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その十六 かしましき隣組(4)

 わかってはいるんだが。

 ──やはり直接言われると、痛いよな。

 自転車を漕ぎつつ暗い帰り道をひた走る。

 

 あまりにも上総のピアノ能力が低すぎるからということは想像していたけれども、A組ピアニストふたりの感覚は上総の理解をはるかに超えていた。

 下手過ぎて聞くに耐えないから、代わりにやってあげたい、そのあたりでの声かけならばまだ上総の断り方でも角が立たなかったかもしれない。しかし、それ以上の、

 ──本能として耐えられない。

 となると言葉を失う。上総が努力を続けていることをふたりともわかってくれていて、感謝もしている、でも本能が受け付けない。その音が空間にあふれることそのものが、許せない。

 ──もっと先に言ってくれればよかったのにさ。もっと早ければ俺だってちゃんと引いたのに。

 今更ながらずんずんと突き上げてくるものはなにか。罪悪感とは思いたくない。


「上総、ほら、早く食事済ませてお風呂入ったらすぐに練習するわよ」

 まだ六時過ぎだというのにもう母が手ぐすね引いて上総を待っていた。わざわざ玄関の車庫前でうろうろするくらいだ。もたもたして怒らせたらまずい。一目散に玄関に飛び込み、すでに用意されているハンバーグランチを一気に流し込んだ。やはり母の料理は上手だと認めざるを得ない。ちゃんと火が通っていて、そのくせ固くない。

「何時くらいからうちにいたの」

「五時頃よ。打ち合わせが早く終わったからすぐにこっち来て、あとは料理の準備とかいろいろしてたわよ」

 母は風呂場に走り、すぐに戻ってきた。

「お湯が冷めないうちに早く入りなさい。あんたが上がるまで片付けものしているから安心しなさいよ」

「何、安心って」

「決まってるじゃないの。あんたの部屋に勝手に上がり込むことしないわよってことよ」

 ──少しはプライバシー保護の意識芽生えてきたのか。

 母もそれなりに上総対応については学習しているということかもしれない。


 だいぶ熱いお湯につかりさっぱりしてから、母を伴い自分の部屋に入った。鞄から楽譜を取り出している間、母は上総のベッドに腰掛け、部屋中を注意深く観察し、

「あのキーボード貸してくれたお嬢さんにお礼しなくちゃいけないわね」

 すでにお役御免となり、ケースごと立てておいてあるキーボードに目を留めた。

「弟もいる人だから、家族みんなで分け合えるクッキーみたいなのがいいかもな」

「美里ちゃんの友だち?」

「そう、親友だろうな」

 電子ピアノの電源を入れながら上総は答えた。

「ならいい子なのね」

 ──下ネタ女王だけどな。

 もちろん親に言っていいことと悪いことは分けてある。上総は楽譜を広げ、

「とりあえず、通しで弾いてみるから、悪いところあったら終わってから指摘してもらえばいい」

 それだけ伝え、「恋はみずいろ」「モルダウの流れ」を順番に弾き始めた。


 ──それにしても母さん随分おとなしくなったよな。

 月曜の夜から稽古を見てもらっているが、数カ月前に「エリーゼのために」の練習をしていた時とは天と地の差、冷静そのものでかっと頭を沸騰させることもない。最初は何か企んでいるのかと上総なりに用心したのだが、どうもそうではないらしい。母の想像以上に上総のピアノの出来が満足行くものだったらしく、「ここはもう少し力強く弾いたほういいんじゃないの」とか「ペダルはゆっくり踏んだほうが効果的よ」とか、ピンポイントの説明に留まっている。最初からそう言ってくれれば、もう少し早くピアノを好きになっていたかもしれないと思う。本気で習いたいと小学時代からねだっていたかもしれない。

 一通り弾き終え、振り返り母の顔を見やる。

「まあ、こんなもんじゃないの」

「珍しくあっさりだな」

「だってしょうがないじゃないの。今更怒ったってあんたの腕がピアニストレベルに上がるわけでもないし。合唱とは合わせて練習してるって言ってたわよね」

「一応は」

「そう、それならいいんだけど。ソロ演奏と違って合唱の伴奏はとにかく歌と指揮者に合わせて自分を控えるような形で弾いたほうがいいから、あんたの弾き方で十分よ。あとはそうね、指揮者の子とはしっかり打ち合わせしとくのよ」

 おとなしくなったのではなく、諦めているだけだったのかもしれない。拍子抜けした。言われていることは間違っていないので拝聴する。母は続けた。

「指揮者の男の子は、初めてだと言ってたけどもどうなの、ちゃんとできてるの」

「どうだろう、慣れてないからな、あいつも」

 上総の目から見て関崎の指揮者ぶりは、正直はてなマークがつく。テンポをしっかり守っているところはしっかりできていると思うのだが、それ以上に何か意識しているとは思えない。生きたメトロロームといった感じだ。隣組のC組練習を見ていると、難波の燃え方と叱咤ぶりが強烈すぎて、つい関崎の佇まいに不安を感じてしまうところもある。

「歌わせると見事なんだけどな」

「あら、その子歌上手なの」

「うまい。歌謡曲からクラシックまでなんでもいける」

 カラオケの話はもちろん隠す。

「それなら指揮者よりもパートリーダー向きだったのかもしれないわね」

「俺もそう思う」

 短く上総も答えた。来年は関崎を指揮者にするのではなく、パートリーダーにするか男声ソロパートのある合唱曲を探すかしたほうがいいかもしれない。藤沖にはなんとしても指揮者をあてがわねばならない。もしくは女子でもいいのではないか。それこそこずえにやらせるのが吉ではないのか。


 何度か練習を繰り返し一休みすることにした。

「あんた何か飲む?」

「冷たいものがいいな」

「もう寒いんだから、生姜汁にしときなさい」

 ──そこまで寒くないよ。

 部屋を出て行ったあと、改めてピアノの鍵盤を押して見る。しっかりしたピアノの音がする。特に学校のアップライトピアノとの違いは全く感じない。それでも、

 ──あのふたりからしたら、全く違う音色なんだろうな。

 聴き分けできない自分の耳に寂しくなる。

 母も上総の演奏そのものを罵倒することはなかった。最初から高いところに達せないことを承知しているせいかもしれない。クラスメートたちも本心はどうだかわからないが、上総の演奏したテープを聞いてぶちぎれている姿を見たことはない。たぶん、それで歌えないことはない、程度の演奏と思ってくれているのだろう。

 昔から本番には強い。準備段階ではいろいろ思い悩むこともあるが、いざ本番舞台に立つとほぼ百発百中、冷静にこなせる。多少ミスタッチしでかしたとしてもごまかす度胸はある。ただ、

 ──どちらにしても耐え難い音なんだろうな。

 少なくともあのふたりにとっての上総の演奏は、我慢ができないものなんだろう。

 そこに努力や感謝が交じる余地はない。肥後先生の言葉に従うならば。


「上総どうしたの、暗い顔して」

 生姜汁のあつあつを持ってきた母が、上総の顔色をちらとみやった」

「なんでもない」

「あんたにしては珍しく緊張しているわけ?」

「してないよ」

 適当にいなし、生姜汁をゆっくり口に運ぶ。最初いやいやだったけれども適度に甘く、身体に染み渡った。こういうのが欲しい気分では確かにある。母はまたベッドに腰掛けた。

「もう泣いても笑っても明日しかないんだから。ひとつだけ言えることは、上総」

 同じく自分の生姜汁をこくりと含み、ふうっと息を吐いてから、

「全員舞台に上がって、合唱が始まったらもうここから先はどんなことがあっても最後まで弾き続けなさい。舞台ってのはね、本当に何が起こるかわからない。天変地異があるかもしれない、演奏中に誰かが体調崩して倒れるかもしれない。でも、何があっても演奏しているあんただけは何がなんでも引き続けるの」

 上総は黙って母の顔を見つめた。見つめ返された。自分に似ていると言われる瞳だった。

「それがあんたの役目。多少弾き間違えようが何しようが絶対に止まっちゃだめ。とにかく最後の一音までしっかり鍵盤を叩くこと。それをやり遂げられれば、あんたの下手な演奏でも十分仕事をしたことになるの」


 ──最後まで弾き続ける。

 母の言葉に素直に頷けることはあまりなかったが、今だけは大きく首を縦に振った。

 ──俺にできることは、合唱をどんなことがあっても中断させないこと、最後まで歌い上げられるよう演奏すること。できる、やってみせる。

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