その十八 休符の時間(5)
想像していた以上に疋田さんのこだわりは凄まじいものだった。
決して声高に文句を言うでもなく、誰かを責めるでもない。
ただひたすら、繰り返し弾き続ける。それも何かひっかかるものを感じると、
「ごめんなさい、立村くん、ここのところをもう一度合わせてもらえる?」
どこが疑問なのかよくわからないのだが五回以上は繰り返し先に進む。音楽にはど素人の上総にはわからないことだらけだが、とことん付き合うことにした。
最後まで進んだ後、今度は上総に向かって、
「立村くん、申し訳ないのだけど、最初の入り方をこのテンポで行きたいんだけど」
ピアノを弾いてそのリズムをぴたりと合わせるよう求められる。
「無理に、じゃなくていいから」
──いや合わせないとまずいんだろう。
単に手を振って指揮台を埋めているだけではどうやら勤められそうにない。「モルダウの流れ」は決して速く弾くタイプの曲ではないのだが、疋田さんにとってはベストなスピードというものが体感できているようで、指揮者の上総にもそれを何度も求めてくる。
「もう少し、ゆったりと」
「少し遅すぎるので心持ち早めに」
「ここの溜めをもっとゆっくりと、呼吸をいったん止めるような感じで」
──あと一時間もないのにほんと間に合うのかな。
最初、上総にとっての「間に合う」は関崎およびこずえのふたりが学校に到着できるかどうかという意味合いだった。しかし、音楽室に閉じこもりグランドピアノと……疋田さんは当然のようにアップライトではなくグランドピアノに手をかけた……にらめっこしていて改めて気づいた。あまりにも足りない。時間も、自分が曲を飲み込む時間も。
──指揮者を舐めてはいけなかったんだな。
それでも自分で「モルダウの流れ」を一通り弾いていたからこそ、見えてくるものもある。あたらめてお手本のような疋田さんの演奏をエンドレスで聴かされるうちに、
「お前の演奏は棒のようだ」
と父に揶揄された意味が理解できた。上総がずっと楽譜を間違いなく弾くことと最後まで演奏することのみを考えていたのに対して、疋田さんはまず歌う人たちがどうしたら声を出しやすく伴奏できるかをメインに置いている。突然押し付けられた伴奏だというのにあっという間に構成を組み立てて、限られた時間でベストを尽くそうとしている。
「本当は、みんなの歌とも合わせたかったのだけど」
「そうだね」
自然につぶやいてはっと気づいた。本当であれば月曜の段階で上総が決断していれば十分間に合った話ではないだろうか。さすがに膝をついて頭を抱えるわけにはいかないが、実はそれこそ完璧な展開だったのではないだろうか。
楽譜を覗き込みつつ、疋田さんの鋭い指導についていきつつ、
──やはり伴奏は早い段階で譲った方がよかったんだよな。
後悔先に立たずとはこのことだった。あの時は自分で立候補した以上責任を果たしたいという気持ちが強かったし、なんとか間違えずに弾くところまでは仕上がっていたから疋田さんと宇津木野さんとの申し出をきっぱり断ってしまった。もちろん来年以降は上総もおとなしく合唱の中に潜り込むつもりでいるが、今年だけはあれだけいろいろな人たちに世話を焼かせてしまった以上形にしたかった。たぶん一生に一度、あるかないか、といったところか。来年以降は否応無しに藤沖あたりか、もしくは女子でかまわなければ古川こずえあたりが指揮を担当することだろう。まあいい。「恋はみずいろ」だけでも最後まで無難に弾くことができただけでも十分、自分の勤めは果たしたはずだ。
「立村くん、細かい注文ばかりたくさん並べてしまってごめんなさい。あと気になるのが男子の歌は、本当であればもう少しボリュームが欲しいところ」
「ごめん、疋田さん、それもう無理」
指揮でなんとかなる部分は必死に練習するけれども、さすがに合唱部分はどうしようもない。上総ができるのは「ここんとこはもう少しでかい声で歌えよ」とかその程度だ。ただ疋田さんの言いたいことはわからないでもなく、全体的に女子が頑張って歌っている分男声合唱の響きが物足りないというのは確かにある。
「そうね、しょうがないか」
肩を落とし、また疋田さんは「モルダウの流れ」後半のメロディを弾き始めた。
──そうだよな、そういう細かいところを詰めることが、本当だったらあと四日くらい余裕あればできたんだ。
「立村くん、疋田さん、もうそろそろ休憩時間に入ります」
気がつけばもう一時間近く経っていたらしい。時計に目をやると野々村先生の言う通りちょうど一時間少しで二時を回ろうとしている。すっかり疋田さんの熱烈特訓に付き合わされてしまいずっと一時間立ちっぱなし。足がそれこそ棒のようだった。
「ご連絡ありがとうございます。あの、それで、関崎たちは」
野々村先生は上総の隣に寄り添うようにして、首を振った。
「まだのようです。もう間に合わないことを前提の上で準備しましょう」
それと、と付け加えた。
「肥後先生もA組のみなさんの準備が整ったところで講評に入るとおっしゃいました。最後の打ち合わせをする時間は若干あります」
「それならまだ、大丈夫ですね」
頬をほころばせる疋田さん。何が「大丈夫」なのか、合唱関連に絞り込んで考えれば答えはひとつ、「完璧なハーモニー」のための指導ができるということになる。この一時間、疋田さんと上総との間に「モルダウの流れ」に絡んだ話題以外一切出てこず、ひたすら曲、指揮に没頭するのみだった。
野々村先生は特に気にすることもないようで、また上総をじっと見つめた。だから、父のイメージで自分を見ないでほしいと常々思う。
「疋田さんも根をつめすぎないようにして、そろそろ体育館に戻りましょう。楽譜は忘れてませんか?」
まだ未練ありげに疋田さんが楽譜を閉じる。野々村先生は鍵を持ったまま先に疋田さんを外に出るように伝え、上総には動かぬようちらと視線で制した。
「立村くんには連絡があるので、ここで待っていてくださいね」
──なんだかいやな予感がする。
たぶん疋田さんは対して疑問も感じず出て行ったと思うのだが、もしここに美里がいたら何が起きたかわからない。嫌いな先生ではないのだが家庭の事情が事情だけに、できれば一体一でのつながりは控えたい。しかしそうもいかない。礼儀と師弟関係。面倒だ。
「野々村先生、何か」
極めて落ち着いた振りをして上総は尋ねた。
「立村くん、よく耐えましたね」
「何をですか」
思わず問い返すと野々村先生は口元に優しいえくぼを浮かべた。
「きっと指揮者なしで立村くんが伴奏するものだと思っていましたから。まさか伴奏を別の人に譲るという判断をするとは、私も思っていませんでした」
──いや、これしか選択肢ないと思うけどな。
「立村くんがどれだけ一生懸命練習してきたか、私は少なからず理解しているひとりです。本当は、『モルダウの流れ』弾きたかったのでしょう?」
──なんで、そんなこと聞くんだろう?」
百%否定はしない。ただ、早いうちに誤解だけは解いておくことにした。
「最後まで弾きたかったことは事実です。でも僕の判断に迷いはありません」
「どうしてそう言えるの?」
言葉を一瞬飲み込みそう問いかけた野々村先生は、上総の答えを待つ前に、
「私、今度の日曜も先生のお宅にお邪魔します。その時じっくりとその答えを聞かせてくださいね」
すっと背を向け、戸を開いた。さっと手を広げるようにして誘った。
「立村くん、行きましょう。みんなが待っています」
──野々村先生まさか、今度の日曜も父さんと見合いの続きするのかよ!




