焦燥
……どうしても拭えない、払拭しきれない疑問があった。
深く暗い闇の中、優は静かに意識を取り戻していく。
勘違いだろうか、何かがどうしても引っかかる。異論は無かった。疑惑も何も。疑うことすら必要ない、そう思ったはずなのに。
思い残すことは無いって……何の話だろうか?
そもそも名前しか思い出せていなかった。俺が誰なのか、何者なのか、何処で、何をしていたのか、何も、一片の記憶もないはずの自分が、何に思いを抱いていたというのだろう。
ぼんやりする、抜け落ちていく、全身が虚脱感に押しつぶされそうになる。
そもそも、初めからおかしい。そう、違和感を抱いていたじゃないか。目的があったから、やらなくてはいけないことがあったから。
なのに、どうして自分は…『俺』は、何もかも忘れようとした、何故、こんな真っ暗な世界に好意を抱いた…?
さっきまで、誰かと話していた…気がする。確かに、話をしていた。
なのにどんな内容だったか、どんな奴だった断片的にしか思い出せない。
……ただ、今はハッキリ思い出している。俺が誰で何者か。
最近の出来事、そして途切れた記憶。助けを求めた彼女を、必死に助けようとした瞬間から意識は途切れてしまっている。その後もその後も何も覚えていない。覚えていない…ではなく、無いからだろう。
真っ暗な、何も無いこの世界。存在するのはただ一人。
「……ああ、死んだのか……俺…」
そういって、暗い闇を呆けた様子で眺める。
何もない、本当に何も存在していない、何となく手足があるような気がするが、見えない。動かしているようで、動かしている感覚が無い。
所謂、この意識は思念による集合体…それこそ魂の塊…とでも言うべきなのだろうか。
ただこれが死後の世界…にしては、随分と…意識がハッキリとしているものだな。
こうして記憶があって、考える思考がある。実体は無いが、しかし夢という感じでもない。それこそ死んで無の世界…といえども、全然意識があるのだから無の世界とかそうでもない気がする。
「となると…生きている…のかもな」
実際に死んだのか死んでないのか、死後の世界なんて分からないのだから確証がない…が、少なくとも死んではいなのだろう。
確証はなくとも、感覚がなんとなく伝えてくる。この世界の居心地の良さを、俺は見ていた。そしてつい最近、経験している。
チェックとメイトによって死の淵に立たされたときも、似たような世界だった。あの時は少年の記憶を覗く…という形で真っ暗なだけだった訳ではないが。
来ているのだ、あの時に。
「……よぉ」
暗闇の中に、優はあたかもそこに誰かが居るのが分かっているように声を掛ける。
「………」
返事は無い、ただ、聞いている、それは聞こえている。
「…だんまりか、まあ、別にいいけどな」
別に仲良くしようなんて気はさらさらない。ただ話をした方が、意思の通達が楽だと思ったからだ。
「…んで? 何時までこの世界に俺を拘束させる気だよ? そろそろ元の現実に返せよ」
まさか、このままずっとこの世界に居る訳にもいくまい。
やる事がまだ残っているのだ、何時までもこんなツマラナイ世界に入りびたっても仕方がない。
「これ以上、俺がこの世界に留まる必要は無いはずだろ?」
用済みなはずだ。だって力を求めたあの時に、既に俺は≪契約≫したのだから。ある≪条件≫を元に。
「それとも何か、また新たに≪契約≫しろってか? かといって、何も喋ってこないってんじゃこっちとしても何がしてーのかわかんねーんだけど」
当たり前のように口から出てくる≪契約≫の言葉。どうして今まで忘れていたのか、それとも、忘れていたのではなくて、この世界でしか記憶を共通できないように改ざんされているのか。
「…残念だが、まだお前に出番はねぇよ」
以前から俺はコイツを知っている。昔から、ずぅっと…昔から。
実を言えば、そこにそいつが本当にいるのか分かっていない。何となく、本当にただ何となく、居る気がするだけだ。
だからこそか、優は言葉を詰まらし、小さな声で呟いた。
「…だからよ…お前は…心配しないで此処で待ってな」
そういった瞬間、何の前触れもなく目の前が眩い光を放ち出すと同時に、意識が急激に遠のいていく。
再び飲み込まれていく。意識が眩い光の先へと導かれるように。
結局、意識が途切れる最後の最後まで、あいつが居たのか分からなかった。
・…・…・
次に目を覚ますと、そこは見覚えのある空が広がっている、そして次に視線を辺りに巡らせた優は一息つく。無事に「石岩龍」と呼ばれる町へと戻っていた。
ゆっくりと身体を起こし、手足など身体に支障がないか調べる。
「……問題…なし…?」
はて、記憶ではとてつもない爆発に巻き込まれたはずだったが…間一髪で逃げ切れたものの、爆風か何かのショックで意識を失ってたのか? てっきり手足の一本や二本、アバラとうの骨折、打撲、火傷、何かしらの怪我を負っているかと予想していたが…。
しかし、現にこうして無傷な身体で足を支えに、何不自由なく立っている。
それも、衣服もまるで何事も無かったかのように無傷、爆発の中に巻き込まれたのなら、焦げ一つ付いていないはずもない。
「……?」
無事過ぎることに、胸を撫でおろすどころか違和感を感じる。と、ハッとして優は視線を周囲に巡らした。
「あ、あの人は? 彼女は無事なのか!?」
そうだ、違和感はこれだ。
肝心の助けに向かった女性がどういう訳か辺りを見回しても見当たらない。
「……ま、まさか…助け…られなかった…?」
もし、もしもあの時の想像が失敗していたのだとしたら…彼女はもう…。
「……い、いや…諦めるのはまだ早い…そもそも、俺がどれだけの時間意識を失っていたのかもわかっていないんだ。もしかしたら助けを呼びにいったのかも…」
……助けを…呼び…に?
背筋が凍りついた。そもそもこの町の人々が安全、無害という保証が何処にも無い。
あちこちを爆破するという、これだけの大騒ぎを起こして、だれ一人として未だに姿を見せていないなんて、本来常識からしてありえない程に異常だ。
もしかしたらもう殆どの住人が避難しているのかもしれない、だから人の姿が見えないのかもしれない。
家族は? 友人は? 知り合いは? 誰も助けに向かおうとは思わないのか?
いや、もしかしたら冷静、沈着に行動を起こしているから静かなのかもしれない。
だからといって、物音一つ、誰一人として声が聞こえないなんて、あんまりにも冷静過ぎるんじゃないか?
「…ッ!! こうしちゃ入られない!!」
俺の考えが正しければ、この町の住人には複数の呪人が紛れ込んでいる。
いや、複数どころの話ではない、数十、数百、下手すれば…この町の人口の殆どが…呪人という可能性だって少なからずある。
「…まずい…まずい…ッ!」
だからといって、そうそう彼女を見つけたからといってすぐに危害を加えるとは限らない。平然と彼女を捨て駒扱いする敵だが、少なくとも生きていたのなら、また利用しようと考えて暫くは生かしてるはずだ。
なのに…どうしてこうまで心臓が高鳴る? 嫌な予感が、焦りを促し呼吸を乱れさせる。
「何処だ、何処に行ったんだ…!!」
闇雲に走り回る、が、何十キロにも及ぶ町中を走り回ったところで、そうそう簡単に見つかるはずもない。
「…お、落ち着け…こんなんじゃ無駄に体力を消耗するだけだ」
すぅー…はぁー…すぅー…はぁー…。胸に手を当てながら何度も何度も深い深呼吸を繰り返し、気持ちを整える。
「……探して見つからないのなら、見つければいい」
そういって、優は想像する。
瞼を閉じ、周辺に意識を集中、深く、深く。どんどん意識を沈み込ませていく。
「……あっちか!」
比較的近い場所から彼女らしき反応があった。加えてその彼女の周囲に覚えのない気配が二つ…どうやら予想通り、助けを呼びにいったようだ。
「ッハァ…ッハァ…!」
反応があった方角に向かって全力で駆け出し、そして想像する。それは町中を駆け抜ける一瞬の隙間風のよう。
その瞬間、脚力が飛躍的に向上し、恐ろしい速度で大地を蹴り上げながら町中を縫うようにして爆走する。
「っぅお!?」
びっくりして思わず声を上げてしまう、それくらいに身体が一瞬付いていかなかった。
想像していたよりも速度が速い。この調子であればものの数十秒で着いてしまう。随分と便利だな。
…そう思ったのだが…変わりに体力の消耗が尋常ではなかった。
「っひゅー…こ、こひゅ…ひゅー………ぜぇ…ぜ…ぇ…ッ!!」
目的地に着いて止まった瞬間、間髪入れずに襲い掛かってきた息苦しさに、息を詰まらせて倒れそうになる。どうも身体に掛かる負担が半端ないらしい。息を切らし、苦しさに脇腹を抑える。
しかしおかげであっという間。対象の近くまで来るのに差ほど時間は掛からなかった。
痛みに脇腹を抑えながらも歩いていくと、少し先に瓦礫の隙間から彼女の姿が僅かながらに目に移った。
「…良かった…無事だったか」
ふっと胸を撫でおろし、更に近づいていく。すると何やら誰かと話している様子が入り込む…あの時に反応があった二人だろうか、瓦礫が邪魔でよく周りの姿が見えない。
「…知り合い…とかか…? 何を話…」
大分近くに近づいて、周囲に転がっている何かに初めて気が付く。
ぼんやりとだったのだ、近づくにつれてだんだんと、ハッキリと。その形が分かっていく。
「何…だ、あれ…どう見ても…服…だよな? 倒れてるのって…人……だよ…な?」
倒れてるのは人だ、人に見間違いない、ただ、何で倒れている? 何で彼女の周りで、あんな数の人が集中して倒れている?
数人なんて数じゃない。一目見ただけでも二十…三十人はいる。あのピクリとも動かない物体が…全て…人?
い、いやいや、おかしくないか? 今の今までだって、人の気配だってなかったのに、何であんなに人が集中して? いや、それよりも何で助けようとしないんだ?
「し、死んで…るのか? え? う、嘘…だろ?」
嫌な汗が頬を伝っていく。
相変わらず三人の様子が瓦礫が邪魔でよく見えない…が、近くによって分かる。ただの平和な話とは程遠い、耳に入ってくる彼女の声は明らかに穏やかではない。口論だ。
周囲に倒れる人、そして知らない男が近くに二人、揉めてるかのような彼女の口調。
「……ま、待てよ…待てよ!!」
じっとりとした汗が全身から噴き出す。
想像しろ、想像する!!
が、焦燥に駆られて何も考えが及ばない。
「あ、く、く…そぉ!!!」
瓦礫が邪魔だが、これ以上無駄に想像してるなんて悠長な事をしてる場合ではない。
長年鍛えてきた身体、その身体能力を頼りに、肺の痛みなど忘れた俊敏な身のこなしであっという間に瓦礫の間を縫って走り寄る。
そして視界を塞いでいた最後の瓦礫から身を乗り出した…次の瞬間、
「………………あ?」
優の瞳に映り込んだのは、力無く地面に倒れ伏せたまま動かなくなっている彼女の姿だった。