ただ一言だけでも伝えたくて
どうして今更になって、同情したのだろうか。何度も諦めかけた、諦めて死のうとすら思った。それだけ追い詰めてきたような相手を?
口元が吊り上がっていく。無意識に失笑が漏れていた、乾いた呆れた笑い声。
ありえない。彼女が一体どんな人生を歩んだなんて知らないけれど、それがどれだけ歪んだ景色を見せていたのだとしても、更に歪めたのは彼女自身が招いた業。どんな結末が待ち受けていたとしても黙って受け入れるしない、それが償いだ。
それを、一瞬でも私は可哀想だなんて思ったとでもいうのだろうか。だとすれば彼に対して忠告を発して置きながら、そんな私はまさに偽善者そのものだ。
頭痛がする。吐き気がする。悪魔に情を移すのは善意ではない、もはや悪意だ。
自分自身でも分からない程に、私という存在に狂いが生じてしまっていたのかもしれない。もしかしたら心の内で常に思っていた事を、今更になってハッキリと自覚したという事か。
でもそれが何だというの。思い出したからどうだというの。やっと自由になれたのに、今度は私の感情を蝕むか、邪魔をするというのか。いつまで私に付きまとえば気が済むの。
知っている事なんて無い。教えられる事なんて一つもない。そういう関係だったから、そういう立場だったから。何かを教えられるなんてありえない、秘密を知る機会なんてやってこない。
「知らないわ…そんな事…」
私が覚えている限り、唯一気を許した瞬間なんてただ一瞬、表情が僅かに緩んだ時だけ。何か口走ったり、明らかなミスを目の当たりにした事なんて一度もなかった。
だからこれまで苦しんでいた。操られているから自覚なく隠し事の全てを打ち明けられていたというのに。
「知っていたら、初めから苦労なんてしなかった…ッ!」
枷が取れた反動のように、まるで赤子のように思った感情を吐き散らす。
私らしくありのままに、偽るのは止めた、嘘をつくのは止めたのだ。
「しょうがないじゃない…ッ! どうしようもなかったんだから! 助けを求めるだけで精一杯だったんだから…ッ!!」
魔王が何かを発するよりも先に愚痴を溢す。吐き出すだけ吐き出していく。
力があっても振るえなかったら意味がない。意思を貫こうにも人質が取られていては術が無い。たった一人で彼女の行動を探る余裕があったなら、今更立ち止まったりなんてしていない。
「立ち止まり続けるしかなかった…戻る事も進む事も出来なくて、ただただ大きな切っ掛けが起きるのを待ち望んでいた…!! そうする他なかった!!」
何時からか、私は彼女と出会ってからというものの身の回りは色あせていき、そして遂には全ての景色が灰色に染まった。
けれども、そんな灰色の世界に染まる前の僅かな一時に、彼女はほんの僅かだけ私に気を許していたのを今になって思い出した。
「え…あれ?」
唐突に浮かび上がった断片は、どうも私は記憶の片隅で薄っすらと覚えていたらしい。
「…『久美嬢 サリナ』」
思い出した記憶をそのまま呟いた。納得できるように、何度も何度も呟いて言い聞かせるよう思い出す。
そうだった。あの瞬間だけは、自己紹介を告げたその時だけは、サリナはとても優しく微笑んでいた。
最初の出会ったばかりの頃は、天才だと自信を語る姿はあんなにも明るかったというのに。
今思えば、本当の意味でサリナを壊したのは私だったのかもしれない。罪の意識から逃げる為に都合のいいように忘れて、遂に本人が居なくなったという罪悪感から、だから今になって思い出したんじゃないか。
あれだけ虚ろな壊れかけの笑顔を目にして、なのに助けるどころか見放した。
「あ…あぁ……!」
目じりが熱く込み上げる。どうしてだろう、どうしてほんの僅かな間でしか仲の良くなかった相手だったというのに、こんなにも辛い涙が流れてしまうのだろう。
何で今ではあんなにも憎しみしか抱いていなかった相手に、こんなにも悲しいという感情が湧き上がってくるんだろう。
私の思いとは裏腹に、抱いた些細な疑問は大粒の涙となってポロポロと零れ落ちる。拭っても拭っても後から後から溢れ出してきてしまう。
止めたいのに止まらない。これ以上思い出したくないのに、まるで記憶が私の中に流れ込んでくる。こんな情報なんて要らないのに、役になんて立つはずがないのに。
「……ッ!?」
突然身体の奥底から熱が伝わり、何かが脈を打ち付けた。するともう操られてもいないはずなのに自然と身体が動く。
それなのに何処からか懐かしさを感じ、柚依はそのまま導かれるようにゆっくりと腕を持ち上げると、人差し指で正面を指さした。
その様子に魔王は怪訝な顔で指の差された方角を見つめるも、先ほどから目の前にあるのは壁のみ。再度確認を取るように振り返って指の向きを眺め、若干上向きに向いている事からそれが地下ではなく地上を指さしているという事に気が付く。
「……魔法陣はもっと地中深くに埋め込まれているように感じるのだけれども…もしかして何か分かったの?」
「ごめんなさい、自分でも分からないの…けれどもどうしてか…ううん、そんな気がするの」
確信も無い、確証も無い。なのに知っている…どうしてなの。気味が悪い程にサリナの記憶や想いが流れ込んでくる。
「…ど、どうしたの柚依ちゃん…さっきから様子が変だけど…」
「え、あ、いえ…何でもないわ…それよりも早く…魔法を何とかしないと…ッ!!?」
そういって立ち上がった瞬間、激しい痛みが全身を襲った。
身体中が痛む、関節が軋む、一歩動く度に悲鳴を上げる。それでも歯を食いしばって、見っともなく足を引きずって歩を進める。
今はひたすら動くしかない。こんなボロボロの身体で出来るのは、目的に向かって我武者羅になって歩く事しかできないから。
「あ…ぐぅッ!!」
「柚依ちゃ…ッ! ッツゥ!」
痛い、猛烈に痛い、激しく痛い。何も考えられないくらい、ただ痛みが意識を支配していく。
それでも私は泣きながら歩き続けた。何も考えられなくなるくらいの方が、今はよっぽど落ち着いていられるから。
痛みが、苦しみが、悲しみが、嬉しさが、その何もかもがごちゃごちゃに掻き乱されて、ぐちゃぐちゃに混ぜ合わせられて。
「もう…やめて…ッ!」
悲痛に頭を抱えて声を上げる。それでもハッキリと理解したくないのに自覚してしまう。今になって後悔しているんだと。
そんな自分が嫌で、嫌で嫌でしょうがなくて逃げ出すように痛みで気を紛らわそうとする。
「どうして…どうしてサリナは…最後まで私の事を掻き乱すの…ッ!!」
許さない、許し合えない。それでも、そんな憎しみ合う仲だとしても、ただ一言だけでも伝えたかったんだ。
貴方が壊れてしまうその前に、貴方が壊れてしまったその後に。
「ごめんって、それだけでもって…」
ただ一言謝る事も出来なかった臆病者だから、だから心の奥底で分かっていたから逆らえなかったんじゃないかって。
全ては私の弱さが招いた、愚か者って事に気がつかなかっただけの話ということに。
「柚依ちゃん…それ…何処で覚えたの…?」
「…え?」
瞳を大きく見開いたまま、酷く驚いた様子で声音を高くした魔王に釣られて自分の身体に視線を送る。
それなのに、一体これは何なのだろう。
「…なに…これ…」
そこには淡い光が全身を包んでいる姿があった。どうやら光には治癒能力があるらしく身体中の痛みが和らいでいく。切り傷が、打撲によって出来た炎症が段々と癒されていく。
誰がこんな事をしているのかと周囲を見回すが、当然私と魔王を覗いて他の人の姿は無い。
そして当然ながら魔王でもない。本人が魔法を行っておいて驚いた様子のまま硬直状態するとは、あまりにも間抜けな話過ぎて到底思えないし、となれば彼女がこんなことをするはずもない。
しかし私自身も何をした訳でもないというのに、傷はどんどんと治っていって。
「そんな…まさか?」
ありえるはずがないと分かっていても、私は瞳から涙が零れ落ちるのを止めることはできなかった。




