晃比古様の所在が掴めましたので、ご報告を……と」
見た目、二十代前半だろうか……黒縁眼鏡をかけたインテリ風の若い男――天能防人は宗義の前に跪くと報告を続けた。
「かねてより内偵を続けておりましたプエルトリコ領内におきまして、『ヴァグザ』の拠点と思しき島の施設を突き止めたとの報が先程届きました。現在、先遣隊六名が周辺を包囲。突入の準備を整えつつ島内にて待機しております」
「ふむ……(近頃は、中南米を中心に活動範囲を拡げておるというからのう……“ない話”ではない、か)」
「付近では、晃比古様に似た東洋人の目撃証言も取れたとのこと……十中八九、間違いはないかと?」
「ご苦労じゃった。そうか……晃比古の奴、しっかり生きとったか……」
「つきましては、以後のご指示を賜りたく……急を要しましたので、畏れながら直接こちらまで参った次第にございます」
その件じゃがのう……と、神矢宗義は顎ひげを弄りながら、“ちら”と屋上を見やる。校舎の騒動は落ち着くばかりかさらに拡大を続け、事態が収まる気配など一向に見られなかった。
「儂は今、ここを離れるわけにはいかんのでな……防人、ここいらで『天龍衆』次期頭領としての手腕を振るってみてはどうじゃ? お主にもそろそろ陣頭指揮を任せねばと、そう思っておった所じゃて……それとも、お主にはまだ荷が重いかのう?」
「いえ、勅命とあらば謹んでお受けいたします。ところで御館様、この騒ぎはいったい……?」
面を上げた防人は一転、怪訝な表情で辺りの様子を窺った。
「ふむ、どうやらここにも“奴等”のネズミが入り込んだようでな……すでにサヲリ達がこの場の収拾にかかってはいるが、何やらもたもたやっとるようじゃわい」
「『ヴァグザ』の輩がこのような所にまで……『近衛八幡結界式』が機能していて、でありましょうか?」
「ふむ、『結界式』以外に守りの手段を持たぬ我々には、もはやこの世に安住の地などないのかもしれんのう」
そう言って宗義は、先住民族『アルザル』の未来を憂いた。これからは、彼らのような若い世代に期待する以外、生き残る道はないだろう……と、眼の前の若者へ視線を落とす。
「『天巫女』も然り、『天龍衆』も然り……全ての責任は儂が負うでな、存分に采配を振るうて構わん。防人よ、結果を出してみせい」
神矢宗義は畏まる防人の鼻面に杖の先を突き出し、命を下す。そこには、これまでの飄々とした老人の姿はどこにもなかった。
「御意! この天能防人、『天龍衆』の名に恥じぬ働きを……必ずや、御館様のご期待に沿える結果をご覧に入れてみせましょう」
「ふむ、時に防人……サヲリとは……許嫁には会ってはゆかんのか?」
一礼し、その場から立ち去ろうとする男の背中に宗義は声をかけた。
「は、いえ……今はお互い、それぞれ立場や任務がございます故」
『アルザル』の中でも、最強の私兵団と謳われる隠密集団『天龍衆』――その序列第二位、『破魔の天邪鬼』こと天能防人は、それだけを言い残すと煙の如くその場から姿を消した。
「いつもながら堅苦しい男じゃて。しかし、開校から僅か三年でこの有り様とはな……ここの『結界式』も盤石とはいかんようじゃわい。のう、晃比古……お前は今、何を考えておる?」
苦渋の表情を浮かべた宗義翁は、先住民族『アルザル』の保護に並々ならぬ尽力を注いできた娘婿の名を、思わず口にするのだった。
☆
曇天を仰いだ廣瀬遥夏は、空に向かって両腕を高く掲げた――すると、雲間から一筋の光が差して、彼女の身体を包み込んでいく。
『“約束乃地”への門扉は開かれた……さぁ、旅立ちの刻だ』
(厭よ……行きたくない! だって、私はまだ何も――)
声なき訴えは誰にも届かず、涙ばかりが止めどもなく溢れてくる……少女は瞼を閉じるより他なかった。遥夏の身体が大きく揺らぐと、戦慄の叫びが校庭に木霊する。
次の瞬間――“それ”はバランスを失うようにして、フェンスの向こう側へと消えていく……。
全ての時間がゆっくりと流れる中で、廣瀬遥夏は一人の少年と眼が合ったような気がした。
その頃、校舎に隣接する体育館では何人もの職員と生徒達が、こぞってマットの運び出しに取りかかっていた。しかし、そこにまで悲鳴の波が押し寄せると、呆気ない結末を悟った者達は皆、力なくその場に立ち尽くしていく。
そんな中、騒然となる校舎を見下ろしながら、その一部始終を傍観している存在があった。
「はぁ……案外、つまんない最期だったなぁ……だいたい、あんなトコから飛び降りたって、『アガルタ』になんか行けやしないべさ、ねぇ?」
屋上に設置された給水塔――その天辺で両の足をブラブラと投げ出し、縁に腰をかけながら頬杖をつく女子生徒、池神織子は“やれやれ”といった風で大きく伸びをした。
「そんな簡単に門扉が開けるんなら、『天巫女』なんていらんべさ……? ほんと、“奴等”の思惑なんかに振り回されて――うおっ!」
勢い余って、思わず給水塔から落下しそうになる織子は、慌てて手摺りにしがみつく。だが、堪えた拍子に、身体のあちこちから“様々なモノ”を飛び出させてしまっていた。
それまでの池神織子は、小柄ながらも癖毛ショートの髪型が印象的な、どこか小動物を思わせるごく普通の女子生徒であった。
それが、今となってはかなり様子が違ってきている。頭頂部にはピンと立った“猫耳”が生え、臀部からはひょろっと伸びた“尻尾”がゆらゆらと揺れて――まさに、『化け猫』と呼ぶに相応しい姿へと変貌を遂げていた。
「はぁ……つい、高揚ぶってしまった……でも、ラッキーニャことに、辺りに誰もいニャくて正解――」
『はん……? 変わった波動を感じて来てみれば……何のことはない、単なる『堕巫女』ではないか』
どこからともなく聞こえてくる声――甲高くも落ち着き払ったその声に、織子は“ハッ”と身構えた。
「だ、誰さんかニャー?(くっ、見られたか……面倒だニャ)」
『おいおい、いったいどこを探している? 貴様のその目は節穴か? 立派な耳はただの飾りか? おまけにその鼻も役立たずか? やはり『堕巫女』とは、単なる人形の成れの果てのようだな』
キョロキョロと辺りを警戒する織子に向けて、その謗るような上から発言は彼女の足元から聞こえてきた。
「へっ……?」
見ると、後ろ足で立ち上がった黒い鼠が、腕(前足)を組み鼻先をヒクつかせながら織子を凝視している。
「げっ! ネズミがしゃべった……!? キモッ! ヤダヤダ、こっちくんニャ!! フゥー……シャーッ!」
不敵な態度の黒鼠と対峙した織子は、髪の毛を逆立てて“それ”を威嚇する。
(こんニャ近くに来るまで気づけニャかった……!? “服わぬ客人”――『ヴァグザ』からの刺客……あの騒ぎはコイツの仕業だニャ)
“チッ”と舌打ちすると、爪を鋭く伸ばして臨戦態勢に入る織子。
『はん、ガラクタに毛嫌いされるとは心外だな。人の身体に獣耳とはなんて破廉恥な……時期外れのレイヤーか? 創造主にはセンスの欠片も感じぬわ。春めいてくるとこれだからな……』
「ムキーッ! オリコを“どこぞの変質者”扱いするニャー!! ゲスい見せ物しやがって……お前らの目的は『陽之巫女』じゃニャいのか……? 一般生徒を巻き込んで、いったいニャにを企んでる!?」
チョロチョロと足元を駆け回る黒鼠に翻弄され、織子は益々イライラを募らせていく。
『はん、企む? あれは立派な取引ではないか。むしろ、こんな施設まで造って一般人を巻き込んでいるのは、彼らの方であろう? 我々はそれを利用させて貰ったに過ぎんよ』
下卑た笑みを浮かべた黒鼠は、自分勝手な講釈を垂れ始めた。
『――ただし、『陽之巫女』を黙って差し出す……というのであれば、これ以上彼らに手出しはしなくて済むが、ね?』
「はぁ……到底、信じられる台詞とは思えニャいんだけど……?」
『無論、それに貴様は含まれることなどないが……『堕巫女』が我々の処理対象であることに、何ら変更はないのだからね』
(上層部はこいつのために、どれだけ予算を注ぎ込んだのだ? まったく、無駄遣いにもほどがあろう……しかも未だに放置し続けているとは、こんなガラクタにまだ利用価値が残っているとも思えんが……)
黒鼠の双眸が、妖しい光を帯びて揺らぐ――いつしか二人(二匹?)の間には、一触即発の空気が漂っていた。
『何なら、今ここで始末してやっても良いが……はん、恐ろしくなって声も出せんか?』
黒鼠の挑発に、織子の鼓動がどんどんと高まっていった――と同時に、視野もだんだんと狭まってくる。彼女の潜在意識に刷り込まれた闘争本能が、獣化したことでよってより顕著なものになるのがわかった。
(ヤバいニャ……コイツ、マジでぶっ潰したくニャってくる。だけど……やっぱ、こんな小物臭プンプンなヤツが“本星”ってわきゃニャいべさ、ねぇ?)
織子は意に反して肩を震わせると、唐突にククク……とせせら笑ってみせた。
「敵を前にしてペラペラと……そんニャ姿で凄まれても、全然説得力ニャいんだけど……?」
ふつふつと湧き上がってくる攻撃的な感情と殺意を、ぐっと堪えて織子は本能に抗った。
『はん? 完璧過ぎる我に畏れを成し、とうとう開き直ったか……? これだから、『堕巫女』は――』
「はぁ……思ったよりもバカニャんだニャ。誰がどうみたって、食物連鎖の捕食順位はオリコの方が上ニャんだけど? 見逃してやろうかとも思ったんだけど……」
そう言いながら、猫耳少女は舌なめずりをして伸ばした爪をキラリと光らせる。
「ーーやっぱ、ここで殺しちゃおうかニャ?」
「――っ!」
あからさまに動揺をみせた黒鼠は、みるみるうちに全身を硬直させていく。
(か、身体が動かん……これは、この身体の記憶か!? いかん、やつの“眼”を見るな! むむむっ、機動力と隠密性を重視したのが裏目に出たか。どうやら、憑代の選択を誤ったようだ……いや、単純な誤差が生じただけのこと。修正すれば済む話しだ)
「ま、まぁ、いいだろう。この場は一旦退いてやろうではないか……だが、我々の行動を邪魔するのならば、いつでも独断で始末してくれるから、そのつもりで覚悟しておけぇ――」
その刹那、“ピィー!”という鳴き声と共に、何かが織子の目の前を横切った。
「行け、旋風っ!」
「ニャ、ニャんとっ!?」
“それ”は織子のスカートの裾を掠め、一陣の風となって給水塔を吹き抜ける――舞い上がるスカートを抑えつつ、織子は慌てて“獣の姿”を収束させていく。
突風が過ぎ去った跡には黒鼠の姿はなく、代わりに鷹に良く似たサシバの翼影が天空で大きく旋回しているのが見て取れた。
「――やったの!?」
屋上へと駆け上がってきたサヲリ達の元に、黒鼠の亡骸がポトリと落ちてくる。
「ん、すんでのところで逃げられたっぽい……っていうか、もう“器”しか残ってない感じ?」
蓮華は黒鼠の前にしゃがみ込み、ペンの先で突ついてみるが反応は看られない。
「どういうこと……? それなら、侵入者はどこに……」
“別の何か”に乗り移った形跡もない……そう蓮華が指摘するように、辺りを見回したところで特に変わった様子は見当たらなかった。
「だったら、相手は遠隔で廣瀬遥夏やこの鼠を操っていた……ということ? 蓮華、この周辺に私達以外の『御魂』は感じられて?」
「ん、もし相手が“異形のモノ”だとしたら、蓮華よりも“あの子”の方が得意っぽい」
言うと、蓮華は立ち上がって空を悠々と滑空するサシバを指差す。
(たとえば、“憑依”するのではなく“暗示”のようなモノがかれられていたとしたら、遥夏の行動はある程度納得が出来る……でも、野生種の鼠にそれが可能とは思えない。だとしたら、侵入者は“異形のモノ”の可能性ということもありえるわね)
サヲリは雲を掴むような相手の正体に、あらゆる可能性を考慮して挑まねばならなかった。
「実体が掴めなければ捕らえようもない……でも、だいたいの検討がつければ周辺に罠を張れるわ。“あの子”に見つけられて?」
ん……と、小さく頷いた蓮華が指笛を鳴らすと、旋風は上空から舞い降りてきて彼女の差し出す腕に留まった。
「いい? 旋風。さっきの奴、もう一度捜して欲しい……っていうか、わかった?」
“ピィ”と応える旋風の 嘴に指を立てながら指示を出すと、蓮華は再び空に放つ――彼女達の頭上を二、三度旋回した後、旋風は校舎裏の原生林に向かっていった。
「ん、大丈夫。問題ない感じ」
その様子を見届けたサヲリは、懐からカード型の携帯端末機『モバイル・ギア』を取り出してどこかへ通話を始める。
「対象を敷地の外へ出さないよう、最善の注意を払って対応してちょうだい。これから包囲を出来る限り狭めるわ……捜索の重点区域は追って連絡します。よろしくて?」
校内の至る所にサヲリの“息のかかった手の者”が配置され、人知れず侵入者の捜索に当たっているようであった。
「で……あなたはここで、何をしているのかしら?」
サヲリは誰ともなくそう告げると、徐に深い溜息を吐いた。
「ーーねぇ、池神織子……さん?」
「へっ……?」
給水塔を背にしたサヲリの背後を通り抜け、こっそりと屋上から立ち去ろうとしていた少女に向けて、怒気を含んだ問いが投げかけられる。
「あら、聞こえなかったかしら……? いつからここにいて、いったい何をしていたのか……と聞いているのよ」
「あ、あはっ……物見遊山、的な? じゃ、じゃあ、シタッケですニャー!」
「ん、逃げた……」
意味不明な言い訳でお茶を濁す織子は、一瞬の隙をつくと脱兎の如く屋上から一目散に逃げていった。
「――サッちん……放っといていいの? あの人、侵入者と接触してたっぽい……っていうか、重要な情報知ってる感じ? 絶対」
「…………」
見るからに怪しい行動を取っていた織子に対し、強い不信感を抱く蓮華――そんな少女に、サヲリは返す言葉を持たなかった。
(彼女なら……池神織子なら、廣瀬遥夏を救えたのかもしれない。いや、もしかしたら侵入者を捕らえる能力だって、私達よりも優れているのかもしれない。でも……)
だが、その正体を知っているサヲリだけに、現在の彼女には期待を持つことなど出来はしなかった。現に、池神織子は目の前で廣瀬遥夏を“見殺した”のだ……。
「大丈夫。彼女はここでは何も出来ない……いえ、私が何もさせないわ」
「サッちん……?」
そう自分を納得させるように呟くサヲリの横顔を、蓮華は心配そうに覗き込んだ。
「彼女の処遇はお祖父さまに任せましょう……私達は、引き続き侵入者の捕獲に専念します」
「ん……」
気持ちを切り替えたサヲリは、蓮華を屋上から出るように促す。一応の了解を示すしかなかった蓮華は、背中を押される思いでその場を後にした。
(『禊儀』の済んでいない今の私は、あまりにも無力だわ……けど、これでは単なる言い訳ね。もっと……もっと強くなるから、どうか許して)
屋上からの去り際――周囲に誰もいないことを確かめたサヲリは、校庭に向かって深々と頭を下げたのだった。
遠くで春の雷が木霊している。
「雨になるのかな……誰かさんの『涙雨』とか……? 我ながら、かなりセンチメンタルだね」
季節外れの粉雪は積もることなく、冷たい地面に横たわる少女の身体を少し濡らしただけで止んでいた。
「まぁ、不始末は見逃せないからね……これは君達への“貸し”にしておくよ」
横たわる廣瀬遥夏からイヤフォンを外してプレイヤーを握り潰すーー銀色の髪をした少年は、そのまま人混みに紛れて姿を消した。
「唯姫、早くおいで……また君に会えるのを、僕はずっと待ってるんだからさ」
少年の囁くような澄んだ声は、うるさいほどに鳴り響くサイレンに掻き消されて、誰の耳にも入ることはなかった。
校舎裏手の白樺林の中で身元不明の水死体が発見されたのは、それから数時間が経った後のことだった。その遺体は、『人』というにはあまりにも頭部が大きく……また、腕は異常なくらい長かったという。
それがいったい何者で、どうして水のない場所で溺れたのか……他殺なのか事故なのか、現時点では何も判明ってはいない。
☆
′二一年皐月ノ五日
「世間じゃあ、異常気象だ何だって騒いでるっつーのに……ここはいつ来ても、ちーっとも変わらねーなぁ」
北の大地は東部の港町、行政特区『神威市』――その空の玄関口である神威空港に降り立つなり、男は開口一番でそうぼやいた。
(さすがは“先住民族の町”……といったところか)
痩身で細面。冴えない風貌の中年男、御神影恣は暗褐色のトレンチコートに袖を通すと、辺りを見回した――その糸のように細い目は、視線の先を……そして感情すらも想像させない。
中部国際空港から新千歳空港を経由して、ようやく辿り着いた辺境の地……内地とを繋ぐ直行便(貨物以外の)も現在はなく、この日の空港利用者は彼の他、一名きり。
かつて、北の大地でも有数の観光地であった頃の面影など、今はどこにも見当たらなかった。
(確かに、人目を避けるには打ってつけかもしれんが……俺には、“見捨てられた町”にしか見えねーんだけどなぁ)
春の大型連休が終盤を迎える中、わざわざこんな僻地へと訪れる者など、皆無であって当然か……と思わせた。
五年前――地方分権の先駆けとして『行政特区』に制定されてからというもの、人の往来は日を追うごとに減少していた。
国家の委任から完全に独立・分離された『特定特区自治法』が施行されると、市内に入るだけでも多くの手続きを履まなければならなくなり、許可が下りるまで数日間を要する……そんな町の実状が、人の足を遠ざけている主な要因であろう。
だが、それらは全て仕組まれた“この町の仮の姿”……。
先住民族『アルザル』の保護を目的に再編されたこの地域は、日本の中にありながら、すでに日本とは呼べない場所になっていた。
町の中心部から車でおよそ四十分――神威市郊外の山間に建てられた簡素な空港は、間もなく初夏とは思えないほどの冷たい空気で満たされていた。
「やっぱりよー、何か一枚羽織ってきた方が良かったんじゃねーのか?」
エントランスを出た中年男の背後では、あまりの寒さに身を縮めた少女が一人、ブルブルと震えながら立ち竦んでいる。その様子を鼻で笑う影恣は、それみたことか……と言わんばかりのドヤ顔を披露してやった。
「うー……」
「何だよ……俺を睨んだってどーにもならねーだろーが? この季節にそんな格好で来るのが間違いなんだっつーの。北の大地ナメんなよ! カッカカカ」
「よ、よくもそんなことが言えるよね? ボクだって何も好きこのんでこんな……こんな馴れない格好で来た訳じゃないし」
そう言ってむくれる少女の名は御神唯姫――両腕で自身を抱える彼女は、恨めし顔で影恣を睨むと地団駄を踏んだ。
そんな唯姫の服装といえば、臙脂色のセーラーブレザーにプリーツの利いたチェックの膝上スカート、といった出で立ちで……この時期の最高気温が十度前後までしか上がらない土地柄にあっては、やはり“軽装”というより外ならない。
「だいたい、ボクの服なんて父さんが勝手に纏めて、無断で全部送っちゃったじゃないか!」
「ふん、そーだっけか? てんで覚えがねーなー」
“超”がつくほどの内弁慶――少女の性格など当然のように熟知する中年男は、いつものように適当な態度ではぐらかした。それは、影恣が唯姫を言い包める際の常套手段でもある。
「この制服が届かなかったら、今日だって着る服が何もなかったんだよね! いい大人が子供じみた真似してさ、全然笑えないし……」
それは今朝方のこと……唯姫が起きた時には部屋中のあらゆる物が跡形もなく消えていて、彼女は呆然としたまま暫くは動くことが出来なかった。
“ガラン……”とした六畳間に“ポツン……”と布団だけが敷かれた状態――そのことを思い返すたび、多分……いや、絶対にワザと起こさないようこっそりと運び出したであろう父親の手際の良さが、無性に腹立たしくなって仕方がない。
「――それも女子の制服だなんて、ボクは何にも聞いてなかったし! 寒いし、恥ずいし……もう、ほんと信じられないんだよねっ!!」
「あーそーですかい? それは大変スマンこって」
その返答に反省の色は感じられず……唯姫の抗議などまったく気にも留めない影恣の態度が、余計に彼女の怒りを煽り立てた。
しかも――とある事情により、中学までを『男の子』として生活してきた唯姫にとって、こんなに短いスカートを穿く機会などこれまで殆どなかったことである。
加えて、微風が吹いただけでも翻る裾が気になってまともに歩くことさえままならない――その動揺たるや、平常心でいられるレベルを遥かに超えるものであった。
それでもどうにか勇気を振り絞り、一歩ずつ足を踏み出していく……空も同然となったスーツケースを引き連れた唯姫は、怒りを露わに影恣を追い抜くと、市内に向かうバス乗り場へと直行していった。
「そもそもはお前がいつまでも荷造りしねーで、今日の今日まで放ったらかしにしてたのが悪いんじゃねーか。俺に当たること自体、筋違いだろーが?」
「うっ……」
影恣の台詞に動揺しつつも、怒りの冷めやらない唯姫はそれを無視して歩を進める。
「――代わりに纏めてやれば逆ギレで、挙げ句の果てに文句まで言う始末ってか……? 自分の子供ながら、まったく恐れ入ったぜ」
唯姫の怯んだ気配を見逃さなかった影恣は、ここぞとばかりに追い討ちをかけていく。
「それにお前……出掛けに倉田の爺から『餞別』だ、つって三万……俺に内緒でこっそり貰ってただろ? 陰でコソコソしてたって、こっちは全部お見通しなんだっつーの」
「うー……」
痛い所を次々と指摘された唯姫は、脳内をフル回転させて反論の糸口を探った。
「あ、あれは母さんへのお土産とか? お土産とか……後はほら、お土産とか、さ……」
「どんだけ土産好きだよ!?」
だが、あえなく自沈――先程までの威勢の良さはどこへやら……形勢を逆転された途端に歯切れも悪くなり、唯姫はオロオロと視線を泳がせる。
「……ったく、そんな余裕があるんなら、途中で何か買って着替えてくりゃあ良かったじゃねーか。誰に似たんだか、マジでケチくせーヤツな?」
嫌みを含んだ影恣の説教が続く中、必死に言い返そうとするも何にも思いつかず……結局、最後には口篭もって俯いてしまう。言い訳一つ満足に出来ない唯姫は、父さんほどじゃないし……と、負け惜しみを唱えるのがやっとであった。
(こいつ……こんなんで、ほんと大丈夫か?)
整理整頓や家事全般が大の苦手で、貯金だけが心の支え。コミュ力にも相当欠けた、『残念女子』としての将来像しか思い浮かばない――そんな吾が子の後ろ姿を、影恣は理由もなく何とはなしに眺めていた。
彼の目に映る少女のシルエットは、ショートボブにスレンダーな体型が相俟って、実に快活そうな……そして何より、立派な『高校生』に見える。
これまで想像にすらしたことのない唯姫の“女子高生姿”を前に、影恣は意外にも感慨に耽っている自分に気がついた。
「ふん……案外似合ってるじゃねーか」
思いがけない父親の台詞に、え……? と足を止めて振り返る唯姫――その時、影恣は時間が巻き戻っていく感覚に捕らわれた。
振り返る少女のシルエットに、影恣はある女性の“出会った頃の姿”を重ね合わせていく……どことなく“あいつ”に似てきたか……と。
「そんな格好してると、あれだな……『娘』だったってこと、思い出させるもんだな?」
「何それ? その『娘』に対してセクハラ発言とか……ほんと信じられないんだけど?」
スカートの裾を抑えつつ恥じらう姿は、見紛うことなく“あの女性の面影”を受け継いでいる。
「ちげーよ、バーカ……着馴れねー服着させられて、恥ずかしいってんだろー? そんくらいのこと、俺にだってわかるっつーの」
「うー……、別に我慢するからもういいし……けど、早いとこ母さん家に向かわない? いつまでもこんなとこにいたら、さすがに風邪引いちゃいそうなんだよね」
色々な意味で限界に達してきた唯姫は、困惑気味にそう訴える。
「だったらよー、逆にもっと恥かいてみりゃあ、ポッポ、ポッポと暖かくなって丁度いいじゃねーか、なぁ? カッカカカ」
「バッ、バッ、バッ、バッカぢゃないかっ!? ほんと、最悪!」
顔を真っ赤に染めながら、ぷいっとそっぽを向いて憤慨する唯姫。
「あれがまともな大人の言う台詞!? ほんと信じられないんだよね! こんなことなら、厚手のストッキングかタイツくらいは買っとくべきだったし!」
無防備にも曝け出された“生足”に一抹の不安を抱いた唯姫は、足元をスーツケースで隠しながら、そそくさと足早に歩き去っていく。
「周りにゃ人っ子一人いねーんだから、そんな気にするこたぁねーだろーが? カッカカカ」
「もう、大声出さないでって! かなり恥ずかしいんだよねっ!!」
とは言いつつも、つい大声で怒鳴り返してしまう唯姫。幸いにして、周囲に誰もいない状況ではチープな父娘喧嘩など、特に悪目立ちすることはなかった。
(少しは感情が出せるようになったか? 一時はどーなるかと心配したもんだが……そもそも、あいつに似たら、もっと“アレ”だしな)
ヤレヤレと嘆息する影恣は、少々自意識過剰気味になった少女の後を、怠惰な歩調でふらふらとついていくのだった。
それは三年前のこと……父親と一緒に暮らし始めた頃の少女といったら、喜怒哀楽の一切を表情に出さない(出せない)子供であった。
それが『天巫女』として生まれた運命なのだろうか……“感情の全て”を欠いた吾が子との再会を果たした時、父親は自分達の罪深さを痛感した。
運命に抗うかの如く――それからというもの、彼は吾が子の感情を取り戻すことだけをひたすら模索する……そんな地獄のような毎日が一年以上続いた。
結果、不器用過ぎる彼のやり方が功を奏したのかは不明だが、父親と共に暮らしていく中で、彼女は少しずつ変化を見せていった。
そんな少女と過ごした日々を、父親は決して忘れることはないだろう……“罪滅ぼしが成った”と感じるまでには至らなかったが。
(親の気も知らねーで、図体ばっかでかくなりやがって)
先をゆく唯姫の背中が、“まだ見ぬ未来への希望”に満ちているようでやけに眩しく感じる。罪の意識を背負った影恣にしてみれば、それは『救い』にも似た感覚であった。
(まぁ、俺も『父親』だなんて胸張って言えた義理じゃねーが……んっ!? 何だ……?)
その時、影恣の背筋を“ゾクッ”とした悪寒が走った――同時に重厚なクラクションが鳴らされ、ハザードを明滅させた深紅のジャガーが彼らの脇を通り過ぎていく。
三十メートルほど先の車寄せで停車したその車は、運転席側の窓をゆっくり下ろす……と、濃いサングラスをかけ、口元を真っ赤な口紅で彩った派手目な女性が、徐に車内から顔を覗かせた。
「げっ、やっべ!」
鮮やかな藤色のスーツに身を包んだその女性は、唯姫を見つけるや大きく手を挙げてみせる。
「あっ、もしかして母さんじゃない? 迎えに来てくれたんだ!」
声を弾ませながら唯姫が後ろを振り返ると、すでに影恣の姿はどこにもなかった。
☆
「ほんと、バカな男……」
少女を助手席へと招き入れた女性。唯姫の母親である御神真樹子は、ハンドルに突っ伏すとそうぼやいた。
緩やかなウェーブのかかった栗色の髪を掻き上げ、サングラスを外すと、とても高校生の娘がいるとは思えない容姿――若さと美貌が露わとなった。
(まったく……こっちは、この日が来るのをどれだけ待ったと思っているのよ。あいつ、昔から何にも変わってないんじゃないの?)
「唯姫も、あんなのと三年も一緒で随分苦労したでしょう?」
「うー……、いつものことだから、もう馴れたかな? ははは……」
妖艶かつ、気だるそうな雰囲気を醸しながら話す真樹子に対して、唯姫は自嘲気味な笑みを浮かべながらそれに応えた。
「あらそう? 私……どれだけ一緒にいたところで、馴れることなんてなかったわ。もう、まったくっていいほどね」
深い溜息を吐いた真樹子は、唯姫に向き直ると彼女を優しく抱き寄せる。
緊張の面持ちで身体を預けると、麝香の香りが唯姫の鼻腔をくすぐった。
「中学の入学式の時以来? 久し振りね……元気してた?」
「あ……う、うん。元気、元気。ああーっと、制服……送ってくれてありがとう」
その言葉にハグを解いた母親は、改めて成長した娘の制服姿をじっくりと眺める。真樹子は、そこでようやく表情を緩めるのだった。
「ふーん……案外似合ってるじゃない? やっぱり女の子ね。サイズも丁度いいみたいだし、間に合って良かったわ」
「――ぶっ!」
真樹子の台詞に思わず吹き出した唯姫は、やはり似た者夫婦なのだな……と、少しだけ安堵する。
「んっ? 何か可笑しなこと言った? 私」
「ううん、違くて……」
慌てて頭を横に振る唯姫は、父さんも同じようなこと言ってたから……と、そう言って伏し目がちに笑った。
「ヤダ、ちょっと勘弁してくれるー? もー……あんなのと一緒にしないでよね」
あからさまに不機嫌な顔をする真樹子だったが、それがかえって照れ隠しのようにも見える。そんな真樹子に、唯姫は少しだけ嫌悪感を覚えた。
若過ぎる……純真過ぎる少女の瞳には、母親の時折見せる『隙』や素直になれない『女』の部分が、どうしても“ズルく”映ってしまうのだった。
「まあねぇ……あんな旦那でも、全然いないよりかちょっとはマシなんだけど、さ」
「……えっ?」
「…………」
短い沈黙の後、彼女達は互いの顔を見合わせると、どちらともなく吹き出しては笑い合う。
数年振りとなる母娘の再会劇は、そんな微妙な空気の中で幕を開けた。
御神唯姫は母親と暮らすため、この町――神威市にやって来た。そして、それは御神真樹子にとっても初めての経験である。
これから共に過ごす時間は、きっと特別なものになるだろう……十六年もの間、少女と離れて暮らした母親は、そんな淡い期待を抱きつつ今日の日を心待ちにしてきた。
「唯姫の髪、ちょっと短過ぎじゃない? もう『男の子』はしなくていいんだから、少しは伸ばしてみたら? 長い髪もきっと似合うと思うわよ」
「うーん……」
短く揃えられた襟足を弄りながら返ってきた答えは、期待を裏切るほど曖昧なものであった。
(あら、いきなり嫌われちゃった? 思ってたより父親想いだったってことかしら。まぁ、それなりに覚悟はしてたけど……)
素っ気ない態度を右に感じつつ、表情を若干曇らせた真樹子は、エンジンを再始動させるとアクセルを深く踏み込むのだった。
その少女は、『普通』とはかなり違った家庭環境で育てられたという。
生まれながらにして数奇な運命を背負わされた彼女は、生後間もなく母親から引き離され、十年以上にも渡って人目を忍んでの隠遁生活にその身を窶してきたのだ、と……。
幼少の頃より三年と同じ場所には住めず、居住地が変わるそのたびごとに同居人も入れ替わっていく――ある時は母方の祖父と……また、ある時は父親と……。素性も知らない親戚に預けられることも度々あった。
小学校に上がると、強制的に『男の子』として生活することを余儀なくされ、親しい友人を作ることさえ禁じられた。
そのせいか、馴れない転校先では孤立することが多く、悪質な虐めに会うことも少なからずあったという。
そのような状況に陥った時、逃げ込む先のない子供の多くはひたすら耐え忍び、事態が収束されるのを待っていることしか出来ない。
その少女もご多分に漏れず……いや、そもそも彼女には、身近に頼れる者の存在がなかった。
何せ物心がついた頃から、“両親が揃って一緒に暮らした”という記憶自体がないのだから。
誰一人として頼る者のいない(そう思い込んでいた)少女は、次第に口数も減り、感情すら徐々に失っていったという。
“大人しく育てやすい子”という評価は、“何を考えているのかわからない気味の悪い子”と変わり、そして気がつけば何一つ不満を漏らすことなく、言われるがまま全てを素直に受け入れていく――いつしか、そんな人形のような子供になっていた。
そう振る舞うしかなかった思考原理の根幹は、本人にしかわからない……だが、それはもしかしたら、不遇な環境の中で自然と身についた“彼女なりの処世術”であったのかもしれない。
しかも、“それ”は未だにくすぶり続けている。決して消えることのない『心傷』として、間違いなく今もなお彼女の中に残り続けているのだ。
周りを苦しめ、自分自身をも傷つけている原因であるとも知らずに……だがしかし、そんな生活があったればこそ、今は母親と一緒に暮らせることが何よりも嬉しかったに違いない。
いや、少なくとも今日この町に来るまでは……母親の車に乗るまでは確かにそうだった。
然れど、少女はまだ気づいていない。これから始まる数年間が、母と娘でいられる最後の時間であることを……。
再会を果たしたばかりの彼女達には、知り得ようもないそれが『事実』であった。
今はこんなにも近くに……こんなにも傍にいるのに――それはまるで、二人の間に見えない壁が立ち塞がっているようで、母親はえも言われぬ不安感を拭い去ることが出来なかった。
(聡いだけの子供なんて、ただ不幸なだけよ。そんな子が報われる日なんて、果たして来るのかしら……)
これから通う高校で最近起きた、“とある事故”について話した時でさえも、少女は無意味に相槌を打つばかりで別段興味を示すことはなかった。
(父親とはあんなにも打ち解けた雰囲気だったのに……私の方に問題があるのかしらね……?)
それが、十六年という“空白の時間”が生んだ距離感であろうことは、重々承知している。そして、それを埋める過程こそが、親子関係を築き直す大切な時間であることも理解しているつもりだった。
けれど……それ故に歯痒さを感じ、あまつさえ父親にまで嫉妬心を抱いてしまう。そのような現状は、母親にとって由々しき問題であり、実に面白くない事態でもあった。
『無垢な時代を共に過ごすことが出来ず、母親として何もしてあげられなかったことが心残りなの?』
(いいえ。傍にいられたなら、無条件に母親だと認めて貰えるものだと思っていたのよ)
『いつでも、どんな時でも馴れ合っていたいの? それとも、もっと甘えてきて欲しいの?』
(いいえ。あの子にだけは拒絶されたくない。ただ、それだけよ)
『そうなりたいと願うことは、そんなにいけないことなの?』
(だって、私はあの子の母親なのよ。私がお腹を痛めて産んだ、私の子なのよ。だからこそ“らしく在りたい”って、そう思うんじゃない)
『だからこそ、自分を認めて欲しいの?』
(そうよ。じゃなきゃ、寂し過ぎるじゃない? 悲し過ぎるじゃない? でも、本当にそれだけなのよ)
“母親のエゴ”が心根の淵から首を擡げ、懺悔にも似た後悔の念が、彼女の良心までも蝕んでいく……。
母親としての純粋な欲求と、どこか後ろめたい気持ちとの狭間で、彼女はより一層自己嫌悪の渦に嵌まっていくのだった。
(あいつもこんなところから始めたのかしら……いや、もっと酷かったのか。でも、私はもっと……ずっと上手くやってみせるわ)
車窓から、外の景色を眺めている吾が子を横目に……近い将来、世界を敵に回すであろう少女の母親は、少しだけ自分の我儘を願うのだった。
「ねぇ、唯姫。ちょっと後ろの包み、開けてみてくれない?」
運転中の真樹子に促され、唯姫は後部座席に置かれた家電量販店の紙袋を手に取ると、その中身を確かめた。
「これって、ウェアラブル携帯……いや、スマートウォッチかな?」
唯姫の手に収まっていたのは、シャンパンゴールドに輝く極地用の腕輪型通信端末機であった。
「携帯端末機『モバイル・ギア』よ。誕生日と高校進学のお祝い、ってところかしら。これからは、何かと必要になると思うから……」
「携帯なら自分のがあるけど……あれ?」
唯姫はポケットから自分のスマートフォンを取り出してみる――と、待ち受けには『圏外』の二文字が表示されていた。
「この町は、外部からのアクセスが完全に制御されているのよ。市内は『ヤマヒコ』っていう独自の通信網しか通ってないから、一般的な携帯電話やスマートフォンは使えないってわけ」
ここ神威市では、携帯端末機の電波は地面を這っているのだという。
真樹子の言うように、内地では良く見かける中継基地局のアンテナが、どこの屋上にも見当たらなかった。
独立行政特区、神威市独自の通信システム『ヤマヒコ』とはーー盗聴やサイバー攻撃を未然に防ぐ目的により、『アルザル』関連のIT企業『高天』と大手家電量販店『ヤマタ電機』の通信事業部が共同開発した通信用プラットフォームである。
神威市の統括システム『ASWR』の一翼を担う、管内のあらゆる通信機器に搭載された端末用OS『ホワイトラピッド』(俗称=白兎)のターミナルデヴァイスとして、ヤマヒコ専用携帯端末機『モバイル・ギア』は今や(神威市の)重要な都市機能の一部となっていた。
他のライフラインも全て地中に埋め込まれているのだろう。辺りを見回しても、信号機以外の電信柱は一本たりとも目に映ることはなかった。
「――因みに、このサングラスも携帯端末なのよ」
「ふーん……」
真樹子の説明には上の空な唯姫だったが、携帯端末機には興味があるらしく、左手に装着するとマニュアルも見ずに早速弄り始めている。
「専用アプリが少ないのが難点だけど……唯姫だったら通信衛星の『天巫女専用回線』に繋がるから、世界中のどこでだって使えるはずよ。機種とカラーは私が勝手に選んでみたんだけど……どう? 気に入ってくれた?」
そう言って軽くウィンクしてみせる真樹子。
「うん。ありがとう、母さん……」
恥じらい顔でこくりと頷き返す唯姫は、母親からの贈り物をその包みごと、細やかな胸の中へと抱き締めるのだった。
(くぅー、親バカ上等キター!! ウチの姫君ってば、ヤバいくらいにカワイイじゃない!)
ハンドルを握る手を小刻みに震わせながら、真樹子は心の中で“ヨシッ!”と小さくガッツポーズを決めた。
「ちょっとはいいお値段したんだから、大事に使ってよね? フフフ♪」
「Yes.Mam……」
携帯端末機が代わりに応え、あわわ、しゃべった!? と焦る唯姫。
(物で釣るのは卑怯だったかな? まぁ、最初は仕方ないわよね。でも、ちょっと浮かれ過ぎかしら?)
多少ちぐはぐな会話にも、真樹子はそれなりに満足していた。それが証拠に、無意識とはいえ鼻歌混じりで“深紅のジャガー”を軽快に走らせていく。
御神唯姫が十六歳の誕生日を迎えたこの日。
市街地へと向かう車窓からは、街道沿いに咲き乱れる染井吉野の薄紅色が勢い良く流れ、遅ればせながら北の大地に春の到来を告げている。
それはまるで、少女の新たなる生活を歓迎するかのようであった。
☆
我々はどこから来て、どこに向かっているのだろう。
全ての始まりは混沌から――否、『無』の中の“一瞬のゆらぎ”から起こったという。
そして、“それ”は再び『無』へと還るのだという。
ならば、この『魂』はどうであろう。果たして、“神の創造りしモノ”なのだろうか。
幾度となく生まれ出でては没していく中で、万物の霊長として地上に君臨してきた我々は、これまでその地位を他者に明け渡した事実など、ただの一度としてなかった。
『最初』があれば『最後』があるように、『始まり』があれば『終わり』は必ず訪れる――にも拘わらず、我々が嵌まり込んだ流転の螺旋はその果てを知る由もない。
終わりのない世界……それは、半永久的に続く天国なのだろうか。それとも、決して脱することの叶わない地獄なのだろうか。
それこそ、“神が与え賜うた罠”なのかもしれない。
生と死は繋がり、『永遠』を繰り返す――この宇宙も同様である。
どれほどの質量を誇る巨大な恒星であろうと、やがては超新星と化し、『無』へと還る。
だが、その衝撃波は銀河を強く揺さぶり、新たな星の誕生を促す。
たとえ全ての星々が燃え尽きたとしても、それは新たなる宇宙の始まりに過ぎない。
則ち、『永遠』とはこの宇宙の理であり、我々の『魂』もまた輪廻の糸を延々と紡ぎ続けていく。
そして、それは神の戯れの如く永久不変の無限回廊となって繰り返されてきた。
だがしかし……我々は時に『終わり』を求め、時に『終わり』を嘆く。
『永遠』を約束された者でありながら、時として破滅を選び、過ちを繰り返す。
然れど、どれだけ過ちを繰り返そうとも、これまで人の歴史が途絶えた例はなく、物質文明は現在もなお発展し続けている。
幾度もの“仮初めの終末”を経てきた現代においても、我々の愚行は留まることを知らず、過去の教訓など何の意味も成さない。
それが“人の性”というのなら、なんて哀れで理不尽な運命であろうか。
然りとて、いずれは“それ”を、自らの意志で断ち切らなければならない。
なぜならその行為こそが、有史以来、数多の賢人らによって探求され続けてきた永遠の課題――『魂的進化』への糧となるのだから。
この世界は、間もなく『約束乃日』を迎えようとしている。
我々との『契約』を果たすため、七人の天使へと姿を変えた『彼ら』は高らかに喇叭を吹き鳴らす。
その儚くも荘厳な調べはこの大地の隅々にまで響き渡り、古来より人々が切望して已まなかった『終末』が齎されることだろう。
終わる世界の始まり……それは、古代人が犯した“大いなる過ち”なのだろうか。それとも、この無限回廊を断ち切るための最善の選択だったのだろうか。
『魂乃記憶』を失った我々は、“彼らとの契約”の意味を理解する暇すら与えられぬまま、“その日”を迎えることになる。
我々はどこから来て、どこに向かっているのだろう。
その謎を解く手掛かりは、我々の『魂』が記憶しているに違いない。
そして全ての謎が解き明かされた時、神の呪縛からも解き放たれたこの『魂』は、初めて進化を遂げることだろう。
――神矢晃比古、著 『アガルタの記憶』序文より抜粋
☆
′〇五年文月ノ七日(日本時間)
メキシコ湾を望むユカタン半島北部の町、メリダ市。その郊外にひっそりと佇む、古めかしい煉瓦造りの安宿にて……。
古代マヤ・アステカ文明及び、メソアメリカの古代文明に関する随想集と、長編小説を執筆中のこと――滞在日数はすでに半年を超え、すっかり煮詰まっていた小生の元に、日本から一通のメールが届いた。
『二八〇〇グラム――将来はかなりのお転婆さんになってしまいそうなくらい、とても元気な女の子です。
目元は晃比古さん似かしら? 一日も早いお帰りを、この子と共にお待ちしております。
ほんの僅かな時間でも、家族水入らずで過ごせたなら……そんな私の我儘を、聞いていただけたら幸いです。
そちらは何かと不便でしょうが、ご無理などなさいませんよう、くれぐれもお身体にだけはお気をつけてお過ごしください。
追伸――御神祖様より『地之巫女』の御証を賜りましたこと、併せてご報告いたします』
妻、狭依からの“無事出産”を報せる内容に、徹夜続きの呆けた頭が一気に覚めていく……。
『この物語を、愛する家族と未来ある全ての子供達に捧ぐ――』
躊躇うことなくその一文を冒頭に書き加えた小生は、ノートパソコンを静かに閉じた。
――もしも、『約束乃日』を回避する術があるとしたならば、きっとこの子らが我々の『希望』となるだろう。
考え得る唯一の手段は、『アガルタ』と呼ばれる魂の故郷から『魂の記憶』を取り戻し、失われし“古代技術”を蘇らせる……それ以外、この事態に対抗する方法はない。
そして『アガルタ』を開廟するためには、『アガルタ』の門扉を開く鍵である、『天空詠みの巫女』の存在が絶対条件となる。
“彼らとの契約”を反故にする機会など、遥か昔に逸してしまった我々に出来ることは、先住民族『アルザル』の末裔たる『天巫女』達に未来を託す……その覚悟を持つことであろう。
覚悟を持った行動により、人類は未来への『希望』を手にすることとなる。しかし、我々の現状といったらどうであろうか。
神の代弁者を騙る輩は、『破滅に向かうこの時こそが『復活』と『再生』への布石である』と説き、無知なる信奉者達は、それを安易に信じて疑おうともしない。
まして、そんな事情などまったく知らされていない多くの人々からは、『終末』を迎えようという危機感などは未だに伝わってこない。
故に、小生はこれからも警鐘を鳴らし続けていかなければならないだろう。
たとえそれが、“大いなる過ち”であったとしても、人知れず滅び逝こうとするこの世界を救うその手立ては、まだ残されているのだから。
夕暮れが間近に迫った、窓からの景色に視線を巡らす。
沈みゆく太陽を眺め、ああ、向こうではあれが朝日になるのだな………などと望郷の念に駆られた小生は、いつしか日本往きのチケットの手配をフロントに依頼していた。
――ホテル・アトランテ 二〇三号室にて……『中米滞在手記』より




