その十七 歌い出し(3)
合唱コンクールの大まかなタイムスケジュールは、
・午前中一年全クラス終了後、いったん休憩。
・二年全クラス歌い終わったあと給食。
・午後から三年全クラス。
・審査委員長肥後先生より最優秀クラス発表および講評。
高校の合唱コンクールがどのような形で行われているのか見当がつかなかったのだが、話に聞いたところおおよそこんな感じらしい。しかし今回のように第一陣から急病人といったハプニングが起こるとなると、当然時間も押す。一年A組はいったん生徒たちの動揺を鎮めるために教室へ戻るよう指示があった。これも本来であればすぐ体育館内の椅子に腰掛けて他クラスの歌声に耳を傾けるのがセオリーだが、
──女子があの状態だと厳しいよな。
麻生先生の判断らしかった。事が起きた当初はただ呆然としていたA組の生徒たちも、状況が把握できるに従って女子の数人が激しくしゃくりあげだし手に負えなくなったというのも確かにある。疋田さんがしゃがみ込んだまま動けず、他の女子に支えられて教室に連れていかれたのも見たしもらい泣きしている子も多数いる。こういう場合に間に入るのが古川こずえなのだが、すでに宇津木野さんの付き添いで出ていってしまっているのでどうしようもない。男子連中は比較的のほほんとしていて、
「どうも俺ら不完全燃焼だねえ」
「優勝狙ってたんだけどなあ」
「まあいいや、先生もなんか哀れんでお恵みくださるだろう」
のんきなものだった。上総は楽譜を持ったまま教室に戻り、机しか残されていない教室でぼんやりと周りを眺めやった。最後まで弾けなかった「モルダウの流れ」のメロディを頭の中で再生した。
──最後まで弾くってことは、やはり大きなことなんだ。
母の言葉を噛み締める。どんなことがあっても弾き続けること、しかしそれは「友だちを思いやらない最低な行為」として断罪されている。もともと麻生先生の言葉なぞどうでもよかったし無視してもよかったのだが、指揮を放り出して飛び出した関崎を称える声が教室内でも圧倒的に多いとなると迷わざるを得ない。
「関崎くん、まじ王子様だったわ、ねえ」
「ほんと、いきなりだもんねえ」
さほどダメージを受けていないらしい女子たちは、関崎の颯爽たる駆け寄り方に感動が収まらないらしい。上総からしたら「いきなり投げ出した」としか思えないのだが、宇津木野さんが倒れる様子を誰よりも先に発見し、考えるよりも先に身体が動いたということにただただ心動かされているようだった。
──これ、C組だったら大変なことになってるな。
もともと合唱コンクールへの情熱が満ち溢れていないA組だったから、倒れて舞台をぶち壊しにした張本人である宇津木野さんと関崎に対して責める言葉は聞かれなかった。ただひたすら、宇津木野さんのことを思ってか涙ぐむ女子と、
「けど、やっぱり風邪かねえ。休めえねもんなあ」
さりげなく案じる男子たちの穏やかな声のみだった。
「何か俺たちもらえるようだったら、宇津木野さんにもあげたいね」
存在の薄い片岡が、藤沖にそんなことを話しかけていた。藤沖も黙って頷いていた。
一年A組の教室は体育館から離れすぎているせいか、すでに合唱コンクールが再開されているのかすらわからない。保健室に駆けつけた麻生先生が戻ってくるのにも少し時間がかかり、状況を把握できたのはそれからだった。
「お前らもショックがでかかっただろうが、宇津木野の体調も今楽観できない状態なんだ」
顔を真っ赤にしてもどってきた麻生先生は、生徒たちを机に座るよう指示し、腕組みして状況説明を始めた。かなり厳しい。シリアスといった言葉が良く伝わる。
「普通の貧血ならしゃがみこむなり目立たないように後ろに回り込むなりできたはずだが突然気を失ってしまったようで、打ちどころが悪ければ最悪の事態にならないとも限らなかった。幸い関崎と古川がすぐに保健室へ運んでくれたおかげで今、車で病院に運んでいるところなんだが」
小さな悲鳴が聞こえた。疋田さんが口を押さえ、目頭をハンカチで叩いている。
「疋田も心配だろうしみなも同じ気持ちだろう。合唱コンクールという晴れ舞台で起きてしまったことだけに、複雑な気持ちの奴もいるだろう。だが、今は申し訳ないんだが、宇津木野の体調が回復することだけどうか祈ってもらえないか?」
「先生、関崎と古川も一緒に付き添いで向かったのですか」
藤沖の問いに麻生先生はすぐに答えた。
「俺もこれからすぐに向かうが、あのふたりがどうしても心配だからということだったのでな。保健室の先生も一緒にいる。そういうわけで、申し訳ないんだが少し気持ちが落ち着いたところでお前らも体育館に戻れ。お前たちのことについては他の先生にも頼んであるから、ちゃんと言うこと聞くんだぞ」
──なーに子ども扱いしてるんですかって!
ここで当然飛び出してくるはずのこずえの茶化しも聞こえない。
みな、静まりかえっている。聞こえるのはただ、疋田さんのすすり泣く声のみだった。
そそくさと麻生先生が教室を大股に出て行ったあと、入れ替わりで現れたのは野々村先生だった。腕時計を思わず覗き込む。もう、合唱コンクールが始まっていればB組の順番も終わっていていい頃だと今更気づいた。目線を合わせないようにうつむいていた。
紺のスーツ姿で髪の毛をひとつにまとめ、見た感じいかにも銀行員の雰囲気漂う格好。ふだんの野々村先生といえばそれまでだ。たまたま今週は補習授業も免除されたこともあって、改めて野々村先生と顔を合わせる機会はなかったので胸をなで下ろしていたのだが、まさかこんな形とは。
──B組の一群が戻ってこないということは、体育館でずっと聴いているんだろうな。
「翼をください」がB組の自由曲だったはずだが、無事美里もクラスに馴染んで歌えたのだろうか。あの外部生・静内菜種は女子でありながら堂々とタクトを振ったのだろうか。見て見たかった気はする。
「麻生先生のピンチヒッターで今日は私が担当します。そろそろ一年生が全クラス歌い終わる頃ですが、十五分の休憩がいったん入ります。休憩が終わると同時に改めて整列し、私に従ってみな体育館に行きましょう」
微笑みは浮かべていなかったが、落ち着いてはいる。事情を把握はしているのだろう。ちらと野々村先生は上総に視線を向けたがすぐに元に戻した。
「みんな、気持ちとしては複雑かもしれません。でも、課題曲はみなしっかり歌えてましたよ。伴奏にもぴったり合っていて素晴らしいハーモニーでしたよ」
またちらと上総を見つめる。もしかしたらそれほど意味のある目線ではないのかもしれないが、事情持ちゆえにこそばゆい。ずっとうつむいたまま膝に置いた楽譜をなでていた。
「それとみなさんに、これは肥後先生からのお言葉なのですけれども」
野々村先生が、すっと背筋を伸ばし、足をぶらつかせている生徒たちにさらに呼びかけた。
「残念ながら、今回『モルダウの流れ』をA組のみなさんは歌い切ることができませんでした。合唱コンクールである以上、どうしても棄権という形にならざるを得ません。ですがもし」
語気を強めた。
「みなさんが順位よりも、クラスの団結を求めて最後まで歌いたいと思うのであれば、三年クラスが歌い終わった後みなさんのために時間を割きたい、つまり『モルダウの流れ』だけでももう一度歌うのはいかがでしょうか、ということです」
──いかがでしょうか、っていったい。
クラス全員、何を言われたかすぐには理解できなかったようだった。いつもならつっこみ入れるこずえがいないのでたた黙りこくったままだった。藤沖あたり何か反応しないのかと横目で睨んでみたが反応がない。
「野々村先生、よろしいですか」
上総は机から降り、野々村先生に呼びかけた。誰も返事しないのなら自分から行くしかない。楽譜を持ったまま一歩前に出た。なんだか目立つ。女子たちの眼差しが怖い。
野々村先生は答えずに優しく上総を見つめた。だからそれが恐ろしい。
「今のA組には指揮者が不在です。体調を崩した宇津木野さんに付き添って病院で待機していると伺いました」
いくらなんでも指揮者なしで合唱再開するというのは無茶だろう。関崎たちが戻ってくればまだしも、今は宇津木野さんの状態も詳細不明でとてもだがのんびりと合唱しなおすなんて気持ちにはなれない。もちろん上総も、まだ麻生先生の罵倒が心に響いている。
「でも、お昼には戻ってくるでしょう?」
「その段階で歌いたいと思える状態かどうか、正直判断つきかねます」
上総はまだピアノにかじりついていたから、もう一度チャンスがもらえるなら嬉しいと脳天気に思えるところもある。しかし、目の前で宇津木野さんが倒れるところを見た関崎と、舞台で間近にいた生徒たち、特に疋田さんのショックの受け方を考えればとてもだが野々村先生のお気楽な提案に乗る気にはなれない。A組生徒たちのあからさまな不快感はそのまま野々村先生に叩きつけられることだろう。できればそのまま引いてもらったほうがいい。縁のある先生だけに、陰口叩かれるのを聞くのはやはり辛い。
「立村くん、よく話してくれました。わかります」
ピントの外れた返事をした野々村先生は、そのあと小さく首を振った。
「ただ、私も肥後先生と同じ意見です。できればA組のみなさんには、全員揃っていない状態で辛いかもしれませんけれども、その欠けた状態で何ができるかを見つめつつ、もう一度新たな気持ちで歌うことを選んでほしいのです。どうしてもクラス全員揃わないと歌いたくないという判断であればそれはそれで尊重します。もし話し合いが必要だということであれば、お昼終了まで待ちますのでクラスのみなさんでじっくり考えて判断してくださいね。私は心から、A組のみなさんが歌う『モルダウの流れ』を聴きたいと思っています」
全員がぽかんとしたまま、何も発言できずにいる中上総だけが念を押した。
もう自分の立場として、義務と割り切ることにした。
「他の人たちが戻ってきた段階で判断していいでしょうか」
「そうしてください。みな、きっと気持ちは同じはずです。きっと倒れてしまった宇津木野さんも、みなさんがこんな形で終わってしまうのを決して望んではいないはずです」
またちらりと、野々村先生は上総を見やった。だから頼むからやめろと大声で叫びたい。上総が懸命に面倒な事情をごまかそうとしているのに、あの先生は自分からベールを引き剥がそうとする素振りを見せる。まさかとは思うが、そんなに野々村先生は父のことを。
──野々村先生、そう俺の顔ばかりみてうちの父さんの面影探ったって虚しいだけなのに。俺の外見は確かに父さんに似ているかもしれないけど、目は完全に母さんのものなんだから、絶対あとで先生、傷つくよ。
クラスメートたちの上総に向ける気味悪げな視線に丸まりそうになりながら、上総はこれからどうすればよいのかを大急ぎで考えることにした。野々村先生を信じるならば、関崎もこずえも昼前には戻ってくるはずだ。その段階で評議の藤沖も交えて判断させればいい。それにしても、
──なんで藤沖の奴、なんにも発言しようとしなかったんだろう。
あえて藤沖にだけはきつい視線を送っておいたが奴は片岡を相手に、一方的に何かを語っていた。もうあてにはならない、ということだけよくわかった。指揮者自体した段階で気づいておくべきだった。一年A組英語科はひとえに女子評議古川こずえの細腕だけで持っているという現実を。




