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その二十 残響(3)

 父とは次の日の朝、やっと状況を説明することができた。昨夜は上総がさっさと床についてしまったので、父も好奇心を押さえるしかなかったのだろう。朝食のテーブルで根掘り葉掘り聞かれてもしかたあるまい。

「結局、お前が弾いたのは課題曲だけか」

「そう、棒のように弾いたよ。間違えはしなかった」

 食パンにバターを塗りゆで卵とセットでかじる。父も自分でコーヒーを淹れながら、

「だが、災難だったな。そのお嬢さんも災難だったが、何はともあれ無事でよかった。その、指揮者の友だちが背負って病院に連れて行ったのか」

「友だちは保健室まで。実際は車で運んだはずだけど」

「だが今度はお前が久々に指揮者か。覚えてたのか? ぶっつけで」

「一時間、ピアノ担当の人と打ち合わせたからなんとかなったけどさ」

 詳しく、とはいえあえて触れない部分もある。聞かれたところだけ無難に交わした。

 どうせ日曜の午前中は例によって印條先生のもとへお礼を含めて挨拶に行かねばなるまい。しかも野々村先生がお待ちかねときたら、詳細がばれないわけがない。野々村先生は父と語りたくてしかたないようなので、上総がばたばたしていたところも全部伝えてくれるだろう。こちらからは説明する必要なしだ。

「まあ、お前には指揮者の方が想像つくがな。とりあえずこれ以上へましでかさなくてよかったよかった。ところで、キーボード貸してくれた友だちには何かお礼するのか?」

「一応、本人の家に送る時、何かクッキーとか詰めて贈ろうと思ってる」

 こずえ宅に運ぶのも正直骨なので、許可が出たら直接自宅から発送するつもりでいる。こずえにはその他ピアノを弾かせてもらったりその他精神的にもいろいろと世話になったので、自分の知る限り豪華な菓子折りを選ぶつもりだ。家族三人で食べきれないくらい送ってもいいくらいだと思う。

「それがいい。それと、その、あの先生とは」

「日曜に、印條先生のお宅でお会いしましょうとか言ってたよ」

 さらっと事実だけ述べる。父はそれ以上何も言わず、コーヒーを勢いよく飲み干し出勤していった。

 

 朝肌寒いところはあるものの、羽織るものは必要ない。ブレザーが一番心地よい。

 早めに家を出たのは、なかなか一対一で話を進めづらい友だちを捕まえる必要性を感じたからだった。たとえば羽飛、たとえば美里、たとえばこずえ、たとえば南雲などなど早朝でないと別の友だちに取り込まれてしまう奴が圧倒的に多い。上総がその他大勢である以上先手を打つしかない。

 学校に到着し、すぐに生徒玄関前のロビーで待機する。

 只今の時刻、七時五十分。

 

「立村、あんた早いねえ」

 読みは当たった。一番事情を聞きたい相手が玄関に現れた時、上総は手を上げて合図をした。こずえが靴を履き替えてすぐに近づいてくる。今日は土曜なので荷物も少なめだ。

「古川さんに会いたかったんだ。待ってた」

「これが羽飛に言われてればねえ」

「悪かったな」

 相変わらずの軽口で挨拶を交わし、まずはロビーのベンチに腰掛けた。

「古川さんも今日は急ぎの用事があったのかなとか思ったんだ」

「まあね。例のことで後処理いろいろあるしね」

 こずえはため息をつきながら両手を組みため息をついた。それほど気にはならなかったのだがこうやって合唱コンクール後の様子と見比べてみると、重圧も相当だったのだろう。表情が明るい。

「昨日の夜、関崎から電話もらったから事情は把握してる。大変だったよな」

「まあね。関崎と一緒に私もごめんなさいしとく。あんた関崎に昼ご飯たかったんでしょ。あれ、私の責任だから私が払うよ」

「あれ冗談だってさ」

 いつのまにかこずえにも関崎との会話が流れているということは、上総との話が終わったあとすぐに連絡したのだろう。

「わかってるよそんなの。でもね、確かに私が悪かった。宇津木野さんのお父さんとお母さん、どうしても私たちにたのみたいことがあるからってきかなくってさ。それで麻生先生の判断もあって病院の食堂で食事しながら話したんだよね」

「そういうことかと思った」

「給食もあるし本当は無理してでも帰るって私が言い張ればよかったんだと、今思えばね。関崎は外部生だし、麻生先生のいうことは絶対だと思ってただろうし。私みたいな内部生なら先生たちの都合なんていくらでもなんとかなるってわかっているからもっとわがままいえばよかったよ。せめてあと五分よね」

「惜しかった、それだけは悔しい」

 少し黙ったが、こずえの方から口を切った。

「立村、あんたさ、疋田さんと話、した?」

「したよ。一時間練習したから」

「そういうわけじゃなくてさ」

 こずえは声を潜め、周りを確認するようにして身をかがめた。

「美里から聞いたけど、月曜に疋田さんと宇津木野さんから、伴奏替わるって提案されたってほんと?」

 もうばれているなら隠す必要はない。過ぎたことだ。

「一応、そういう話はした。俺が断った」

「そうか。やはりね」

「ただ、そのあとで肥後先生に呼び出されて、ふたりの本意みたいなのを聞いて納得した」

「なにそれ」

 伝えるのに難しそうだが、思い切って口にした。

「ふたりとも、音楽の感性が鋭くてどうしても理想的な音でないと耐えられないタイプなんだってことを聞かされて、それならしょうがないなとか思っただけだけど」

「私も、宇津木野さんのお母さんから説明聞かされたよ」

 こずえはもう一度周囲を見渡し、

「悪いけど、いったん靴履いて外で話そうよ。聞かれたらやばいから」

 外を指差した。


 生徒玄関の外、芝生の端に立ったまま話を続けた。

「私もそのなに、音楽感性なんて持ってないからぴんとこないんだけどね」

 前置きをしたこずえは、上総の前を行きつ戻りつしながら語り始めた。

「宇津木野さんは子どもの頃からピアノの才能を認められて音大目指してるんだよ。これ、中学時代から有名な話なんだけどね。将来は外国に留学することも備えて英語科入ったけど、別の塾でイタリア語やドイツ語も学習してるんだって」

「すごいなそれ」

「あんたは黙ってても独学できちゃうからいいじゃん。とにかく、音楽の才能がうちの学校にいる音大志望者の中でもダントツなのよ。これはあまり言いたくないけど、疋田さんや瀬尾さんとの差は天と地、なんだって。私からしたらみな上手いけど」

「俺も古川さんの意見と同じ」

 いや、わからなくもないがあえて同意した。

「ただ、才能を持っている人にとっては音というものに対してもものすごい敏感らしくって、私にも予想できないところできーっとなっちゃうらしいんだよ。身も蓋もないこと言っちゃうと、汚い音は聞きたくないってこと」

「情けないが認めざるを得ないな」

「宇津木野さんも性格が悪い子じゃないし、自分の感性が人に迷惑をかけてるんじゃないかってことは自覚してたんだって。なら単純に伴奏担当すればいいじゃんってことなんだけど、例のあれよ。疋田さんのピアノの先生と彼女の先生とがバトルでさ」

「二重の苦しみってとこか」

「そういうこと。ただ、運がいいことに疋田さんとは同じクラスになって妙に気が合っちゃったみたいなんだよね。私も今まで知らなかったんだけど、疋田さんと仲良しになってからやっと救われたみたいなこと、言ってたらしいんだ」

 それは上総も感じていた。たぶんあのふたりは親友だ。

「いくらなんでも親友と、先生たちのバトルの駒になんかなりたくないよね。そこでふたりで相談して、今回の伴奏を逃れたいと申し出たってわけ。ここまではあんたも知ってる通りだよ」


 まだ時間はある。生徒たちがどんどん生徒玄関に吸い込まれていく。

「ふたりとしてはたぶん、誰かそれなりのピアノ弾き手が出てくると思ってたらしいんだよ。疋田さんだってそりゃ、宇津木野さんと格が違うらしいかもしれないけど音大目指しててがんばってるんだから、合唱コンクールの楽譜はさらさら弾く自信あったと思う。実際楽譜初めてみてあっさり弾いてたもんね。その程度の曲なら大丈夫だろうと甘く見てたところがあったらしいんだ」

「そうしたら、予想に反する程の弾き手が登場したということか」

「ご名答。大穴すぎるよ。ふたりも私があんたに決まったってこと伝えた時卒倒寸前だったからね。それに加えて『エリーゼ』を弾いた時の見事な演奏力で失神しそうになったみたいだよ。とんでもない過ちを犯したんじゃないかと思って、それからずっとふたりとも針のむしろだったらしいんだ。これ、お父さんが話してたよ」

「そこまで言うかって気もするが、否定できないんだよな」

 やはりピアノは精進しなくてはならない。帰ったらすぐに練習再開しよう。

「さあここからが大変よ。自分たちが逃げ出したために、自分たちが許せないタイプの音色が合唱コンクールで響き渡る羽目になっちゃったというわけ。もちろんあんたはがんばってるし、一生懸命努力している。だから尚更辛い。誰も責められない。責められるったら自分たちの感性のみよ。たぶんあんたに伴奏交代を申し出たのはその折り合いを付けたかったんだろうなってことよね」

「素直に受けとけばよかったと思う」

「もう過ぎてしまったことぶつくさ言うんでないの。どっちにせよあんたは精一杯弾いてるし文句のつけ所はない。疋田さんはそれでも納得して自分で消化する努力をした。けど宇津木野さんには、どうしてもそれが上手くできなかったらしいんだ」

「俺の音色に耐えられなかった、と」

 ふうっと息を吐く。こずえと同時だった。

「あんたも、杉本さん面倒見ているからわかるよね。もうこればっかは誰も責められないんだよ。あんたはクラスのため投げ出さないように全力尽くした、けど努力では」

「届かないところはあるよな。言われたよ、肥後先生に」 

 そろそろ制限時間もいっぱいのようだ。上総は生徒玄関へ向かうことにした。

「どちらにせよ、来年は伴奏をふたりに返す。それは決めてるよ」

「それとさ、ひとつ気になることがあるんだけどさ。あんた歌う前に変なこと言ったんだって?」

 靴を改めて履き替えながら、こずえに問われた。

「立村、あんた来年自分が指揮やるって、宣言しちゃったんだよね?」


 ──そうだ、あれはまずかった。

 今更ながら気づく。後悔あとに立たず。

「やはり、まずかったよな。ごめん」

「一応立場としては、藤沖も、関崎もいるんだからさ。ちょっと考えなよ。ど顰蹙だよ」

 こずえは噴き出しつつ、いたずらっぽく微笑んだ。

「でもまあいっか。あんたには伴奏よか指揮者の方が似合ってるしね。杉本さんに見せてやりたかったよねえ」



 

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