その十八 休符の時間(3)
二年B組の出来事が強烈過ぎて他クラスの印象が薄いまま給食時間および昼休みに入った。これも上総が知らされていなかったことの一つなのだが、
「給食が終わったあとの昼休みは、通常二十分のところ三十分にします」
との放送が流れ、通常よりも十分延長されている。
「最初からああだったのか」
「さあね」
音楽委員に確認してもよくわからない顔をしている。どちらにせよ給食をさっさと食べ終われば比較的ゆっくり準備ができるということだろう。一、二年はすでにすることすませて気持ちも楽、腹もいっぱいになれば眠たくもなる。こんなのんびりムードの中、誰がその眠気を覚ますのだろう。いつの間にか皆、合唱コンクールの優勝候補最終予想に興じている。男子も女子もそれぞれの立場で語らっている。
「二Bすごかったね!」
「ほんと、もろ泣けたよねえ。すごい、菅西先輩最高!」
伴奏なしで延々と指揮に興じた先輩をただ褒め称える声あり。
「あの先輩って中学時代評議だったよね」
「うん、あんまり目立たなかったけど。二年のクラスって評議の人たちがほとんど固まっているから団結力すごいって聞いたことある」
「そうなんだあ。でも、あの世代って確か本条先輩がトップだったんじゃ」
「そうそう、本条先輩が凄すぎてあまり名前覚えてなかったんだけどやっぱりすごいよねえ。伊達に評議やってるわけじゃないって感じ」
──評議はどの立場でもいい加減な気分ではできないよ。
給食のミートソースを平らげた後、さっさと下げて上総は廊下に出た。給食後の余裕が若干あるのならその時間を利用して歌うか否かの決断をするべきじゃないかと思うのだが、藤沖の姿がなく、当然麻生先生や関崎、古川の戻ってくる気配もない。
──形だけでもやっぱり話し合いすべきだと思うんだけどな。
だいぶ時間も経っているしみな、それなりに考えることもあるだろう。特についさっきの二年B組の一件を目の当たりにしたクラスメートたちに気持ちの変化がないとも限らない。少なくとも上総にとってはみしりと身体に食い込んくるものが確かにある。
しばらく廊下をうろうろしたが上総が話を持ちかけたい相手が誰も戻ってこない以上しかたない。上総は教室に戻った。見ると女子の数名が男子グループに、
「藤沖くん、どこ行っちゃったのかな」
「あいつ? さあなあ。職員室か、それとも外で発声練習か」
などとそれなりの会話を交わしている。珍しく探し人が上総と一緒ときた。そっと男子側から声をかけてみた。
「藤沖に何か話したいことあるの。俺も探してるんだけど」
「立村くんも?」
少し意外そうに女子たちが上総の顔を覗き込む。もともと上総と藤沖との不仲は彼女たちも知っているはずだ。
「合唱コンクールの、野々村先生が話していた例の件でなんだけど」
「立村くんも?」
「お前もかよ」
今度は男子連中も同時に声を上げた。なんとなく感触がよい。
「一応、昼休み終了までに結論出さないとまずいかなと思って」
「みんなで歌い切るってこと、よね?」
女子のひとりが小さな声で確認してきた。上総はもちろん頷いた。
「歌うかどうかは別として、形だけでも決を取る必要あると思ったから聞きたかったんだけどさ。さっき話をしたら藤沖は個人的に全員揃っていないと意味がないという考えだったようだけど俺はなんか違うなと思ったから、もう一度相談したかったんだ」
同じクラスでありながら女子たちの顔が今ひとつ認識できていない。自分でも困った部分なのだが、とりあえず表情を伺う限り上総の意見に露骨な不快感は感じていないようだった。ものすごく重要な部分である。
「けど関崎が戻ってきたらやるとか言ってただろ」
別の男子が口を挟む。
「でも関崎くんもこずえちゃんもまだ戻ってきてないし。間に合うのかな。あと二十分くらいしかないのに」
「そう、そこなんだけど」
上総は無理やり自分に話を引き戻した。
「戻ってきたら指揮者の関崎にも確認するつもりだったけど、この調子だと戻って来ない可能性が高いよ。たぶん宇津木野さんの体調のこともあるんだと思う」
みな黙った。ふと気づくと他の女子たちや藤沖以外の男子たちもずりずりと上総のそばに集まってきている。自分が蜜のような状態になったのかと勘違いしそうだがもちろんありえないので戒めつつ進める。
「藤沖の意見も一理あるしそれでもいいかとは思っていたんだけどさ」
ここで少し、手を入れてみることにする。皆聴き入っているのがわかる。中にはうなづいている奴もいる。主に男子。
「さっきの二年B組の合唱聴いていて、やはり最後まで歌い切るってことの重さみたいなの、やはりあるなとか思ったんだ」
「わかる、うんそれわかる」
おそらく合唱のソプラノパートリーダー担当の女子がしみじみつぶやいている。吹奏楽部の子だ。
「菅西先輩の機転も見事だったけど、成功した一番の理由ははクラスの人たちがみんなとにかくラストまで持っていきたい。そういう執念みたいなのがあったんじゃないかな」
「確かに、先輩たちほんとすごかった」
涙ぐんでいる女子もいる。手応えありか。男子たちもかつての先輩評議たち……本条先輩の陰に隠れて忘れ去られていたものの名前だけは記憶に残っている……の思い出をぽつりぽつりつぶやいている。
「本当は指揮者である関崎が揃ったところで藤沖と最終決断してもらうのが一番綺麗な形だと思う。本当ならそれが当然だけど実際いない以上この十五分の間にクラス内で決断するしかない。そこで藤沖に臨時でクラスの決をとってもらって、出るなら出る出ないなら出ないと意思表示すべきじゃないかなということで探してたんだけどさ」
「けど関崎くんがいないと指揮者、どうしよう? さっきは指揮者がいたから無事終わったけど、うちのクラス、関崎くんがいないと形にならないよ」
「藤沖じゃだめなのか?」
男子、女子ともにごもっともな質問が飛ぶ。そうだ、藤沖が指揮をするという案もある。一応は評議なのだから当然だ。ちらと思ったのも束の間、
「いや、無理だ。あいつ指揮やったこと一度もねえよ」
元青大附中B組出身の男子が発言する。
「立村も評議だから知ってるだろ? 藤沖、音楽からっきしアウトだぞ。練習してれば別だけどいきなり押し付けるってのはどうよ」
「そうか、ならば」
まだ藤沖を始め関崎、こずえともに戻る気配はない。残り時間はあと十分。追い風あり。
上総は全員の顔を見渡した。判別つきづらい女子たちの顔だがそこには上総の判断を待っている気配が確かにある。一方男子たちも、かたず飲んで待っているようにも見える。
「俺の提案、もしよかったらなんだけど」
念のため、女子たちの中に疋田さんが混じっているかどうかだけ確認した。一番重要なポイントだった。やはりしっかりとした眼差しでもって上総を見上げている。
ふたつ心の中で数え、言葉にした。
「指揮は俺がやる。それと伴奏を、本当に申し訳ないけど、疋田さんにお願いしたいんだ」
そのまま疋田さんをじっと見つめた。はっと口を押さえるような仕草をした疋田さんは、小柄な身体を震わせるようにして、ただひとり固まっていた。女子たちもさすがに驚いた様子で上総に質問をぶつけてくる。ただ責任を問うというよりも、「なぜ?」といった純粋な問いに聞こえた。
「立村くん、それ、本気で言ってるの?」
「そりゃ、立村くん評議委員長だったし指揮できるかもしれないけど、でも全然練習してないでしょ。指揮ってそんな甘くないよ」
「伴奏者いなくなって、二Bみたいに歌えるかどうかって私、自信ない」
上総は様々な問いを無視して疋田さんに近づいた。小柄な疋田さんは、そっと片手を口に当てたまま、小刻みに首を振った。
「私、そんな、いきなり」
「ごめん、いきなりで非常識なのは俺もわかってる。けど、これも俺の勝手な想像なんだけど」
疋田さんだけを上総はじっと見据えた。ずっと奥底にひっかかっていたもののかさぶたをはがすように、一気に言葉をほとばしらせた。
「疋田さんも宇津木野さんも、俺には想像できないくらいの音楽感性の持ち主だから、きっと俺の演奏では満足できないってのは納得できるんだ。肥後先生からも説明してもらったし。それでも俺が今までの練習成果をどうしても発揮したいってわがまま通してここまできたけど、もしかしたら今ここで疋田さんが伴奏に回ることによって、宇津木野さんも理想としているようなハーモニーになるんじゃないかなって気がするんだ。話、ぐちゃぐちゃでごめん」
口から手を外した疋田さん、口が細く開いていた。取り囲んでいた女子たちが息を飲んでいる。男子たちが「なんじゃそりゃそのハーモニーっての」と確認し合っている。
「私たち、立村くんにひどいこと言っちゃったのは申し訳ないと思ってるの」
「そんなことないって」
か細く詫びの言葉をつぶやく疋田さんを上総は押しとどめた。確認したいのはそういうことじゃない。
「さっきの二年B組、伴奏してた人これからきっと辛い想いするんじゃないかなって気がするんだ。どういう事情かわからないけど実際合唱を壊してしまったも同然だから。あのクラスは元評議の人たちがたくさん集まっているからなんとかフォローしてくれると思うけど、それと同じことをうちのクラスでも考えなくちゃいけないんじゃないかなって気、するんだけど、どう思う」
さらに押し進めた。みな、しんと静まり返り茶々入れる奴もいない。男女ともに。
「宇津木野さんも、事情が全然違うとはいえきっと苦しいと思うんだ。俺もよくわからないけど宇津木野さんの演奏は二回聴かせてもらって鬼気迫るって感じだったし、俺にああいう話を持ってきたということはきっと音に対するこだわりが強かったんじゃないかな。けど、結果としてああいう形になり合唱そのものが流れてしまったということは、宇津木野さんにとってもきっと悔しくてならないんじゃないかな。少なくとも俺だったら罪悪感のかたまりになる。どんなにA組の人たちが責めなかったとしても、あれだけピアノが好きな人だったら、なおのことだよ」
止めどもなく言葉が溢れる。ついさっきまで自分の奥底にうもれていたものが言葉で形作られていく。目の前の疋田さんは瞳を潤ませ、ただじっと上総の言葉に聴き入っている。
「もし、疋田さんがピアノの伴奏を引き受けてくれたら少なくとも俺よりは宇津木野さんが聴きたかった合唱ができるんじゃないかって気がするんだ。もう賞には届かないかもしれないけど、だからこそこういうイレギュラーなやり方が許されるところもある。ここで最後まで歌い切ることができたらきっと、元気になった宇津木野さんをみんな暖かく迎えられるんじゃないかな。賞とは別に、音楽としての完成形を作り上げるためにベストを尽くしたってことでさ。来年、英語科は三年持ち上がりでもっといいものを作ればいい。伴奏は来年以降ふたりに返すから」
息もつかずまくし立てた上総を、後ろから男女問わず「そうかもな」「やってもいいかもな」「ま、賞とは関係ねえしな」「疋田ちゃんのピアノ好きだし」「宇津木野さんもきっと元気になるし」それぞれのつぶやきが支えてくれるようだった。
疋田さんが手を差し伸べた。口元がほんのり赤らみ、何かを決めたような瞳で、
「立村くん、『モルダウ』の楽譜貸してもらえる?」
語りかけ、ぐるりと取り囲んでいる生徒たちを見渡し付け加えた。
「本番前に一度だけ弾く練習したいのだけど、私だけ遅れて入場してもいい?」
一瞬空気の流れが止まったような気がした。同時に誰ともなく拍手が始まった。後ろなのか前なのか、一年A組の生徒たちが全員疋田さんを囲み笑顔で称えているように見えた。
「ありがとう、よかった」
上総をねぎらう気配はなかったが、それでよかった。これから上総にはまだやるべき仕事が山のようにある。廊下から激しい足音が響き渡る。たぶん奴だ。待ち人だ。
後ろ扉が開いた。息絶え絶えの藤沖が、苦しげにもたれながら叫んだ。
「お前ら、大変だ、関崎ども今渋滞にひっかかっちまったみたいで間に合わないかもしれん。申し訳ないが合唱は」
──こいつ、やる気だったのか。
瞬時に上総は藤沖へ告げた。
「藤沖、合唱に参加するか否かの決を今、ここで取ってくれないか」
「なんだと? あいつら戻ってこないなら無理に」
「評議ひとりの判断ではなく、クラス総意を確認してくれないか。それと、結果がでてもし参加することになったら」
留めを刺した。
「A組クラス評議として、すぐに肥後先生か野々村先生に参加する旨連絡を入れてくれないか。それと肥後先生を捕まえて、ピアノを少しだけ貸してもらって練習させてもらえるよう頼み込んでもらえると助かる。疋田さんを練習させたいんだ」
「疋田を練習って、どういうことだ? おい」
「俺が関崎の代わりに指揮者になる。伴奏は疋田さんが弾く」
「そんなこと聞いてないぞ!」
「悪いけど時間がないんだ。多数決でいいからお前の仕切りで取ってくれ」
「なぜ立村、お前に命令をされなくちゃいけないんだ!」
怒鳴り返す藤沖に上総は即答した。
「それが評議の仕事なんだ。時間がない、早く進めてくれ」
最終決議の結果、藤沖を含め合唱参加に反対するものはいなかった。
上総を睨みつけた後、藤沖はそのまま教室を飛び出した。
鐘が鳴り、放送委員の促す声がスピーカーから流れる中、上総と疋田さんを除いた一年A組の生徒は体育館へ椅子を運び始めた。




