鼎
白い息が弾む。
久しぶりに戻ってきたこの街は、向こうよりも寒いのかもしれない。弾む白さが普段よりも多いのがその証左だ。だが年中ビル風が吹いている向こうと比べると、風の無い今夜は余計に過ごしやすいのかもしれない。
そんな事を思いながら街灯の照らす住宅街を歩く。夜八時を回ったこの辺りは、歩く人影も見られない。やはり向こうとは違うのだと感じる。
話し声も宣伝のネオンも無い。時折通る車の音だけが大きく響く。当たり前と感じていた物音が、これほどに大きい音なのかとしみじみと思う。
久々に見る景色はあの頃と大きくは変わっていない。もちろん建て替えられていたり、無くなった建物もある。それでも全体的な印象は変わらない。昔走り回った抜け道もまだ在り、その狭さに驚いたりもした。
自分にとっての原風景。ほっとするのはそのせいなのか。足取りも心なしか軽い気もする。
そのままの歩調で住宅街を抜ける。記憶通りなら、このゆったりとした下り坂を下れば目的地にたどり着けるはず。大きくカーブを描くその坂も、昔よりは小さく見えた。
「変わらないな。ここは」
坂を下り終え、眼下に見えた風景に思わず声が出た。
親水公園として整備されたそこには大きな池がある。広い芝生と隣接するその池には入る事が出来て、水遊びが可能だ。
遊んでびしょぬれになって怒られた事も一度や二度じゃなかったな。
池の横、歩道沿いには当然柵があり、今は休憩用のベンチも整備されていた。
俺はコートから煙草を取り出して火を着け、柵に両肘をのせて体を預けた。
ゆっくりと吸ったものを吐き出せば、その白さがより際立って見える。
予想より早く着いてしまった。やはり子どもの頃とは歩く速度も違うって事だな。速く歩けるほどに中身も成長したのはか分からないが。
水面を眺めながらただ機械的に吸い、吐く。住宅街の奥に位置するこの場所には車も滅多にやって来ない。ただ静寂の中で自分の呼吸だけが耳につく。
一本目を吸い尽くし携帯灰皿へと押し込む。ここ最近本数が増えた気がする。数えてないので感覚的なものだといいのだが。
大きく息を吐き出しながら首を上に向けるが、曇っているのか星は全く見えない。それが何となく残念に思えた。
静寂の中、微かな足音が聞こえてくる。澄んだ冬の空気の中、その音はゆっくりと確実にこちらへと近づいてきた。
「居るとは思ってなかったわ」
空気に負けず劣らず冷たい声。自分の想像と寸分も違わぬその声に、思わず苦笑いが出そうになる。
「久しぶりだっていうのに、ずいぶんな言い方だな」
柵から腕を離して声の方を振り返る。軽く後ろでまとめた髪、ハーフリムの眼鏡越しに見える瞳、身体を覆うグレーのコート、そして足元のブーツへと順に視線が落ちていく。
数年ぶりのその姿はやはり大人びていて、くだらない会話をしていたあの頃とは雰囲気すら違うように感じる。
まぁ当然の事なんだろう。
それぞれ社会人としての時間を積んできている。あの頃と同じままで居られるはずなんかない。そんな事分かりきってる。
「何がおかしいの?」
険のある声が刺さる。どうやら俺は笑っていたらしい。
「いや、懐かしくてな」
「私を懐かしいと思ってくれるの? 相変わらず酷いわね、佐川君は」
呆れた口調で言うその姿も、やはりどことなく懐かしく思ってしまう。
「懐かしむのは私の事じゃないと思うんだけど。はい」
コートのポケットから片手が差し出される。いや、その手には缶コーヒーが握られていた。
「サンキュ。明乃」
俺が遠慮なくそれを受け取ると、明乃は反対側のポケットからもう一缶取り出した。
「わざわざ買ってきてくれたのか?」
「まさか。居るとは思わなかった、って言ったでしょう」
まぁ、確かに。
「いつも二本よ。あの子の為にね。でも結局一本は持って帰ってたから、飲んでくれていいわ」
明乃はその先の言葉を飲み込むように視線を池の方に向けた。
その視線を追いながら、手元の缶を開ける。ふわりと香るコーヒーの匂いと温かさに釣られ口に運ぶ、が。
「甘いな」
思わず舌打ちひとつ。いつからかブラックで飲む事に慣れていた俺に、渡されたコーヒーは甘かった。
「あの子の為って言ったでしょう?」
明乃の口の端が少し上がっているのが分かる。してやった時に見せるしぐさ、変わっていない。
缶をあおれば、甘く香ばしい液体が喉を通って落ちていく。吐き出す息がより白くなるのは仕方ない事だろう。
懐かしさ。申し訳なさ。情けなさ。口には出さずコーヒーを口に含む。
甘めのコーヒー。あいつはブラックが苦手で飲めなかった。明乃が飲んでいるのを見て対抗意識を持つも、撃沈するのが常だった。
活発で、興味のある事には突っ走る。そしてその知識を活用出来る能力も持っていた。ムラッ気はあるし、目の前の事物しか見えない事もある。でもあいつの持つ前向きな明るさが、眩しくも羨ましくもあった。
「どうして、今になってここに来たの?」
先ほどの俺と同じように腕を柵にのせて、白い息を吐き出しながら明乃が問う。
最後に来た時からはずいぶんと時間が経っている。そもそも地元に帰ってくる事自体が少なかった。
地元が嫌いなわけじゃない。むしろ好きだ。それでもここに戻らずにいた理由は何なのか。そして今回ここに来た理由は。
「ケジメというか、区切り、かな」
「そう。ケジメ、ねぇ」
明乃のトーンが下がる。まぁそれも仕方が無いのだが。
缶コーヒーをあおり、再び柵に腕を置く。隣の明乃と同じように。
「昨日、参加していたプロジェクトに目処が付いたんだ。まだいくつか手を出さなきゃならない事は残っているが、事実上役目は終わった」
「そう」
頷く気配。脈絡の無い話なのに律儀な事で。
「残務整理が終わり次第、退職になる。有給がどれだけ消化出来るか分からないけどな」
未消化分全てとはいかないだろうが、と言えば、仕方ない事ね、と返ってくる。その感じがまた懐かしく、慌てて缶コーヒーに口を付けた。
「次は決まってるの?」
「いや。こっちで探そうと思ってな」
簡単な事ではないと分かっている。仕事にしても。逃げていた事にしても。
「こっちで、ね。どういう心境の変化かしら?」
さっきとは微妙にニュアンスの異なる質問。俺は言葉を捜して、一度大きく息を吐く。
「事実を受け入れなきゃならないんだな、と。今更だけど、思ったのさ」
「どの、事実を?」
即座に返される言葉。いかにも明乃らしいと感じる。
「あいつの……響の事。もちろん、お前の事もだ」
響。久しぶりに口にした名前に、心臓が反応する。上がった心拍数を抑えようと、残りのコーヒーを喉に流し込めば、温くなった甘みが舌へとまとわりつく。
「響の事、ね。もう……八年になるわね」
「そう、だな……」
たった一言で済んでも、その時間は決して短いものではない。その間にお互い学生ではなくなったし、忙しさに任せて忘れるには十分な時間だったとも言える。
だが、忘れなかった。
何一つ忘れる事が出来ず、それに縛られて、結果的に地元に戻る決断まで下した。
くだらない感傷。浮ついた気分。機微に気付かなかった自分。
甘えきっていた自分を、出来るならぶん殴ってやりたい。そう思った事も一度や二度じゃない。もちろん実際には出来ないし、そうしたら響が戻ってくるわけでもない。
結局地元から逃げて、それでも部屋にはかつての写真を置いている。単なる女々しさ。
それだけじゃない。俺は、こいつに――。
俺は隣へと視線を向ける。俺よりも少し下、眼鏡越しの視線は何処へ向いているのか。
吐き出す白い息だけが視界で揺れる。
響はここから見る星空が好きだった。住宅地から離れたこの場所は幾分か星が見やすいからだ。もっとも今日は見られそうにないが。
「響の事を受け入れる。それは分かるわよ。今更だとは思うけど」
今更。たしかに今更だと思う。
元々、俺が離れたのに。
離れる前、最後に三人で会った場所がこの親水公園だった。そういう意味でもこの場所は特別で、俺は足を運ぶ事が出来なかった。
「お前は、ずっとここに来ていたのか?」
「ええ。あれから毎年ね。それが私の責任……違うわね。背負うべき業かしら。忘れないように、ね」
当然とでも言うような明乃の口調。その言い様にただただ痛むのは良心か、自責の念か。
「それは、お前だけが背負うものじゃないだろう?」
「そうかもしれない。でも、一緒に背負ってくれる人がここには居なかったから、仕方ないじゃない? もっともそれを責めるつもりもないけれど」
当時も繰り返したやり取り。今も言う事は変わらないが、その裏を考えるくらいの余裕はある。いや、余裕というよりも覚悟だろうか。
「俺が一緒に背負う、と言うのは簡単なんだけどな」
言うだけなら、具体的な行動を伴わないから。
いったい何が出来るのか。響の事を忘れないのは当然として、明乃の為に出来る事があるのか。学生だったあの頃は何も思いつかなかったし、そんな余裕も無かった。
それは多分、明乃も同じだった。むしろ俺よりもそばに居た明乃の方がショックは大きかったにちがいない。
「元々、私が余計な世話を焼いたせいじゃない」
「それを聞いてもフラフラしてたのは俺だろう」
自分でもいい気になっていた部分が無かったとは言えない。付き合いの長い友からとはいえ、好意を向けられたとすれば嬉しくないはずが無い。
「響は言わなかったのでしょう?」
「そうだな。確証なんて何処にも無かった」
「私が背中押してあげたのだけどね」
それでも俺から見れば特に変わった風には見えなかった。だから明乃に言われても半信半疑だった。
言い訳は色々出来るのかもしれない。この田舎町から出てみたかったとか、あの破天荒ぶりは手に負えない、とか。
響の一挙手一投足を見ていて飽きる事は無かった。突っ走ったあいつに世話を焼くのを、面倒とは思わなかった。そんな中で笑っているあいつの顔が好きだった。
そんな響の隣にはいつも明乃が居て、見ていてくれた。比較的調子乗りだった俺や響が友人を巻き込んで暴走しそうな時、明乃はブレーキ役を担ってくれた。
明乃が居るから無茶出来るんだよ、と響はいつも笑っていた。そんな響を見て溜息を吐き、響の頭を小突く明乃の姿。ここまでがワンセットの流れだった。
もうそんなシーンを見る事は出来ない。この場所で、明乃が居て、足りないものがある事をしみじみと感じている。
「事故だった、んだよな」
「そう何回も言ったじゃない。私が」
「お前のせいじゃない。何回も言ったはずだ」
進歩の無いやり取り。全てを終えて、泣き尽くした顔で交わした中身から、八年経った今も何の発展性も無かったということか。
進めていない。そういう実感は微かにあったはずだ。もし明乃もそう感じているのなら、その一端は俺にあるのだろう。
「……そうね。何回も言われたわ。その腕の中でね」
さらりと言われて思わず頬をかく。流れの中で明乃を抱いた事は事実なので、反論のしようも無い。
明乃を抱いたのはその一度きりだ。次の日には進学先に戻り、そのまま向こうで就職して、地元に戻るのは稀だった。それでも連絡は取っていた。やはりここを忘れる事は出来ず、言外にそれに気付いてくれる明乃の存在は、貴重で、大事だった。
そうしていたのは完全に甘えだ。明乃の気持ちを知りつつ、防衛反応のように踏み込む事を拒絶してきた。
まるで十年前の繰り返しだ。そう思えば自虐的にならざるを得ない。
「お前には恨まれて、怒られて当然だと思ってるよ」
言って吐き出す息が白く線を描いて消えていく。
「恨んでも怒ってもいないわ。でも邪な考えが浮かんだのは事実よ。そう思っていた自分が居た事に気付いた時は、愕然としたわ」
隣からも長い息が零れる。
「だからこそ、私は必ずここに来るし、お参りも欠かさない。そうする事しか出来ないから」
明乃は淡々と言葉を紡ぎ、残っていたのか、手持ちの缶に口を付ける。そしておそらく冷え切っていると思われる中身をゆっくりと飲み込んだ。
そうやってただ悔い続けるのか。もしあの時、俺が手を出さなければ幾分かは軽かったのか。仮定を考えても仕方ないと分かっていても、そう考えずにはいられない。
「私の為、なんて言わないわよね?」
「何がだ?」
「仕事辞めて、戻ってくる事よ」
とぼけないで、と視線で釘を刺される。そんな事口が裂けても言えないが、その前に刺されるとは。
「さすがに言わないわ。それに今言ったところで、お前は拒否るだろう?」
「当然ね」
間髪を入れない切り返し。分かりきっていた反応につい笑いそうになる。
「貴方はいつもはぐらかしてばかりだもの。そういう意味での信用はしてないわ」
ばっさり切られ思わず苦笑いが零れる。そう言われても仕方ない過去があるのだから、渋々でも認めるしかない。
「どうしたら信用してもらえるかな?」
努めて軽く問いかける。語気を強めたところで明乃には無意味だ。
「そうね……。訊いてみたい事があったの。尋ねていいかしら?」
「今更か。どーぞ」
改めて問われる事とはいったい何なのだろうか。といつもの通り返した俺に、やはりいつも通りの明乃の声が返ってくる。
「響の事、好きだったの?」
不意に懐に潜り込まれたような、そんな印象の一言だった。
「それはー……、一人の女性として、て事か?」
「そうね」
安定の切り返し。茶化しているわけではないようだ。
「改めての質問がそれとはな」
俺は長く息を吐き出し、身体を反転させ柵に背中を預ける。
「はっきりと聞いた事無かったはずよ。貴方の気持ちは」
まぁそうだろう。いくら親しくてもそう簡単に話す事じゃない。まして男女間となれば尚更だ。
視線を上げて息を吐き出す。今日という日に星空が見えないのは幸か不幸か。
「好きだった、かもしれないな」
「曖昧な返事ね」
「あの頃は明確に意識してなかった。ただ楽しかったからな」
お前に言われるまでは、と喉まで出かけた声を飲み込む。
「響が居て、お前が居て、皆が居て。あのクラスは本当に楽しかったな」
「すぐ騒ぐのが悪いクセだったわね。ま、あれはあれで楽しかったわ。たしかに」
修学旅行に文化祭、各種打ち上げと事あるごとに男女間を走り回った響の存在は、上質な潤滑油そのものだった。
そんな響に惹かれた者もやはり居た。告白された事もあると本人から聞いた記憶もある。それでも誰とも付き合っていなかった。少なくとも俺の知る限りは。
「同時に怖かったのかもしれない。今思えば、だけどな」
「怖かった、か。それはフられる事じゃないわね」
「分かってんだろ?」
「ええ。一つは皆が抱えていた事。もう一つは響が故、かしら」
明乃の見立ては正しい。だから現状を変えずに、逃げるように地元を離れた。
この時点で俺は既に響と向かい合っていなかった。その権利を放棄したと思っていた。
完全に関係は消えなくても、それぞれの大学生活の中で立ち位地は変わっていくだろう。そう決め付けていた。そんな時期もまた学生生活として楽しいものだった。
なるようになる。落ち着くところに落ち着く。それを待っていた。響とも明乃とも連絡は密にはしなかった。
「今なら貴方の選択も分かる気がするわ。でも当時、その曖昧な状況に耐えられなかったのは私自身よ。響は多分、貴方の考えに気付いていただろうし。おそらく、私の想いにも」
それが響の行動に幾分かの歯止めをかけたのではないか。あの時に話さなかった部分を少しずつ追っていく。
「私が言わなければ、あの日出かける事は無かったのかもしれない、って今でも思うのよ」
「俺だって止められなかった。それに別件があった以上、俺達だけのせいじゃない」
昔ほど力はこもっていない。それでも言葉にせずにはいられない。
今までも、これからも、俺達は顔を合わせるたびにこうするだろう。決して響の事を忘れる事無く。だが。
「響は望むかな。今の形」
曇天の夜空の下、吐き出した息は変わらず白く消えていく。
「間違いなく、怒られるわ」
「だろうな」
持ち上がった口角を意識して目を閉じれば、響きの怒り顔が浮かんでくる。その服装が制服のままというのが何とも複雑だ。
明乃ならもっと私服やスーツの響の姿も知っているだろうが、俺個人としてはやはり制服姿の響と接した時間が一番長い。どんな表情を思い浮かべても、その服装はほぼセットだ。
響は笑顔が好きだった。楽しい時間なら笑顔で居られる。それが皆一緒なら最高だ、と。
だからだろう。俺と明乃が少し言い合いをすると、響はすぐに間に入ってきた。まぁいつも明乃の肩を持って俺が二人に攻められる展開だったが。
それもあいつなりの気遣いで。あいつにとって明乃は一番大事な友だったから。
ゆっくりと息を吐き出して、コートのポケットからパスケースを取り出す。冷えた指先を動かしそこから紙片を抜き出して、明乃へと差し出して見せる。
「これは?」
「あいつからのメッセージだ」
俺の言葉に明乃の伸ばした手が止まる。大きく見開かれたその視線は二つ折りにされた紙片へと注がれていた。
「部屋の整理を始めてな。そしたらあの時の小箱、ご丁寧にしまってあったんだ。それはその小箱の中に入っていた物さ。俺も見るまで存在を忘れてたよ」
あの時。八年前の二月、響を失った忌まわしい事故の後に遺されていた物。俺に届ける為に鞄に入れられていた小箱。
事故の衝撃のせいか、箱の一部は歪んでいた。そして中身も割れていた。それでも捨てる事なんかとても出来ず、噛み締めるように口にしたその味は全く覚えていない。記憶自体が一部曖昧なのだから仕方ないのかもしれないが。
それでもこの紙片は無事であり、響が遺した最後の言葉でもある。
「……私が見ていい物かしら?」
らしくない遠慮だ。いや、私信と思えば当然なのかもしれない。
「お前に見てもらう為に持ってきたんだ。構わない。あいつのメッセージを隠す方が不義理だろう」
「忘れてた人のセリフかしらね、それ」
聞き慣れた呆れ口調と同時に、明乃の指に紙片が攫われた。それから一つ、二つと白い息を吐き出して、明乃はゆっくりと紙片を開いていく。
名刺二枚分ほどの紙片。その中に書き込まれた言葉は短く、簡単なものだ。それでもはっきりと明乃が息を呑むのが分かった。
白い息。紙片を挟む指が震えているように見えるのは気のせいだろうか。
「……どういう事?」
明乃の口を付いて出たのは疑問の声だ。書かれていた言葉は明乃にとって想像していなかった内容なのだろう。
「そのままだろう。あいつはそう望んでいた。そうしたかった。もちろん本音なのかは分からないけどな」
「信じられない……」
明乃にしては珍しく言葉から感情がこぼれていた。いつも冷静さを失わない明乃だけに、そんな様子を見るのは十数年ぶりだと思う。
「これ……私にくれたのと全く同じメッセージよ」
「……やっぱりか」
何となくの予想が的中し、俺は虚空へと白い息を吐く。
「知っていたの?」
射抜くような視線に、俺はゆっくりと首を横に振る。
「言ったろ。確証なんて無かったと。そこに書かれている以上の感情を示された事は無かった。例えあったとしても、それ以上にあいつは、そうしたかった。ならばお前にも伝わっていて不思議じゃない。そう予想していたよ」
その望む形を模索しようとした時に、事故は起きた。間で響が何を思い、揺れていたのかを知る術はもう無い。
それから歪んでしまった俺達の形。このタイミングで紙片が見つかった事、それは響からの文字通りメッセージなのだろう。
都合のいい解釈だとは重々承知している。それでも明乃との間を埋める切欠にしたい。それくらいは響なら許してくれるのではないか。
それが甘えだったとしても。
「まったく、あの子は……」
何かを吐き出すような明乃の言葉。険も冷たさも無く、ただただ呆れたように。それはあの頃に響に話しかけていたものと同じ質で、その空気はまた一段と懐かしかった。
そんな明乃の肩が震えているのを見て、俺は近くのベンチに、明乃に背を向けて座る。見られたくないだろうし、俺も見慣れない。
ポケットから煙草を取り出し一本口に咥える。許可を取らずに火を着けるのは、さすがに気が引けた。ただ草の匂いを感じつつ煙のように長い息を吐き出す。
ふと視界に小さく光る点を捉えた。ゆらりゆらりと軽やかに降りていく点。それが地面に消えるのを見てから、やっと雪だと認識が追いついた。
視線を上げるとちらちらと粉雪が舞っていた。白く小さな粒が街灯に照らされて光っている。
「雪、か」
降る予報は出ていなかった。ならば積もる事は無いだろう。
そういや地元で雪が降るのを見るのは何年ぶりだろう。元々ここは雪が頻繁に降る地域ではない。積もる事も年に一度あるか無いか。基本的に車のタイヤも一年中ノーマルのままだ。
「あの子、雪が降るとよく騒いでいたわね」
言いながらゆったりとした所作で隣に腰掛ける明乃。その向きは反対で、視線を戻した俺の視界にはまとめられた後ろ髪がかろうじで見える程度だ。
「そういえば昔、約束したわね。この公園の広場で」
「約束?」
「子どもの頃、学校が休みになる大雪降ったじゃない。あの時よ」
「……ああ、あったな。そんな事」
一度雪で休校になった事があった。あの時は喜んで外で遊んでいた記憶がある。
「約束、ねぇ。あの時した事となると、雪だるまか?」
「そうね。大きいの作ったわ」
当時の自分達の身長を越える雪だるまを作った。上に乗せる雪球が重くて何度も落とし、作り直したりした。
「また作ろう、だったか」
それでも雪には変わりなく、天候が回復した後に溶けて姿を消した。そのときに響がそんな事を言っていた気がする。
「それは叶えられなかったわね」
大雪が降る事自体が非情に稀だし、いくら降ろうともう約束の主は居ない。
「もっと綺麗に作りたかったな」
あの雪だるまはあちこち歪んでいた。乗せるだけで精一杯だったのだから仕方ないのだが。
「透の美的センスは当てにならないわ」
「そこかよ」
突っ込みながらもいつもの調子にどこかほっとする。この空気感こそ俺達らしい。
「なぁ、明乃?」
「何?」
顔を上げ、空を見る。真っ黒なスクリーンの下、小さな光がふわふわと舞っている。
「傍に居てくれないか」
何気なく出てきた言葉はそんなのだった。それを自覚して身体が固まる。
色々段取りは考えていたはずだった。何故にそれをすっとばしてしまったのか。いやここは何か続けた方がいいのかどうなんだ、これ。
頭の中がぐるぐると回る一方で、その口は全く動かず、ただ舞う粉雪を見つめていた。
「……呆れた」
聞こえてきた声。ええ、俺自身呆れてますとも。
「もうちょっと言い方とかムードとか無いのかしら」
「……この場ってのが、らしいだろ」
「そうかもしれないわね。私達らしいかもしれない」
言葉を発して、やっと頭の中が落ち着いてきた気がする。
「私は響の代わりじゃないのよ」
「当然だろう。あいつはあいつ。お前はお前だ」
「資格が無いわ。私自身が許せないもの」
「俺も同じだ。それに俺はお前にまで傷をつけている。一般論なら俺の方がよほど酷い」
変わらない平行線。お互いがお互いに遠因で、そして近すぎた。
「ケジメと言ったろ。響の事は俺にも背負う権利が、義務がある。お前だけにさせるわけにはいかない」
「今まで離れていて、何を勝手な事を」
「ああ、勝手さ。そんな事分かっているだろう?」
言い切った俺の耳に溜息が聞こえてくる。
「ええ。透も響も言い出したら聞かない人だったわね」
まだ険のある声だが、明乃の場合これくらいは平常値だ。
「ああ、勝手を言うよ。あいつの、響の遺した願いだからな。遅くなったとしても、出来る限り叶えてやりたいんだ」
「だから『傍に居て』なのね」
もう一つ息を吐く音。聞き慣れた明乃のリアクション。
それから隣の空気が動く。立ち上がった明乃はベンチを回りこんで俺の前に立ち、片手を差し出した。
「返すわ」
その指先には二つ折りにされた紙片。俺はそれをそっと抜き取り元の場所へとしまう。
それを確かめた明乃は俺に背を向けて数歩前に進む。
「一つ訊かせて」
明乃は振り向かないまま、声だけを投げかけてくる。
「私の事、好きなの?」
ストレートに問われた言葉。そしてその裏にある意味が分かってしまったのは、付き合いの長い幼馴染故か。
「いつでも俺が関心を抱いていたのは二人だけだ。それ以外は意味を為さない」
だからこそ明乃に分かるように、俺は逆に遠回しに答える。付き合いの長い幼馴染だからこそ、それが分かるように。
「そう。墓前でそう言えるなら、考えてあげるわ。それじゃ」
「ああ、またな」
俺の言葉を聞いて明乃はまた歩き出す、が、また足を止めた。
「どうした?」
さっきより幾分大きな声で問いかける。
「言い忘れてたけど、私は行き遅れるつもりはないわ。それだけよ」
それだけ告げて、今度こそ明乃は去っていく。その後姿は記憶よりも凛としていて、素直に格好良かった。
ふうっと息を吐きながらベンチに片手を付くと、冷たい缶が手に触れた。どうやら明乃が置いていったらしい。
捨てておけ、って事か。やれやれ。
自分の飲んだ缶と並べて置き、一度しまった煙草を咥えて火を着ける。紫煙を吐き出せば、それに合わせて粉雪が揺れた。
禁煙、しなくちゃならないかな。
響も明乃も煙草は苦手だった。思えば俺が吸うようになったのも響を失ってからの事だ。
地元に戻る決意をしたんだ。やはりこれもタイミングなのかもしれないな。
そう思いながら今吸っている物をじっくりと味わう。
変わってしまったもの。変わらないもの。戻す事は出来なくても、別な形を考える事は出来る。
この一本が終わったら、少し考えてみるとするか。
そう思いパスケースを取り出せば、粉雪がひらりとその上に舞い落ちた。
儚すぎる。それが響の存在をより強く思わせる。
選べなかった自分は最低だろう。それでもその形がわずかでも響の願いと重なるなら。
それが明乃と一緒なら、全て理解されなくても、背負って往けるから。
目を閉じれば浮かぶ少女。その笑顔が思い出せる限り、俺は支え続けよう。そのバランスが支えきれなくなるまで。
吸い尽くした煙草を携帯灰皿に捻じ込んで、空き缶二つを片手に立ち上がる。
「また来るよ」
誰にともなく声をかけ、懐かしい実家へと足を向ける。当然返事などあるはずもなく、舞う粉雪だけがまとわりついてくる。
ふと立ち止まり、もう一つ言葉を加える。
「ただいま。響」
小さく発したその瞬間、わずかに風が吹いた気がした。