死の前兆
……確証が欲しかった。
もしかしたら、既に気が付いてしまっているのではないか。
怪しまれずに確認する、都合の良い切っ掛けを必要としていた。
「…そんなに心配? さっきから随分とあの子に気を取られているようだけれど」
私を捕らえた事で優越に浸っているのか、柚依は顔を傍まで近づけると一言囁いた。
その一言から察するに、私は彼女に手を出されてしまう事を恐れていて、それで気が気で仕方がなかったという見方でいるに違いない。
「…無言…ということは肯定の意でいいのかしら。だとしたらごめんなさい、アタシは人質を使ってまで勝とうなんて、そんな無粋な真似はするつもりなんて初めから無かったのよ…」
クスクスと小馬鹿にした笑いを漏らすと、柚依は手に持っていた剣を私の首筋へと押し当てる。そのままゆっくりと加減した力で押し当てられた剣が、首筋の薄皮一、二枚を裂いた。
チクリとした微かな痛みと共に一滴の血が滴り落ちる。少しでも動けば今度は肉が裂けてしまう、絶妙な力加減で刃は止められていた。
「…だって、人質なんて無くても貴方はこんなにも弱いんですもの…ねぇ?」
そういう柚依の微笑みの瞳の奥に映る、相手を見下した目。
戦闘知識の無い素人相手という、明らかな格下の相手を見てつまらなさそうにため息を漏らす格闘家のような。それとも何の装備も持たない人間が、あらゆる武器を武装した人間に挑んできたかのような。
初めから勝負にすらならかったという、下らなさを堪えた失笑を連想させた。
「…それで、言い残すことはあるかしら? あるなら是非ともお聞かせ下さらないかしら?」
再び首筋に当てられた剣に力が篭る。さっきよりも強めに押し当てられ、流れ出す鮮血と痛みが一層強くなる。
「あら、恐怖で声が出ないのかしらぁ? でも大丈夫、安心していいわよ。寂しくないよう、ちゃんとあの子もすぐに送ってあげるから。だから安心して死になさい」
身動きの取れない状況で、風前の灯とも言える生死の最中で、更には死の宣告を告げられたにも関わらず、魔王がその時に抱いた感情は恐怖ではなかった。
ましてや口惜しさでも、寂しさでも、悲しみや怒りでもなくて。そもそも途中から魔王の眼中に柚依の姿は映されていなかった。
迫る死には気にも留めず、柚依の言葉は耳に届いておらず、全ての意識が瞳に注がれる。
さっきまで意識を失っていた桜は、意識を取り戻して立ち上がったまま二人の姿を凝視していた。
そう、何もすることなく、ただただ見つめているだけ。まるで観客席に座っている傍観者のように他人事。
誰であろうと傍から見れば、味方であるはずの魔王が危険に晒されているのは一目瞭然、だというのに桜は助けようとする動きはおろか、逆に怯えたように身体を震わせて立ち竦んでいた。
怯えるとは可笑しな話だ。だって危険に晒されているのは桜ではなくて私なのだから。ましてや一般市民とは違い、戦う力だってあるのだから。
目の前の出来事を見て、そんな反応が返ってくるはずもない。普通に見ているだけなのなら。
と、突然身体に力が入らなくなったのか、桜は体制を崩すと再び床に倒れ伏す。恐らくは効力が切れ始めたのだろう。
強烈な睡魔が全身を襲っているはず、だというのに、桜の瞳はすぐに閉じることなくかじりつくように二人の姿を捉え続けていた。
いや、視線の先は柚依でもなく、首筋にある剣でもなく、魔王自身そのもの。
お互いがお互いを凝視していた結果、不意に視線を感じた二人の目と目が合う。
「……ッ!」
その時に浮かべた桜の表情の変化に、魔王は抱いていた疑問を確信へと成りたてた。
(そう…やっぱり…見えていたのね)
「ずっとだんまりしてつまらないわ…これ以上貴方に構ってられるほどアタシは暇じゃないし、もういいわぁ」
魔王は桜の瞳が最後まで閉じたことを確認すると、一息つく。
欲しかった確証は得られたし、時間稼ぎも十分過ぎるくらいに取れた。
肝心の彼は遠くで眠ったまま、それに厄介になりそうな目撃者もいない。それに邪魔者が入ってくる可能性も低いと考えていい。
「さようなら、せめて最後に気持ちのいい断末魔を上げて頂戴ねぇ!!」
となれば、もう――。
「――殺しちゃっても、構わないか」
そういって、魔王は両手両足を拘束している鎖を一瞬で粉々にして解くと、首筋に当てられている剣を掴み、虚空へと消し去った。
…・…・…
「…………え?」
まるで何事も無かったように、魔王は鈍った手首の関節をほぐすようにクネクエと動かす。
あまりに一瞬の出来事に、理解が出来なかったのか柚依は手に持っていたはずの剣を探すようキョロキョロと辺りを見回した。
その様子に魔王は思い出したように手の平を前に差し出す。
「ん、もしかしてお探しの物ってこれかな~?」
そういって、魔王は手の平の上に小さな歪を起こす。するとたった今消えたはずの剣が魔王の手元に収まる形で出現していた。
「…………」
一瞬の瞬きすら許されない間に、何をどうして剣が現れたのか。
呆けた様子の柚依を他所に、魔王は手元にある剣をクルクルと回して弄ぶと、何の前触れもなく突然柚依に向けて投げつけた。
「ッな!?」
急な展開に次ぐ展開によって、不意を突かれたことで柚依は反応が少し遅れる。それでもギリギリのところで咄嗟に反応して向かってくる剣を避けたが、後から直進してくる魔王に対しては完全に無防備な状態となっていた。
すかさず次の一手を避けようと身を翻した柚依だったが、今からでは既に遅すぎていた。
柚依の目の前まで迫った魔王は体重を足に掛けて屈んだ姿勢になると、両手を前に振りかざす。
【全衝撃!】
空間が歪む、それに触れてはいけないという悪寒が柚依の全身を駆け抜ける。そして瞬時に身体的な回避は不可能だと悟ると、咄嗟に魔法の詠唱による回避を試みた。
「…っ!? ま、魔法無こ…ッ!? が、ぐ…きゃぁあああああああああ!!!」
だがしかし、詠唱が済むよりも早く魔王の両手が柚依へと触れる。すると一瞬の空白の後、途轍もない衝撃が柚依を襲い始めた。
何本ものアバラが軋んだ音を鳴らし、肺にある空気は全て吐き出され、衝撃で浮いた身体は後ろにある壁にぶつかるまで投げ出される。だが、それでも尚衝撃の勢いは衰えることなく、四肢にまで激痛を伴す影響を与え続けた。
「っこ、くはっ! あ…ぐ…!」
倒れるまでには至らなかったが、足元はふらつき、咳き込むとともに鮮血が吐き出される。
「な、何…これ…さっきまでとは桁違いの…魔力…?」
さっきまで魔王が放っていた威力が、殺意が比べ物にならない程に跳ね上がっている。まるでさっきまでの争いが子供のお遊びだったと告げているかのよう。
たった一撃でアバラの数本、肺の片方を潰された。
僅かにも身体を反らした事で直撃は免れたものの、もしまともに受けていたら今の一撃で勝負は終わっていた。
(な、なんて奴…下手な手出しは踏めないと思っていたのに…この身体がどうなってもいいというの…ッ!?)
「ふぅん? ぼおっとしている暇があるなんて、随分余裕なんだね~」
「っご…ぉ!!」
頬に鈍い衝撃が走る。少しして蹴られたと理解し、今の攻撃で止めを刺さなかったことに、魔王が完全に舐めて掛かってきている事をハッキリと自覚した。
さっきまで見下していた相手に見下されているという行為は、これ以上となく柚依の神経を逆なでた。
「っな…舐めるんじゃないわぁ!!!」
怒声の後に歯ぎしりを鳴らし、柚依は衝撃に身を任せ身体を反転して翻す。そして後ろにあった壁に手を触れると、壁一面に複雑な形をした紋様が浮き上がった。
淡い光を灯しだしたことで初めて理解する、それは壁一面を使った一つの魔法陣。形成するに必要とする膨大な法力を蓄えた巨大魔法。黒い閃光が至る隙間から迸り、辺りに無数の剣が浮かび上がる。
『無幻剣!!』
浮かんだ剣の数は、数本、数十分、数百本。見る場所見る度に毎回数が異なり、剣は虚空から現れては消えるを繰り返す。
幻影の類と一目で判断した魔王は気にすることなく足を一歩前へ動かす、するとその瞬間、一つの剣が呼応するように動くと魔王の頬を掠る。
切れたことによる確かな痛み、そして頬から流れ出す血の滴。確認するように魔王は傷口のある頬を指先で触れると、味見するよう舌で舐めとる。じんわりと味覚が感じ取る、伝わってくる苦くも甘い鉄の味。
「……幻影じゃ…無い…?」
「違う…わ…。貴方が見ている剣の全ては紛れもない幻影よ…? ただし…一本だけ本物が混じっているけれどもね…」
息を切らしながらも自信あり気な表情を浮かべる柚依。魔王は静かに瞳を細めると、周囲の剣に視線を送る。
(うふ、見れば本物がどれか分かるとでも思っているのかしら…)
柚依は先ほど投げつけられた剣を元に、それを媒体に投影して幻影を作り出していた。本物と瓜二つに作られた本物の無数の幻影。いくら幻であっても、見た目、形、質感はどれも本物と同じ。そして本当の実体がある本物は一つ。
(実態のある本物がどれか、それが分かるのはアタシだけ)
弱点は無い…と言い張りたいところだが、しかし所詮は幻影、触れれば実態が無いことに気が付き同時に霧散する。…だが、どれか一つでも本物が混じっているとすれば、答えの知らない相手は向かってくる剣その全てが本物に見えてしまう。
(うふふ…分かるはずもない…これは其処らの安い魔法とは訳が違うのよ)
加えて幻影にも神経に作用する、騙しの痛みが組み込まれている。
「っかは…さっきはよくも……よくもアタシを傷つけてくれたわねぇ? これでもアタシ、結構根に持つ性格なのよ…?」
「…ふぅん…だから?」
「だから、お礼に苛め抜いてから殺してあげるってことよ!!」
無数の剣が乱舞し狂い踊る。軌道が何度も曲がり、何時何処の剣がその身に降りかかるかわからない恐怖が魔王を襲う。
ある剣は後ろから、ある剣は真上から、またある剣は直線に。常人であれば避けようと身を翻し、醜く逃げようと駆け出しもがく姿を見せる。
しかし、対して魔王は一切動じることなく、そっとその瞼を静かに閉じていた。
「う、うふふふ、うふふふふふふ!! 何、目なんか瞑っちゃって!! もしかして諦めちゃったの!?」
意識から外そうとしたところで、生み出された幻影は紛れもなく魔王の神経を傷つける。手を、足を、脇腹を、頬を、何度もいたぶるように掠める。
どんな手を使うつもりかは知らないが、いくら足掻いたところでこの幻影から逃れる術は存在しない。
「そろそろきっついお仕置きでもいこうかしらぁ!!」
興奮した柚依は肺の痛みなど忘れたように高らかに声を上げ、実体のある剣を魔王の胴体に向けて放つ。
しかし殺しはしない。あえて致命傷は避け、まずは絶叫を聞いて酔いしれようとする。
「さぁ!早く!貴方の声を…聞かせて頂戴ぃいい!!!」
だが、絶叫はおろか、苦痛の声一つすら魔王の口から発せられることは無かった。
変わりにゆっくりと魔王の口から発せられた、柚依の耳を疑う一つの詠唱。
【…無幻剣】
一瞬にして無数の色違いの剣が虚空から現れると、柚依の生み出した虚空の剣とお互いにぶつかり合い霧散する。
すると必然的に絞られ残っていく、一つの剣が露わになった。魔王目掛けて斜め上から直角に落ちてくる実物の剣が。
「ぃいいいいいい……い、ぃい?」
(…あ、あれぇ?どうしてアタシの剣が…アタシの剣同士でぶつかり合って消えていくのかしらぁ…?)
「なーんか随分派手な魔法だった割には、解けるとなんとも情けない姿だけが残るんだね~」
そういって、向かってきた剣を掴み取った魔王は、小さく口を動かした後、手に持っている剣をグニャグニャに折り曲げて放り投げる。
一部の空間を捻じ曲げて折ったのだろう、これで剣は使い物にならなくなった。
ただ、それはもはやどうでもいい。それよりも問題なのは、彼女が同じ魔法を扱ったことにある。
「な、な、何なのよ…何なのよ貴方ッ!? どうしてアタシの魔法が使えるの! あれは…アタシが生み出した魔法なのよ!!…それなのに…! どうして!!」
「どうしてって…可笑しなことを聞くんだね? アンタ、さっきから私の前で魔法を使って見せていたじゃない」
「……は…? 何を…言っているのよ…?」
「だから、幻影を私に見せ続けていたじゃない。案外間抜けだね」
そういう魔王の両目には、怪しい赤黒い光を放っていた。
【魔王の目】
それは全てを見通す漆黒の紅、何よりも濃い真っ赤な色に、全てを塗り尽くす終わりの無い闇。
「見て…たから? たった…それだけ…?」
それだけで、知りもしない魔法の仕組みを理解したと。どういった構造か、形状か、仕組みか。知りもしない、それこそ素人に、あのたった数秒の時間の中で整理し把握したと言うのか。
「何…よ…それ?…そんなの…あり…えないわ…!」
だが、否定しようにも魔王は実現して見せた。それも現状に合わせ、思い通りに幻影を相殺させるように一部変化を加えながら。
「それにさー、何なの?とか、ありえない~!とか言われても困るんだよね~。だって」
柚依は何も答える事が出来なかった。何故なら、魔王が答えるまでもなく、本人自身が一番に理解していたはずだったのだから。
「私、これでも魔王ですから」
そういって微笑を浮かべるその姿は、何よりも怪しく、何よりも恐ろしく。それは古書に記される伝説の魔王とは程遠くも近い存在である事を肌で感じ取り。
そして次の攻撃で確実に仕留めることが出来なければ、やられるのは自分だという死の前兆に柚依は戦慄せざるを得なかった。