今ならお前に勝てる気がするんだよ
優さんから大きな声が上がり、僕は何事かと視線を向けた。
「優さん…何をそんなに慌てて?」
僕の効力が続いている限りは心配するような事は何も無い。
大丈夫、結界は解かれる事もなく、ちゃんと効力は続いたままだ。
ノロノロと近づいてい来るチェックの姿を見据え、再び笛を構える。
何を考えているのかは分かりませんが…ブライトさんの身に何かあったのは確か。外傷がないのを見たところ精神干渉の類でしょうか。
ブライトさんは直でチェックの瞳を覗いていた。そうするとあまり瞳を見つめない方がいいかもしれない。
そして疑問がもう一つ。ブライトさんが切り落としたはずの腕と足が治っている。
驚異的な再生能力の持ち主…これは相当手ごわいですね。
下手をすればこの町の存亡よりも、あの人形の存在の方が危険だ。
「ッ!」
少し離れた位置にいたはずのチェックが一瞬で僕の目の前に表れる。
しかし先ほどと変わりなく噛み付いてこようとする模様。僕は往生際が悪いと音色を響かせようとした。
「…どういった意図があるのか分かりませんが……何をしたところで無駄で――ッ!?」
ブチブチと耳元で不快な音が鳴る。
「っえ?」
だらりと力なく垂れ下がった右肩を暫く呆然と見つめ、何が起きたか遅れて理解した僕は思わず悲痛の声を上げた。
「あぐぅうああああああああ!!!?」
血しぶきが上がる肩を抑え込み、足に力が入らず地面に膝をつける。
「何…が…!?」
激痛に身を悶える思いで蹲る。それでも何とか顔を起こして再び痛みの走る右肩に視線を向けると、皮膚どころか骨の一部までも大きく抉れて失われていた。
まさか…結界を破ったのかッ!?
「フィレット! 無事か!!」
「…何…とか…あ…ぐぅ……ですが…右腕はもう使い物にならないでしょう…」
優さんの反応からしても、やはりこの痛みは幻覚じゃない。
何て事だ…偶然にも笛を吹く際の動作で身体を少し反らしていたから致命傷は避けられましたが…もし気を抜いていたら今頃はあの世行きだった…。
「動けるか?」
「ええ…何とか大丈夫です…」
動きに支障はない。片手が使えなくとも笛を吹くことは可能だ。
「幸い止血をすればすぐに死ぬような怪我ではありませんが…そう長く身体が持つともいえませんね…」
時間が経てば立つほど意識は朦朧としてくる、まともに動けるのは十分くらいかもしれない。
「…ックソ! 早く気が付くべきだった!」
くちくちと頬を膨らませて口の中をせわしなく動かしていたチェックは、大きな喉音を立てて飲み込む。
「きひ…運のいい」
「しかし…どうやって休戦協定を…」
休戦協定の効力は僕が解かなければ、やろうと思えば半永久的に効果を持続させる事が出来る。
「一部の例外によって強制的に解かれてしまう場合もありますが…それでももし解かれてしまっていたのなら、本来は魔法が中断させられた時に繋がっていた糸のようなものが途切れる感覚が伝わってきます…っうぐ! …でも、そんな感じは全くなかった!」
噛まれたと認識するまで全く気がつくことが出来なかった。理由は分からないけれど、感じる事もなく効力が解かれている。
「きひひ、これから死ぬっていうのに知ってどうする?」
僕に向かって再び近寄って来るチェックだったが、それよりも先に優さんが僕を抱きかえる。
「しっかり掴まってろ!!」
後ろに大きく飛んで距離を取るが、やはりどんなに距離をとっても一瞬で追いついてきてしまう。
「先程、優さんはチェックについて何かに気が付いていたようですが、あれは何ですか? 魔法無効…ではないですよね?」
「ああ…そいつは魔法を壊しても、無力化した訳でもない。魔法そのものの時間を操ったんだ」
「魔法を…操る? それはどういう…」
「そのまんまの意味だ、魔法を発動される前の状態にまで遡ったんだろう。奴の身体が元通りなのもそのせいだ」
「そ、そんなまさか…ありえません!!」
「俺もありえないと思ったよ…だけどそうとしか考えられないんだ」
「で、では…ほ、本当にそんな事が可能だと…」
「ああ、その可能性が一番高いだろうな……そうだろチェック!!」
そういって、優さんはチェックを睨みつける。
「きひ、その通りだよ。僕自身に掛かけられた魔法を…掛けられる前に状態に戻したんだ。切られた腕だって時間を…戻せば元通りにできる」
「そ、そんなデタラメな…それではどうやって倒せばいいのか…」
「デタラメだが…そんな力を乱用しているんだ、いずれ底は付くはずだ。それに戻せるといっても不完全だろう。その証拠に奴の動きはぎこちない、口調も変なままだしな」
「きひ、だとしてそれがなんだ…君たちじゃ僕には勝てないよ…まだまだ魂の残数は残っているから…ね」
魂という事は、あの力は喰ったものの命を媒体にしているという事なのか。
「魂を源に魔法を…しかしそんなに魔法を乱用していて、どうして底を尽きない…ッ!」
「きひ、僕はねえ、魔法によって生まれた存在だから…取り入れたものなら全部魔法に変換できるんだよ…」
レロレロと唇に付いた血を舐めとるチェックの姿に、背筋に悪寒が走る。
「血か…」
「そ、生き物は必ず…大気に充満する源を体内に取り入れ、血液に巡らせているからね…きひひ、濃くていいよぉ…君のはその中でも特別に濃い」
「…おいチェック、もし本当に血を取り入れる事で力を増幅させられるというのならば、どうしてブライトには手を出さなかった」
「んー? ああ…あそこに転がってるおっさん…の事? 喰おうにも余計な紛い物が身体を…蝕んでるから下手に手を出したくない…それだけさ」
「フィレットの時とは違って、随分と俺の質問には惜しみなく答えてくれるんだな」
「きひ、僕は君の事が気に入っている…からね、殺すのは最後にしてあげようと思ってるんだ」
「じゃあその気に入られついでに聞くが……ブライトは殺さないんだな」
「優さん…何を言って!?」
「考えても見ろ…奴の力が本当に命や血が必要だっていうんなら、ブライトが近づいた時に喰っていたはずだろ。でもそれをしないって事は何か裏があるとは思わないか」
言われてみれば…でもそうなるとブライトさんを襲わなかった理由って一体…。
「きひ、まさか…特別深い理由なんてないさ。ただ深く関わりたくないだけ…禁術は所謂ところの…呪いだから」
「…どうしてブライトが禁術を使えると? 教えたつもりはないが」
「分かるよ、僕という存在そのものが禁術みたいなものだから…ね、まあ一目見ただけで自由に意思を奪えるのなんて…普通に考えても並みの魔法じゃ…できっこないもの」
「……お前、禁術かどうか見れば分かるのか?」
「ん? だからそう言ったよね?」
「…ならどうして俺を殺そうとする?」
「…どういう事だい?」
「お前には俺がどう見えている?」
疑問に思うのも仕方がない。だって優さんは少し前にブライトさんからその力は禁術によるものだと告げられたばかりなのだから。
「答えろチェック! お前には俺がどう見えて…」
「……何も?」
「…は?」
「何も見えない、真っ白だ。少なくとも…禁術じゃない。それとは全く別の何かだね…ハッキリ言って君程に美味しそうな人間は…見たことがないよ」
「そうか…」
優さんは人間という言葉に僅かな反応を見せるも、それ以上に聞こうとはしなかった。
「きひ、それで質問は終わりかい?」
「ああ、ありがとうよ。おかげ様で気分が吹っ切れたわ」
ブライトさんと少女、そして僕を含めた三人の身体が突如として宙に浮いていく。
「流石のお前でも、宙に浮いている人間を相手にはできないみたいだからな。悪いが安全な場所に待機させてもらうぞ」
「…きひ、そう思うならどうして最初から…そうしなかった?」
「さぁ…俺もよくこの力が分かって無くてな、思ったように力を扱えていないんだ」
「何を思ったか知らないけど……残念だけど、君では僕には勝てないよ」
「…ああ、そうだな。俺も勝てるとは正直思っていなかった……でもどうしてだろうな、今ならお前に勝てる気がするんだよ」
どういう訳かさっきまで感じていた激しい痛みが和らいでいく。
え、あれ…。
不思議に思った僕は視線を傷の負った右肩へと向けた。驚くべきことに、傷が最初から無かったかのように綺麗に治っている。
これは…一体…ッ?!
それについて僕が問いかける間はなく、激しい突風が優さんの周りに巻き起こる。
「全力で掛かって来い」
「俺の全てをもって、お前の全てを捻じ伏せる!」