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その十八 休符の時間(4)

 教室に残されたふたりが会話する間もほとんどなく、藤沖が野々村先生を連れて戻ってきた。この先生も一年B組の担任なんだがとつっこみたいのを飲み込み、上総は頭を下げた。

「遅くなり申し訳ありません」

「よく決断しましたね」

 穏やかに微笑み、隣で仏頂面している藤沖にも笑いかけた後、野々村先生は上総の真正面まできた。じっと見つめてくる黒い瞳。とにかく時間が限られている以上、すべきことを頼みこむしかない。それができるのは今のところ上総だけのようだ。藤沖には頼れそうにない。

「うちのクラスの人たちはここにいる僕たち三人をのぞき全員体育館にいます。合唱そのものは今まで通りで問題ないと思うのですが、僕と疋田さんはやはりぶっつけ本番になるのが怖いので、音楽室を十五分程度貸してもらえませんか。一回だけ音合わせをさせてもらいたいんですが」

 野々村先生は腕時計を脈のところで見た。首をかしげた後、

「三年生の合唱はだいたい一時間以内に終わりますから、かんたんに合わせるだけであればたぶん間に合うでしょうね。鍵はすぐ私が借りてきます。それと肥後先生からの提案なのですけれども」

 不安げな疋田さんにも安心させるような柔らかい口調で、

「三年のみなさんが歌い終えたあといったん休憩が入ります。せいぜいお手洗い休憩のようなものですから十分程度ですけれども。そのあと肥後先生の賞発表と講評で十五分くらいはかかることでしょう。そのあと、合唱コンクールの締めといった形で特別に一年A組のみなさんの『モルダウの流れ』を歌っていただく手はずとなります。だいたい一時間は余裕がありますね」

「ありがとうございます」

 計算が苦手な上総でも、泡吹いて駆けずり回らなくてもよいことだけは把握できた。

「では、藤沖くんにお願いです」

 野々村先生は次に、隣の藤沖へ声をかけた。

「職員室の事務係の人に頼んで、関崎くんと古川さん、麻生先生が戻ってきたらすぐに体育館に向かうよう申し伝えてください。そろそろ学校についてもいい頃なのですが、どうやら渋滞か周囲の車の事故に巻き込まれたかしているようで、到着が遅れているようです」

「では関崎たちは、参加は」

「難しい可能性が大ですね」

 きわめてあっさりと野々村先生が告げた。同時にがっくり肩を落とす藤沖。

「先生、宇津木野さんの容態は」

 誰もが気になっているくせに誰も尋ねなかったことを、疋田さんがおそるおそる口にした。野々村先生も言葉に困っている様子だったが、

「かんたんな処置を行ったとは伺っていますが具体的にどのようなものかとは、まだ。ただ生命に関わる病気ではないとの連絡がありました」

 かなり曖昧な表現なのが、かえって不安を煽る。少なくとも疋田さんの表情は晴れなかった。うつむいてため息を吐いている。

「藤沖くん、その連絡を終えたら体育館に戻り待機していてください。どちらにせよ三年合唱が終わるまでの間は動けませんので。休憩時間に入りましたら順次袖幕で整列して待っていてもらい、伴奏と指揮のふたりが揃ったところで舞台に上がりましょう。そのあたりの段取りはこれから私が音楽委員の人たちに指示しておきます」

「一時間半だと、関崎たちも間に合うかもしれないか」

 藤沖がぼそりとつぶやく。ここで野々村先生も明るく押す。

「きっと間に合いますよ。大丈夫です」

 少しだけ元気を取り戻したらしい藤沖は、上総たちに目もくれず野々村先生にだけ一礼をし駆け出していった。指示にはきっちり従う性格なのだろう。

 野々村先生は改めて上総と疋田さんに告げた。

「では、音楽室前で待っていてくださいね。すぐ、鍵を取りに行ってきますので」


 これまで上総は疋田さんと直接話したことが数えるほどしかなかった。あえていえば月曜の伴奏交代提案の時のみ。実際それ以上の会話が思いつかないし、実は顔も今だに曖昧だ。今は一体一で話しているから判別つくものの集団だったらもう無理だろう。とりあえずはふたりで三階の音楽室に向かうことにする。もちろん楽譜はしっかり持っていく。

「さっきは、無茶な頼みごとを引き受けてくれてありがとう。本当に助かった」

「私も、できることあれば手伝いたかったから。こちらのほうこそ感謝しているの」

 疋田さんは小柄な身体をすくめるようにして、それでも上総の顔を見て答えた。

「宇津木野さんはピアノだけではなくて、音楽そのものを心底好きでいる人だから、立村くんの言った通り中途半端で終わらせるのは本意じゃないと思う」

「やはりそうだよな」

 上総も改めて自分に問い直し、揺れがないことを再確認した。勢いでああだこうだと喚いてしまったけれども、結論は変わらない。藤沖の意見に真っ向から対立してしまったけれども、どういう結末にせよ最後まで歌い切ることこそ一番大切なことじゃないかと思う。たぶん関崎も同席していたら、あいつのことだ、上総の考えに共感してくれたんじゃないかと思う。藤沖だってああ言葉を左右にしたのは言いだしっぺが虫の好かない上総だからであって、同じことを関崎が発言すれば決して反対はしなかっただろう。

「楽譜、借りていい?」

「ぜひ」

 三階へ向かう階段を昇りながら、楽譜ノートを渡す。すぐに疋田さんが開いて音楽室の前でじっと見入る。何度か指で譜面を触りながら片手で膝を叩くような仕草をする。黙って見ているとすっと顔を上げ、

「関崎くんとは伴奏の打ち合わせとかしていたの?」

 いきなり問われた。

「細かくはないけれど、それなりにはしていた。けどお互い音楽に詳しいわけではないからおおざっぱにだけどな」

 もともと関崎はそれほど音楽に造詣深いわけではない。歌声だけは神のものだが、それイコール音楽と直結しない。本人がずっと音痴だと思い込んでいたのだから当然ではある。いきなり指揮者をあてがわれて最初は混乱していたようだが、とりあえずテンポだけ間違えないようにしてもらいたいということを伝えてそれで片付いているはずだった。

「課題曲ではとにかく、テンポを一定にしてほしいとだけ伝えてそれ以上のことは伝えてないな」

「やはりそうなんだ」

 ぼそり、とつぶやいた疋田さんはまた大きなため息をついた。

「やはり聞きづらいよな。ごめん」

「違うの、私がどう弾けばいいかだけ考えているの」

 問うのも失礼になりそうで上総が黙っていると、

「課題曲歌っていた時、テンポはきっちり整っていたけれどもなんとなくみな歌いづらそうな感じがしていたから、そこ、なんとかしたいなと思って」

 ──歌いづらい、かよ。

 全く頭になかった。おそらく関崎も同じはずだと確信している。疋田さんは目線を楽譜に置いたまま続けた。

「今からだと難しいかもしれないけれど、みんなが気持ちよく歌えるように弾ければいいな。『モルダウの流れ』は曲の盛り上がりがはっきりしているからそこさえ押さえればきっと、もっと、よくなると思う。私も気づいた時もっとはっきりみんなに伝えればよかった。こずえちゃんにも、もっとわかりやすく話せばよかった。ごめんなさい、今更だとわかってるけど、どうしても止まらないの。音楽の話になると私も、宇津木野さんも」


 野々村先生が音楽室の鍵を握りしめて反対側の階段を走ってくるまでの間、疋田さんはずっと楽譜を見つめたまま、上総には理解しがたいメロディのこだわりを語り続けていた。ひとつひとつその言葉を耳に封じ込め、上総は右手でゆっくりと「モルダウの流れ」のメロディに合わせて拍子を取ってみた。自分で弾いた曲通りに、ゆっくりと。



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