馬鹿
俺は間違いを犯していないとは思っていない。人間なんてものは感情に左右されるもの。面白いと思えば其方を選びたい、楽しいと感じればずっとそうでありたいと願う。俺にだってそれくらいの感情は持っている。人間だから。
機械でも化け物でもない、それは人間としてあり続けるように。
「フィレット、周囲の見張りを頼んでもいいか」
「分かりました」
それだけ言うと、ブライトは付け直した眼帯を再び外す。罪深き、その欲深きその瞳が少女の瞳を覗き込む。深く、深く少女の中へと潜り込むように。
反対側から見えた少女の顔に、ブライトは彼女に向けて呟いた。
「…すまない」
機械ではない、化け物でもない。それでありながらも、そのどちらかに似せるよう紛い物は感情を押し殺す。情が無いのではない、ただひたすらに情を押し殺して。
だからこそ、気を許す事が出来るのは口を割らぬ死者への弔い。ただただ愚かな愚者への許しを乞うように謝るだけ。
でもそれは許されようとではなく、勝手な哀れみと自己嫌悪。憎まれ役を演じながらも悔やみはしない、立ち止まる事は出来ない。
「…悪いが少し覗かせて貰うぞ」
そういって、ブライトは片目に全神経を傾けた。感覚の全てを傾け続ける事で少しづつ、しかし確実に意識を相手の中に潜り込ませていく。
何もない空虚な世界。真っ暗で何も見えない暗闇の中、段々と明るい光が差し込んでいく。見る事で感じ取る。
「……フィレット」
ほんの数秒。意識を戻したブライトは隣に居るフィレットに呼びかける。
対するフィレットは顔を向けたまま返事をしない。ブライトの発する声に力がこもっていなかったから。出会ってそれ程長くはない仲、それであって信頼というものは深くない。浅い仲、一つの些細な切っ掛けがあれば崩れさるような。
しかし今は敵ではないから隙は見せる、利点はないから襲わないし襲われない。十分に互いが理解しているからこそ、利点があった場合の万が一を備えて弱みは見せない。
そういう環境に長く浸っていた、だからこそ他人の感情に疎く敏感である。
黙ったまま瞳を細めて遠くを見据える。
しかし今、確かにブライトは素の感情を、ブライトもまた人であるように弱みを露わにしていた。
動揺を隠せない。焦燥してしまう。それくらいの何か。
「…緊急事態だ」
そういって、ブライトは額に脂汗を滲ませると奥歯を強く噛みしめる。
「この町、消し飛ぶぞ」
・…・…・
膨大な法力の流れ。全体に一本一本繋がれた地脈。全てが均等に送られ、夥しい模様が辺りを埋め尽くす。
その光景を眺めたまま、魔王はため息交じりに呟いた。
「…どんだけしぶといのよアイツ…」
あたかもまるで、何も無かった場所から表れるように見える陣。秒が経つ事に増えていく魔法の反応。
先ほど感じ取った悪寒の正体はこれか。
「流石、町の法力全てを内に秘めていただけの事はあるわね」
数千の法力を持ち得ながらも、あまりにも彼女から感じられた法力は少なすぎていた。
恐らくは掌握による消耗、人体の維持、常時支払われ続ける対価による影響なのだろうかと。
それにしても少なすぎていた、理解していながら気が付けなかった。
「攻撃は最大の防御っていうけれども…その逆。こういう時は防御は最大の攻撃とでも言うのかな」
肌に常に感じ取れる程に強力な、町全体を飲み込む防御結界が張られていたのだから。
まさか、最大の脅威と言える防御の、その下にもう一つの超級魔法が仕掛けられていると誰が予想できるか。普通ならば想像するはずもない。
「どうしてすぐに気が付けなかったのかなぁ…」
戦う前から彼女の性質、二重構造による設置型魔法を何度か目にしていたはずなのに。油断していたといえばそれまで。
最後の最後、仕留める瞬間に僅かに逃げられたような感覚はあった。けれどももうほっといていい程に弱弱しく、大半の法力は喰われていたはずだった。
「精々極小魔法を数発か、命をこの世に繋ぎ止める程度しか力は残っていなかったはず…ここまで強力な魔法を起動できるはずが無い…」
概ねの力は定着させてあるものの、起動させるにしても常人にはとても扱えない程の膨大な力が必要となる。
となると、少なくとも彼女の意思とは別の勢力がこの魔法を起動させた事になる。
「…何処のどいつなのよ全く…最後まで私に腹を立たせてくれるじゃないの…ッ!」
そういって立ち上がろうにも、足元が震えてしまいバランスを崩して床に向かって倒れ込んでしまう。
まだ、力を使い過ぎた事による反動が抜けきっていない。手元が小刻みに震え、少し動いただけでも脂汗がじっとりと浮かび上がる。
「っく…満足に動けるまでは当分時間がかかりそうね…」
とはいえ、焦らずとも魔法の発動まで恐らくは大分時間の猶予はある。
彼女の歪んだ性格上からして防御結界もあるくらいだ。来る時、最後の最後で防御結界を発動させる事で町の中に閉じ込めさせ、絶望に表情を歪ませてゆく人々を暫く眺めながら、悠々とその場を後にするに違いない。
それも自分が飽きるまで。クスクスと笑い馬鹿にしながら。
そう思わせる程に非道な行いを、そうするまでに歪んでいながら。
「きっと、最初で最後の傑作…そう思っていたのかな」
あれだけ歪んだ性格を露わにしておきながらも、最後まで彼女は陣を起動させようとはしていなかった。
出し惜しみしていたのか、使う前に法力を喰われてしまったからか。それともそのどちらでもなく…。
「馬鹿ね…最後の最後でそんなの…演じるなら最後まで貫きなさいよ…そんなんじゃアナタ、悪人失格よ…」
瞼を閉じる。すると喰った時に流れ込んできてしまった彼女の記憶、そして感情を思い出す。
別に許す訳ではない。それだけ彼女は非道な道を歩んでいたのだから。それくらいに彼女の心は壊れ、歪んでいってしまったのだから。
ただ、少しでも彼女の気持ちに気が付ける人が一人でもいれば。
もし、生まれ落ちる場所がここでは無かったのなら。
彼女は名を上げて、優しい頃の父親と共に笑って過ごせていたのかなと。
「……馬鹿…ね」
最後まで認めてもらえず、泣きじゃくりながらその手を真っ赤に染めていく彼女に。
魔王は憐れむのではなく、同情するのでもなく。
ただ遠くを見据えて、今にも泣き出しそうな程に顔を歪めて、誰かに向けて訴えかけた。