その十七 歌い出し(1)
いよいよ合唱コンクール当日の朝が来た。
──ほとんどぶっつけ本番って感じか。
早めに教室へ向かうと、すでに関崎、藤沖、こずえの三人が先客で語らっている。珍しい光景だった。一応挨拶を軽くして荷物を置き、楽譜を持って教室を出ようとした。
「あんたどこに行くのさ」
「音楽室。ピアノに触ってくる」
ふうん、といった風にこずえが頷いた。藤沖と関崎が顔を見合わせている。そりゃあ驚くだろう。この一ヶ月もの間周囲では上総がここまで真剣にピアノに練習に取り組もうとするとは思っていなかったのだから。家族はもちろんクラスメート、学校の先生まで巻き込んでよくぞここまでやり遂げたものだ。自分で自分を褒めてやりたい、というよりも自分のその根性に呆れてしまいたくなる。
音楽室に向かうとみな同じことを考えていることがよくわかった。手を慣らすため他クラスの伴奏担当生徒たちが列をなしている。諦めた。ちらと覗き込むと最後の仕上げで一生懸命弾いているのはC組の瀬尾さんだった。
──C組は本気出してるからな。すごいよな。特に男子連中がみな盛り上がっているようだし。天羽も羽飛も更科もいるし、難波の奴指揮者であれだけ命かけているし。
傍目から見ても難波の熱さはうざったいくらいだった。評議委員時代には陰を潜めていたのだが、練習の時から細かな声のバランスやらタイミングやら荒々しくダメだしに没頭している。それをうまくフォローするのが名コンビを組んでいる更科。やはり一年の優勝クラスはC組が本命なんじゃないだろうか。
すごすご階段を降りると、ちょうど一階の踊り場で羽飛がひとり体操に励んでいた。発声練習ではなさそうだ。声をかけた。
「立村、お前も今日まで長かったよなあ。うちのクラスの鬼の大特訓も今日で終わりだあ!」
「C組はすごいよな。勝てる気がしないしその気もない」
「とかなんとかいっちゃってまあ。でもまあ、今回は結構盛り上がりそうだわな。おい、それはそうとこれ終わったら明日なんか食いに行かねえか」
「そうだな。久々にピアノのことは忘れたいよな」
それと、と楽譜を閉じたノートを見せる。羽飛お手製のデザインを忘れさせるわけにはいかない。
「お、俺の名デザインをしっかり愛用してるよなあ、さっすが」
「役立ってる。本当に」
本番もしっかり楽譜立てに載せてしっかり譜面見ながら弾くことにしている。暗譜はしたつもりだがやはり、この譜面があるだけで心が落ち着く。何が、というわけではないのだが、持っているだけで何か感触が違う。
「まあ、互いにやるだけやって、勝ち負け決まったら握手だぞ絶対に!」
「わかった、じゃああとで」
A組の教室に戻ると関崎が席に近づいてきた。指揮者の義務だろう。
「今日は全力尽くすぞ。お前の責任は重いが、俺は信頼している」
「お互い様だよ。足を引っ張らないようにするから。そのくらいはできるし」
「頼む。俺もお前が頼りだ」
様子見している他の女子たちもたくさんいるが近づいて来ない。たったひとり、こずえだけが藤沖に話しかけつつ上総にも、
「ほんとよくあんたも弾けるようになったよねえ。お姉さんは嬉しくて涙もんよ。さあ、あとは腹から思いっきり歌うのみだよね。思いっきり行きましょエクスタシー」
「古川さん、それは違うと思う」
朝から爽やかな下ネタ女王のお言葉を頂戴すれば、いつも上手くいくような気がする。上総は楽譜に目を通しながら、指先で机を鍵盤代わりに叩いてみた。沈まない鍵盤だがたぶん、大丈夫。頭の中に確かな音色が響くから。
一年の下馬評を噂で聞く限り、圧倒的にC組が全校優勝しそうな評価を得ている様子だった。二年、三年の上級生たちがなぜ話題にのぼらないのかが謎なところだが実は、今ひとつ乗りが悪いのだという。クラス分けが英語科以外毎年行われているためまとまりが今ひとつとか、伴奏者をめぐる面倒な争いが関わってきたりとかでいろいろ大変らしい。上総もたまに中学時代の先輩たち……主に本条先輩の同期ともいうが……から話を聞かせてもらい怖気立ったりもした。幸い英語科A組はそこまで凄まじい戦いはなかったはずだ。まあ、自分が何も気がついていないせいかもしれないけれども。
「さあお前らお楽しみの合唱コンクールの時間がやってまいりましたと、いうことだ」
麻生先生は秋も深まりつつあるのに額の油を拭かないまま生徒たちに言葉を放った。
「お前らが毎日練習していた姿は涙ぐましいもんがあったなあ。もう余計なことは言わん。徹底して喉からすまで歌ってこい!」
「先生、優勝したら何かご褒美もらえるって聞いたけどあれどうなってるの」
こういう時の茶々入れはこずえと相場が決まっている。麻生先生は腕組みしてこずえを睨んだ。
「古川、そういうのはあとからのお楽しみってことにするもんだろうが。あせるともらいが少なくなるぞ」
「やだなあ、ケチ」
クラスの空気が和んだ。上総がそっと教室内を眺めやると男子連中はみな楽しげに笑っている。思えばみな練習を嫌がって逃げ出す奴もいなかったし、みな関崎や藤沖の指示に従って大真面目に口を開けて歌っていた。よそのクラスだと男女大喧嘩になったとかいう噂も聞くが全くもって平和だった。伴奏する上総の腕前をあげつらう奴も表向きはいない。
──あのふたり、どうしてるんだろう。
気になるのでさりげなく外を眺める振りしてついでに宇津木野さんと疋田さんのふたりを目で追った。ふたり仲良くひそひそ語らっている。こずえが言うには「あのふたり仲良しというわけではない」はずだったのだが、この一ヶ月でいわゆる女子の仲良しコンビに収まったようにみえる。ピアノが上手な同士、馬があったのかもしれない。
──クラスの団結力が強くなったかどうかはわからないけど、ここまでまとめたのはやはり古川さんの腕だろうな。
こずえがけらけら笑いながら他の女子たちにささやきかけている。クラス割れすることもなく、無事まとまったのはこずえが夏休み前から女子たちの細やかな感情をすくい取り、早急に手を打ってきたからだ。早い段階で気づかなかったら、上総が宇津木野さんや疋田さんを差し置いて伴奏に選ばれることもなかっただろう。不満がたらたらだったであろう女子たちひとりひとりに声かけして、褒めるだけ褒めてしっかりハーモニーをこしらえ、最後までアメとムチならぬアメをたっぷり与えて気分良く歌わせたその人心把握力、おそるべしといったところだ。
──それにくらべて、もう少し働けよ藤沖も。古川さんひとりに負担かかりすぎだろう。
いくら関崎が頑張ってくれたとはいえ、やはり評議たるものもう少しクラスに目を向けるべきじゃないのか。そう思いかけて上総は首を振る。とてもじゃないが自分がそれを口にできる身分では決してないのだから。かつての自分の姿は、たぶん今の藤沖と同じように見えていたのだろう。
──全校生徒のみなさん、全員廊下に並んでください。みな、椅子を持って整列し、一年生から順番に体育館へ集まってください。
放送委員の声がスピーカーからくっきり響く。全員自分の椅子を持ち派手な音を鳴らしながら出て行く。全員が教室から出て行ったのを確認し、上総は楽譜ノートを椅子の上に載せてそのまま男子最後列についた。関崎の後ろだった。指揮者と伴奏者は特例で最後尾の出入りしやすい順番があてがわれている。




