二人の日常
「俺の使命は魔王を倒すことだ、そんなことわかっているだろ?俺とお前では相容れない仲なんだよ」
そういい放った俺は腰に掛けていた剣を魔王に目掛け突きつける。
魔王は両手を床に突き、足を横にして無防備な状態でいる。この状態化に置いてではどれ程強大な力を用いた魔王でも、万が一にも負けることがないと自信を持って睨みつける。
「…じゃあ、今ここで私を殺す?」
「っぐ!?」
そもそも、勝負事にすらなりはしない。小さく微笑むと魔王は自ら剣先に首を突き当てた。あと少しでも力を入れてしまえば、この向けた剣先が喉を掻っ切るだろう。だというのにそれに魔王は一切の迷いや恐怖が感じられない。
それどころか、俺に殺されるなら本望という顔だ。
「っば!? おま、何考えて!」
「ふふ、どうするの…?」
「ぅ…」
ぐうの音も出ず、足が一歩後ろに下がる。予想外の行動に思わず表情を顔に出してしまう。
それだけの反応で魔王は十分だったようだ。魔王はケラケラと楽しそうに笑うと俺の顔を見てニヤニヤと笑う。
かっこつけた分、真正面から返されて赤っ恥をかいてしまった。ついさっきまで膨れっ面の魔王だったが、今ではこっちが膨れっ面になってる。
「ふふ、優くんったらかっわい~!」
「…うるさい」
ふてくされた顔で俺はぶっきらぼうに顔を魔王から背ける。
勇者の使命は魔王を討伐すること。それを自分自身はよく理解しているつもりだった。
(だが、どうしたことか…その討伐対象に俺は…惚れられてしまっている)
この場合、本来ならまず有り得ない状況下に置いて考えられる事は、惚れ薬といった効果や、催眠で操る魔法の類に絞られる。しかし俺は惚れ薬や魔法の類を一切使ってはいない。
(そもそもそのような類あるのだろうか? 有ったら是が非でも欲しい…ではなく……)
それは、魔王を助けたてからのこと。ある日の出来事を切っ掛けに、魔王は俺に惚れたらしい。
古く伝えられている辞書を開けば、魔王という言い伝えは様々で、多種多様に残っている。大体、辞書を開いて初めに目にする内容は。
『魔王は世界を恐怖に陥れ、混沌の闇へと誘う魔物の頂点に立つものとされている』
だそうだ。詳しい詳細は流石に乗ってはいないが、つらつらと語られる話には全ての理念、つまりは『理』を覆す圧倒的な力を持ち、眼光一つで植物を枯らし、一度息を吐けば紅蓮の炎で大地を燃やし尽くし、圧倒的な魔力で全てを支配するとかなんとか。
ただそれはあくまでも、言い伝えられているだけのただの昔話。今となっては、この本に書かれた物語は人の記憶から消えつつある。実礫や語り手が殆どいないのが現状だから、圧倒的に少ない証言を信じる者は多くはない。
かといって伝説に恐れおののき期待に胸を膨らましていれば、蓋を開けてみればその姿はただの子供。ちんまりと小さな身長、人間の歳で考えれば15、16歳のような少女の体を持つ。とても語られた物語に出てくるような、凶悪な存在には見えない。
(気になる点は多々あるが…今まで問題は起こってないしな…)
少しだけ不可解な点があるとすれば、魔王は薄いピンクのワンピースのような物を着ているという事。今現状ではそれらしき物が見えていないが、普段は服の下に腰、胸、肩、腕、足……と、全身のいたるところに黒色の、何か鉄のようなものを武装している。
上着を脱いだ時の姿は、似合わないせいか鎧をまとったなんちゃって兵士にしか見えない。武人の中には魔法の込められた鎧、魔装ならぬ鎧を纏う者もいるにはいるが。
(しかし武装装飾…とも違う。あの格好の鎧では隠せるような物は無いし、本当に見た目通りの、ただの不格好な鎧にしか見えない)
ある日俺はその武装が不恰好過ぎると思い、みっともないからと、あの手この手で脱がせようとしたのだが、脱がせずに断念した事がある。
何でも魔王の話によると、その武装の肌に面する内側には陣か描かれており、そう易々と外すことができないのだという。
(じゃあ何でそんなもの付けてんだよって言っても何も答えてくれなかったし…何となく一種の何か特異な呪術にも感じるが、ここは下手に触れないのが得策だろう)
触らぬ神に祟りなしだ。
しかし魔王と呼ばれているにも関わらず本当に見てくれは人間そのものだ。別に角とかが生えているわけでもない。服と同じ桃色の髪をゆらゆらと揺らして歩き回る姿は、ただの元気な女の子そのもの。
と、不意に魔王の茶色の瞳が俺を捕らえ、先ほどのやり取りは無かったような振る舞いで無防備に笑う。
「さっきから人の顔をまじまじと見てるけど…やっぱり私の顔に何か付いてるの~? ッハ! もしかして落書きでもしたとか…!」
「え? いや別に…落書きとかガキじゃあるまいし…」
「ふぅ~ん? でも優くん子供っぽいよね」
「お前だけには言われたくねえ」
実は一つだけ困っている事がある。それはいつも魔王相手になると、やりにくくてうまく集中が出来ないという難点だ。
なぜなら――
(…はぁ…いくらなんでも…好きになる相手を間違えてるだろ…)
――どうしたことか、俺は魔王を好きになってしまっていた。
それは恋愛として。人が人を好きになる様に。歳はもう17歳、もうすぐで18歳になる。芽生えた恋愛感情あと性欲。俺もこの世では年頃の男の子であり至極当然な現象。18歳となればもういい年頃扱いだ。そうなるのも仕方が無い。
欲求を駆り立てるかのように魔王は異様に美しく、そして可愛い顔立ちをしている。性格は色々とアレな点はあるものの、黙っていれば普通に可愛い、黙っていれば。
そんな魔王という名の、別の視点から見たら女の子に好意を抱かれて平常心を保つ方が普通なら異様とも言える。
ただ難点なのが、そもそも魔王を異性で捉えていいのか分からないのだ。ただ女の子相手に、どう接すればいいのか等の本人である俺は分かっていない。
別に俺は全くモテなかったという訳では無い。
勇者として目指している間、俺は恋愛でチヤホヤしている連中を無視し、日々訓練に明け暮れていた。同じ歳の女の子に何度か誘いを受けても、全ての誘いを俺は断っていった。
それがデートの誘いでも、告白だったしても。俺は全く動じる事なく断っていく。そのときの俺は、同じ年の女性と付き合ってもいいのか、悩んだ末に結論が最後まで決まず、答えを導き出せなかったためである。
そのためいつも男と共に2年を過ごしていた。練習相手が必要だったためだ。様々な人を相手に、非弱な身体と精神を持つ自分を鍛えようとしていた。
そして、その結果どうなったか。
俺は晴れて勇者になった。
そしてついでにホモ疑惑が浮上した。
(そんな訳ねえだろバカヤロウ!!!)
それからの生活は、地獄の行く末を極める事となる。何故か周りからヒソヒソと陰口を言われ、偽りの情報を鵜呑みにした連中にからかわれ、男は恐怖し、力量よりも俺というホモ的存在自体に恐れ逃げ出し、女の子達もまた気味悪がった。
(なにこの仕打ち? それともそういったプレイだったとか?)
俺も立派な男性だ。異性に興味を持ちまくりだ。普通のただの一般男子として。女の子に異性として興味を持っている。
しかしそれを我慢し必死に堪える事で、目的のために努力して遂に勇者になったのに。
その代償としてモテるどころか逃げられる始末である。
血反吐吐きそうだよ。
そんな心身ボロボロの最中に惚れられたのが魔王。傷ついた俺はその魔王の好意に影響を受け、勘違いで好きだと思っているだけ……
…いや、好きなのだ。
何処までが本気で何処まで好きなのかハッキリとは言えないが、それでも好意を持って好きだとは言える。そう心の中で断言する。
そしてそれが異常事態だというべきことと言える。これは勇者としては異例の問題でしかない。
俺が魔王を好きだということを魔王本人は知ってはいない。伝えていないから。
(冗談ついでに彼女って手紙には書いたが…自らが魔王を彼女だと呼んだことないし、ていうか呼べるわけがない。魔王に手紙を読まれた際は、平然のように清ました顔をしていたものの、実は内心もの凄く焦ったくらいだ)
フーと息を漏らす。
もし好きだという事実が発覚してしまえば後戻りは許されない。それを覚悟して俺は魔王と一緒に暮らしている。目的が達成できていないことも事実。
何があっても世間に魔王の存在がばれて露見してしまう事。それは唯一最悪の事態であって避けなくてはならない。
ばれて後に起こりうるであろう出来事を連想し、また冷や汗を掻く。
「まあ、そこまで構えずとも普通に考えてばれないか」
垂れてきた汗を拭う。何を一人で緊張しているのやら、誰も魔王の正体を知らないのなら、言わなければばれることない。
「つまりは、普通に平穏な暮らしを続けていれば未来永劫ばれるという未来はやってこないということ…呼び出しは俺単体で片づけるし、訪問者も離れに暮らしているおかげで少ないし…」
と、さっきから魔王の視線を感じる。少しだけ視線を向けてみることにした。
「ねえ優くん、私いいこと思いついちゃったんだけど!」
「…ん、何だ魔王、いいことってのは」
予想通り、魔王が突然笑顔で俺に話し掛ける。
「今の現状をひっくり返すような奇想天外なアイデアだよー」
目の前で人が考え事をしていたというのに、全くこいつは場を読めないKYという言葉が似合う。それこそKYという事ばはまさに魔王に対して作られたものなのではないのだろうか。
いつもいつもこっちが真剣に考え事をしているというのに、何故場を読まずこうも普通に話しかけられるのか。無神経というか図々しいというか。
「…なに?」
俺は魔王の元気のいい声に不吉な予感がしていた。なにせ俺にとって笑顔で話す魔王が、これまでに良いと思った行動をした記憶がまるでない。
(まあ今のところ、笑顔だろうがなんだろうが、良いと思える記憶すらないのだが…)
まあ魔王のことだ、どうせまたロクなことをいうんだろうな。そんな風に魔王の襲い掛る発言を気楽に身構える。
「勇者辞めちゃえ!」
そして魔王は、とても可愛らしい笑顔でとんでもないこと言う。凄い奴だよ。今までの努力や目標、そして決意を見計らったかのようかに砕きに掛るなんてな。
予想外の爆弾発言。それを優は軽く受け止めるはずだったのだが、あまりに衝撃的に受け止めきれず倒れかける。
「辞ないよ?! 何言ってるのお前!」
「いいじゃん別にー、ちょっとでいいから。ね、お願い!」
「欲しい物をねだるような感覚で言うんじゃねえ!」
俺はぐんと体を起して魔王を一喝する。今ここで勇者を止めるという事は即ち、今までの人生を棒に振れということだ。
「第一辞めたから何だっていうの!?」
「辞めたら結婚できるよ」
「結婚の前にまず俺の意思の確認は!? 辞めた後にいきなり結婚一直線とか飛躍し過ぎてこえーよ!!」
「愛さえあれば関係ないじゃない」
「その一方的な愛をどうにかならない!?」
「じゃあ結婚しよ」
「じゃあってなんだよ!! つうか辞める前提で話進めようとするんじゃねえよ!? 辞めないからね!?」
唇を横に突き出し「っちぃえー」といかにもな言葉が聞こえそうな顔をする魔王。
「じゃあいいよ、勇者辞めないでいいから」
「なんだよ、だったら初めから変な事言うんじゃ」
「取りあえず結婚しよ」
「何この全く嬉しくない猛烈アピール、愛がおもてぇよ」
年中発情期もとい魔王はムッとした顔になる。
「意気地なし! 勇者だろうとなんだろうと関係ないじゃない!」
「いやいや大有りだろうが!?」
「大丈夫よ! 誰が何とおうと私達の愛は引きはがせないんだから! だってそれほどに私達の愛は強い! そして美しい!!」
「………」
愛とは、魔王の定義では人の人生を自分の好き勝手に替えることを差すらしい。それとも愛を強要することが愛と呼ばれるようだ。
差し詰めそれを何と言ったか。えっと、確かヤンデレ?
愛って……深いんだな。と俺は驚愕と共に嘆息を漏らす。
「たとえどんな人が現れようとも、そそのかされようとも少しも揺るがない!でもそんな私達には敵が多く、多々の困難が待ち受ける!けれどもどんな壁が立ちはだかろうとも、私達の愛の前には決して遮れるものは存在しないのだから!そして…・…・…」
「………」
そしてその愛の深さゆえか、魔王は此方の事など気にも収めず、自分の世界に入り始める。もはや此方のことなど眼中に入ってはいない。
そのため、俺は物語を勝手に始めた魔王を取りあえず無視する。
「はぁあああ優くんはぁんはぁん!!」
「ちょっと人の名前呼ぶのやめてくんない!?」
一部無視できずに突っ込みを入れるも、こうしている間も魔王の話はヒートアップする。
勝手に熱く話を語っている魔王は、ただいま現在進行形で、目の前の壁に向かって熱く語る伝説の魔王が実在していた。
全ての勇者が恐れ、そして奮起させた。伝説と呼ばれていた魔王が俺の目の前で、今まさに人類初の壁と友達になろうとしている。
「……うん、見なかったことにしよう」
魔王を無視して、俺は床に散らばした紙くずを拾い集めることにした。
「…さて、どうしたもんかね」
無限にも続くと思える廊下にその後の行動を考える。
当時は勇者の俺の為に使える使用人が勤めていたが、今はもういない。
理由としては魔王をこの城に置いてからすぐのこと。魔王の正体が知られたから、という訳では無い。むしろその逆。
俺が住人を匿っているという理由で下手な誤魔化しを通していても、特別怪しまれずに基本的には済むだろうが、その内にはボロが出る。主の言う事は絶対的な力を持っているとはいえ、しかしそれでも魔王の格好は異質過ぎる。
その為、魔王を匿うことになってから使用人全員は移転してもらった。
そのせいか、ロクに家事の出来ない二人が取り残された訳であって。
「掃除って…何でこんなにもめんどくさいんだろうか」
重たい腰を持ち上げて、また座り込む。
本音から言えば魔王のせいで当分誰も雇えない。長い間片付けをしていない部屋は汚い、相当散らかっている。全てはあの日、使用人を解雇してから放置のままだ。
「後でって気持ちがどうしても強いんだもんなあ」
ゴミを纏めたまま、捨てていない袋が無残にも散乱している。同様に放置したままだ。
「何てぐだぐだいってもしゃーねーか…いい加減ゴミ袋でもださないと…な」
適当にその辺のゴミをまとめて締め上げる。そのついでにゴミ箱もついでに覗いてみる。足でこれでもかというほどに、今まで踏んで詰めに詰めたゴミが見える。
あまりの詰め込みすぎに、四角形だったゴミ箱が今では饅頭のように膨らんで丸まっている。
大量の一部のゴミが服である。当時はすぐ服をボロボロにしてしまっていたが、今では滅多に取替えていない。その為かゴミ箱に詰め込みまくっていたのを忘れていた。
「や、やべえ…今にもゴミ箱がはちきれて壊れそうだ…。こっちも加減捨てよう。とはいってもゴミ袋どこにやったっけか? 自分の服なら簡単に分かるのに……不憫だ」
この服装は、常に白と蒼で彩られている服を着ている。勇者に渡される服には、襟が長く、白色が必ず混じったものを支給されている。理由としては清く正しき汚れ無き心の象徴とかなんとか。
一言でまとめ上げると、着心地の良さがネックだ。
俺の服の場合は白と蒼。実際に異なる勇者を見たことがないため、それぞれの勇者がどのような衣装を纏っているのかは分かってはいない。同じ蒼なのか違う色の紅なのか、はたまた黒色か。勇者によって色が異なるとのこと。
手当たり次第に机の引き出しを調べてみる。そんな袋をよほど変わった趣味の持ち主や必要としていない限り、当然都合よく置いているはずもなく、一向に見つからないでいる。
「あっれー、全然使わないから、どこにやったのか覚えてないなぁ…。」
一度部屋を戻り再び探索を心みる。壁に向かってひたすら話す魔王を放って置き台所に向かう。
魔王と一緒に住んでからは、この城は魔王と優の二人しか住んでいない。当然、使用人が減れば、無駄にでかすぎる調理場は使わなくなっている。今では、大体は個室にある小さい台所で調理をして済ませている。
別に掃除が嫌いっというわけでもない、魔王も特別嫌いというわけではないのだが。
「嫌いじゃないだけで時間と手間が…それに魔王の場合だと超がつく不器用だしな」
城があまりにも広すぎるのだ。いくら掃除しても、その一行に終わりが見えない城の広さに俺と魔王は掃除をすること自体を諦めてしまっている。
勇者になったばかりの頃は忙しく、殆どが役人が料理やら掃除やらを任せている。その為殆どの場所に何があるのか一切分かっていない。
「…今のとこ使い道ないからしょうもないんだけどね」
俺は台所に着くと、周りをザッと見回す。すると床に切れ目が入っていて、持ち上げられるようになっていることに気づく。
「…そーいえば、確か前の雇い人がたまにここら辺の床を持ち上げていたよな…お、あったあった」
足元にある床を持ち上げるとそこにはゴミ袋が置いてある。それ以外にも何やら見覚えのない非常食としての缶詰が敷き詰められている。
「…あ、こんなとこにあったんだ…」
俺の知らない物…こんなもの何時の間に…。
(今まで非常食の存在さえ知らなかった…)
「まあ、困ったときのためのだし、今丁度見つけたからいいか!」
試しに取り出して見ると、果物、野菜、麺類、粉牛乳、クッキーなど種類が豊富にある。
「へえ…以外に種類あるもんだな、試しに一個どんなもんか食ってみるか」
果物の中で『リンゴ』『ミカン』『ブドウ』『桃』と書かれている缶詰が目に入る。その中で一番気になった桃を食べることにする。
「缶きりなら多分ここに…お、ビンゴ!」
缶を開けるための缶切りは、覚えていた為引き出しを開ければすぐに見つかる。
いそいそと穴を開けて切っていく。早く食べたい衝動に駆られて自然と顔が綻ぶ。
完全に蓋が開き、そこからは新鮮な果実のとてもおいしそうな匂いが。
「っごふ」
……おいしそうな匂いなんて無かった。
匂いを嗅いだ瞬間、肺が拒絶反応を起こして空気を吐き出していた。
「…なんか…匂いが…」
まるで溝に鋭いパンチを当てられたかのような、明らかに嗅覚で感じる物とは別種の、桃のものとは微塵も思えない匂いがする。
「なんだこの何か焦げたダークマターを、何かよくないものに詰め込んだような匂い!?」
この匂いを別の何かで例えるならば、人の傷を治すはずの薬品をぶち込み、炭になった肉に蜂蜜を掛けて混ぜたような…そんな匂い。
「い、いやいや、匂いはきつくても、案外熟していて美味しいとかそんなん」
異臭とも呼べる匂いに気を取られ、缶の空け口を切っている際に持っていた缶詰を手を滑らして床に落とす。ゴトンと音が鳴り、空けた缶の隙間から液体が流れ出る。
「あー、やべ、勿体ねーし床を汚しちまっ…」
その液体からもの凄いほど強い異臭が発せられる。さっき嗅いだ匂いとは次元が違う。毒と毒を混ぜ合わせた、ただ脳裏に危険信号を送る毒のような。
「え、なにこれ」
見た目は薄透明でトロッとしていて、傍目見るととてもおいしそうだと、微かにそう感じる。
(でも匂いがむちゃくちゃやばいんだけど、食ってはいけない、そう俺の脳が危険信号ガンガンだしてんだけど、駄目だろこれ、新手に作られた兵器か何かか?)
もしもこの物体を口にしたら『死』の文字が優の脳裏で過ぎる。
食う側が捕食される的なあれ。
無言で落とした缶詰を拾い上げる。缶を回転させ詳細を確認しようとする。桃の絵があるだけで詳細が全く書いてない。それになぜか空けた隙間の場所から聞こえてはいけない部類の唸り声が漏れ出てくる。
「………」
俺は無言で手に持っている『桃?』の缶詰をそっと降ろし、他の缶詰を持ち上げる。
耳元に当ててみる、缶詰の中からはリズミカルに
『カリカリカリカリ』
『ゴソゴソゴソ』
と得体の知れない、やはり果物とは桁違いに別種の音が聞こえる。
「………」
俺は缶詰を全て元あった場所に戻し、ゴミ袋だけ取り出して閉める。
この物体を持ち込んだ犯人は多分魔王だろうと、既に犯人の大よそを特定している。
(しかしそれでも、魔王じゃないだろうさすがに。そう願いたい。魔王でも、さすがにこんな食べ物?を食しているわけがない)
「うん、無かったことにしよう」
現実逃避を澄まし終え、この台所を二度と使わないと決心した。
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「の・…・…あるからして…・…・でしょ!・…・…・」
部屋を出てからそれなりに時間は経っている。台所から戻ってきた今でも、魔王の独り言は続いていた。
「…まだ言ってたのあいつ」
まだ壁に向かって一人何かを話す。気のせいか、部屋を出た前よりも魔王の独り言は盛り上がっている。
「何をどう話をしたら盛り上がれるのあれ。一体魔王は壁の何を見てるの? 真理?」
壁に一人向かって話している魔王がなんとも悲しい姿に見えるが、俺は合えてそっとしといてあげることにした。
「…うん、ほっとこう」
魔王を無視して掃除を再開する。強烈に溜まっている丸くなったゴミ箱からゴミを取り除く。取り除いてもゴミ箱の形が変形したまま戻らない。
「なんかおもしろい形のゴミ箱になってしまったな…っと、まあとにかく折角だし溜まったゴミをまとめて片付けるか。全ての部屋とはいかなくとも、普段よく使うゴミくらいは粗方片付けできるだろうし、ついでに久々の雑巾がけとかでもするかな」
掃除機もゴミ袋と同様に、この部屋に置いてはいない。一旦部屋から出て行き、掃除機を取り出しにいく。気持ち程度に見てくれをよくなるよう、掃除機はたまに使っていたため今度はすぐに見つかった。
「つまり!用はみんなが私達の関係に納得してくれればいいんだよね!」
「…はぁ?」
掃除機を持って部屋に戻る。すると突然魔王はわけがわからないことを言う。誰かいたら、この子の解読か精神審査をお願いしたいと心の中で願った。
何がつまりと結論が出たのか、結論といわれれば、空しい感情が湧き上がる。その結果なら既に出ている。
魔王は頬を赤く染め、鼻息を荒くしている。どうして壁に一人で話していただけなのにそんなことになるのか分からないし、知りたくもないが、どうやらヒートアップしすぎで興奮状態に入っているようだ。
次にはどんな厄介事を起す気なのか、またかという諦めと不安に眉を顰め、俺はその後に起きる出来事をいつも通りに想像した。