その十九 袖幕にて(3)
──奔流。
打ち合わせた時はとことん歌いやすくすることだけを考えて練習していたはずの疋田さんだが、斜め下から響き渡る激しい音色はまさにうねりそのものだった。
──ソロの弾き方とか、肥後先生言ってたよな。
リズムがずれないように手を振りながら身体の中に注ぎ込まれる何かを感じつつ、上総はクラスひとりひとりの顔を見つめていた。緊張しているようにも見えるし、リラックスしているようにも感じられる。みな真面目であることだけは間違いない。音程を誰かが外したとかタイミングをしくじったとか細かいところで粗があるのかもしれないがそんなのはどうでもいい。今こうやって歌っていられることは、
──奇跡だよな。
舞台に上がる前に上総がまくしたてた言葉の通り、今この一瞬が、今朝の段階では想像つかないものだった。中学二年以来の指揮者に復活したことも、あの疋田さんが凄まじい気迫のもとピアノを奏でていることも、そして、
──関崎も、古川さんも、宇津木野さんのために姿を消したことも。
自分が演奏中にとんでもないところをしくじってしまう可能性は考えなくもなかったけれど、すべてが上総の想像をはるかに超える展開だっただけに今だ戸惑いが消えない。それでも指揮台から見下ろすクラス全員の口元には確かに「歌声」が響いている。誰も、口を開けたまま適当に流している奴はいない。
──それだけでも、ほんとにすごいことだよな。
その歌よりも、舞台袖から激しく響き渡る「モルダウの流れ」に押し流されるがごとく上総は空気をかき混ぜた。疋田さんの感じている旋律への想いを、少しでも歌声に重ねたかった。自然と自分の動作も大きくなっているような自覚もある。背中でかすかに笑われているような気配も感じる。どう見られているのか気にならなくもない。でもどうでもいいことだった。自分ではたどり着けなかった雄大な河の流れを上総は身体中に漂わせながらひたすら手を振り続けていた。
ふと、藤沖の目が指揮する上総の手の反対方向に向いた。そのまま固まったまま動かない。それでも歌ってはいるが少し気がそれたように見える。
──藤沖どうした?
気分でも悪いのか。いや、それにしては視線がしっかりしている。気にせずそのまま男子パートに声を張り上げるよう手を差し伸べた。同時にそろそろラストの「モルダウ」の合唱に差し掛かる。ここは疋田さんとも音楽室で何度も打ち合わせたところだった。歌はとにかくピアノと歌とがぴたっと合って終わればそれだけで十分価値がある、その点ふたりで意見が一致している。上総にとっては最大の山場である。
──どうせ終わったら礼をするし、まずはラスト行くか!
藤沖のことなどどうでもよくなった。上総は右手を高く上げ、左手をピアノ側に下ろした、そのまま手を開いたままずっと「モルダウ」の「ウ」の部分を長く保たせ、ゆっくり呼吸を整え、一気に両手を握り締めた。ずれなく、あまりなく、高く掲げた上総の握りこぶしに音色がすべて収まったような感覚が確かにあった。
手を下ろした時、背中に響き渡る拍手を感じた。
じっと男女それぞれの整列した姿を眺めやる。
──終わった。
余計な感情などなく、ただ単純な一言のみ。
ひとりだけそっぽを向いている奴など気にせず、上総が指揮台から降りた時、舞台後ろから誰かが飛び降りる気配を感じた。クラスメートたちがざわめき、それに釣られるように聴衆の生徒たちもあたふたと振り返る。藤沖が無言で壁際を走り抜けるのを最初上総は唖然としたまま見送ったが、やがてその意味を理解した。
「関崎くんじゃない?」
「こずえちゃん? 間に合ったの?」
「関崎あと五分早ければなあ」
後ろでのささやき声も席の向こうのざわめきとに紛れていく。ピアノの前では見えないながらも疋田さんが立ち尽くしている。
上総は舞台上から、体育館入口でふたりの男子と女子が藤沖に迎え入れられ、笑顔で何かを語っているのを確認した。それが誰だかはもう他の生徒たちも把握している。なぜ藤沖がずっと視線を体育館入口あたりに揺らがしていたのか、なぜ礼もしないうちに飛び出していってしまったのか、理由はもうわかりきっている。
──あと五分、だよな。間に合えば全員で歌えたのに。藤沖が悔しいのもわかる。
関崎が戻ってくるのをひたすら待ち続けていた藤沖。心底、関崎に友情を感じているのだろう。関崎がいなければこの場で歌うことを固辞したいとも言っていた奴だ。
──いや、まだ間に合う。
ほんのわずかの間に決断した。
「すみません、マイク、貸していただけますか」
舞台袖でコンクール閉会のアナウンス準備をしていた放送委員と音楽委員を上総はその場から呼び止めた。なんとなく袖に引っ込みたくはなかった。また視線が自分に集まる。
「会場の人たちにうちのクラスからお礼を言いたいので、少しだけいいですか」
「すぐ終わらせてくださいね」
上総の眼差しに何を感じたかはわからぬが、すぐに放送委員男子がマイクを指揮台脇に立つ上総へ持ってきてくれた。嫌味を言うのは音楽委員の女子のほう。何か恨み買うことでもしただろうか。
「ありがとうございます」
余計なことは考える暇などない。上総はすぐ受け取った。そのままマイクを叩き、スイッチを入れた。中学時代から操作には慣れている。マイクを握った上総にどよめきが起こる。
「今日、この場で僕たち一年A組に歌いきれなかった自由曲を思い切り合唱するお許しをいただきありがとうございました。今この場にいる全校生徒のみなさん、そして先生方に僕たちはクラス全員、心から感謝しております。そして」
じっと見た。入口でもちゃもちゃくっついている三人組を射た。早く舞台に連れてくればいいのに、藤沖はまさに使えない奴だと思う。
「今そこにいる二人は、合唱中体調を崩した人に付き添ったためにこの場で歌うことができませんでした。全員舞台に上がるまで少しだめ待ってもらえますか」
会場に呼びかけた。同時に湧き上がるのは拍手喝采。三年から、二年へ、一年へと波及していく。教師たちが立ち上がり、けなげなふたりと迎えにいったひとりを拍手で誘う。すっかり照れているのか関崎がこちこちになったまま舞台へ上がる。上総に近づき、
「お前いったい、どうしたんだ」
怒ったように尋ねた。悪いがこの一瞬のみ、上総ひとりで仕切らせてもらうことにする。
「関崎、そこでいい。立っててもらえないか。それと古川さんは真正面で」
「立村あんたさあ」
あきれたように囁くものの、こずえもすぐに合唱列のど真ん中に納まった。よくわかっている。全員揃ったことを確認し、上総はピアノに再度戻った疋田さんに右手を伸ばし合図を送った。これも音楽室で決めたことだった。
「ありがとうございました」
和音が三度、品良く響いた。それに合わせて上総が礼をする。それに合わせて隣の関崎はきちんと頭を下げている。直角に身体を折り曲げたまま横目で様子を伺うと他の連中も真似をしている。たぶん関崎に習っただけだろう。
全員、舞台から降りた瞬間、女子たちが全員ピアノの前で放心状態の疋田さんを取り囲み、
「疋田ちゃん、よかったよ、ほんっとよかった!」
「疋田さんのピアノで歌えて最高だったよ! 勇気、出してくれてありがとう!」
「来年は絶対に疋田さんだよね、伴奏絶対お願いだよ!」
中には抱き合うようにして労っていた。すぐ傍に本来伴奏担当だった上総がいることなど無視されている。一年A組の合唱コンクールに課題曲「恋はみずいろ」など忘れられて、たった今歌い納めた「モルダウの流れ」だけでしっかり刷り込まれたということだろう。
──結果よければすべてよしだよな。
一曲弾けただけでもよしとしよう。幕から抜け出そうとすると、突然背中をがっちりと押さえられた。かなり重たい。女子の手ではない。振り向いた。
「立村、聴いてたんだ。ちょうど歌が始まる直前に体育館に入ったんだ」
関崎が声を震わせ、そのまま上総の肩に手を置いた。
「まさか最後に歌わせてもらえるとは思わなかったが、お前がしっかり指揮している姿を見た時、とうとう来た、そう確信したんだ」
ひとつひとつ、とつとつと関崎は語る。頬が紅潮している。男子たちがふたりを囲む。
「立村、お前復活したな」
──え?
熱い口調と共に差し出された手を上総はおずおずと握り返した。そうしないと雰囲気のバランスが取れなさそうだった。それを口切りに、様子を伺っていた男子たちが我先にと関崎へ、そして上総へと手を差し伸べ始めた。中には上総になぜか「ありがとう」とお礼を言う奴もいた。一番驚いたのは、あれだけ露骨にライバル心を見せつけ口ひとつ利かなかった片岡が、涙ぐみながら上総に手を差し伸べたことだった。




