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その十六 かしましき隣組(3)

 合唱コンクール前最後の音楽授業が終わった時、肥後先生に放課後呼び出された。

 音楽室に向かい他クラスの生徒たちがピアノを奪い合って演奏しているのを横目で見つつ上総は、奥の音楽準備室へと向かった。なんだか嫌な予感がする。きっとたぶん、あのことだろう。わかっている。


 自分がどうしようもなく下手なのはわかっているし、周囲からも不安がられているのはわかる。きっと親切心から来た申し出なんだ。頭では分かっていてもすっきりしない。

 ──そうだよな。ピアノ専門にずっと練習してきた人からしたら、俺がいくら練習したとしても物足りないだろうし、それに完璧に合っているともいえないしさ。

 放課後の練習も上総の弾いたテープを用いることになり、結局生ピアノと合わせることができるのはせいぜい一回あるかないか。どうしようもない。

 なんとなく宇津木野さんと疋田さんと接するのも気が引ける。もともと女子と話をするのも特定の相手を除いてそう得意ではない。

 ──でもふたりがやる気出してくれたのだったら任せてもよかったんだろうか。

 いや違う、それは逃げだ。思い直す。

 ──俺だってそれなりに練習してきたんだからさ。いまさら合唱に回されるのはたまったもんじゃないし。

 あれからいろいろ考えたけれども、自分からふたりに伴奏を任せるというのはやはり間違っているような気がしてならなかった。どちらにせよもう伴奏者を変更するなんて非常識なことが通じるわけがない。たとえ、上総がろくすっぽ弾けなかったとしても。


「立村くん、少しいいかな」

 肥後先生はピンクのワイシャツ姿で上総を迎え入れた。穏やかに笑っているが、何か腹に一物ありそうだ。身体がこわばるのを感じる。

 またクーラーボックスから冷やした紅茶のポットを取り出し上総のカップに注いでくれた。

「合唱コンクールまで、もう少しだね」

「はい」

「今日の授業でも、よく弾けていたよ。よく練習したんだね」

「ありがとうございます」

 最初はねぎらい。ありがたいことではあるけれども、そのまま受け取ることはできない。まだ用心したまま、上総は冷たい紅茶を飲んだ。すでにいろいろな先生に教えてもらっていることや、最近は母にしごかれていることも伝えてある。

「君の努力は必ず報われるから、心配してないよ。当日楽しみにしているよ」

 ──あれ、先生てっきり俺を外すつもりで呼んだんじゃないのか?

 肥後先生が何かを言いたそうにしていたのは、たぶん上総に伴奏者から降りることをすすめるつもりなのだろうと思っていた。あのピアニストふたりが申し出るくらいなのだから音楽教師の肥後先生も何か言いたいことあるのかもしれないとも。先生に言われたら悔しいがそのまま従うしかないだろう。その覚悟できた。

「あの、それでは僕が弾いていいんですか」

「弾かないつもりだったのかな」

 おもしろそうに肥後先生が尋ねる。何かを聞き出したそうだった。ということは、上総ひとりの取り越し苦労だったというわけか。

「そういうつもりではありません」

「いやね、今日君に来てもらったのはひとつ、伝えたいことがあったんだよ」

 肥後先生は紅茶を飲み干しまた次ぎ直した。

「立村くんは、宇津木野さんと疋田さんに何か言われなかったかな」

 取り越し苦労どころではなかった。もろにポイントついてきたではないか。答えに迷う。その間で一瞬のうちに見抜かれてしまったらしい。肥後先生はこくこく頷いた。

「答えなくてもわかっているよ。ふたりが僕のところにも陳情にきたからね」

 ──それほんとかよ!

 信じられなかった。あの申し出の日からしばらくあのふたりとは話をしていないがやはり、上総の伴奏にがまんがならなかったのだろう。やはりあの時黙って受け入れていればよかったと後悔するもあとの祭り。背中から頬が熱くなるのを感じる。

「立村くん、ふたりも立村くんを傷つけてしまったのではないかと心配していたし、その上で彼女たちも譲れない部分があるということで僕に話に来たということなんだ。君は悪くないし、むしろこのまま当日は伴奏をしっかり勤めてほしい。ただ彼女たちも君のピアノの腕前をばかにしてあんなことを言ったわけではない。それだけはわかってほしいんだ。今からその説明をするよ」

 気がつけばまた、冷たい紅茶が上総のカップにも継ぎ足されていた。


「音楽を愛するもの、僕もそのひとりだ」

 肥後先生はたっぷり間をとってそう語り始めた。

「音楽好きというものはね、少しやっかいな病を持っている。まあどの芸術や技術においても同じなのだが、崇高のレベルをどのような場所においても求めてしまう性がある」

「崇高ですか」

「そうなんだよ。ここは青大附高、いわゆる教育の場。その場所で行われる合唱コンクールにおいても、音楽教師である以上いや音楽を愛する以上、最高のハーモニーを奏でてほしいと強く願っているんだ。たとえ生徒のみなさんが単なるイベントのひとつと受け取っていてもね。全力つくしてほしいし、できる限りの美しい歌声を聴かせてほしい。もはやこれは本能だね」

 上総が頷くのを満足げに見つめ、肥後先生は両手を指揮者のように振った。

「その一方で、限界があることも理屈ではわかっている。まだ変声期が終わっていない生徒もちらほらいるし、音楽自体が苦手な生徒もいる、いわゆる音程が取れない生徒もいるし、僕の経験だと耳が不自由な生徒もいた。彼ら彼女らは全力を尽くしてくれたし、もちろん努力も重ねていた。今回のように、立村くん、ピアノが自宅にはなかったにもかかわらずさまざまな方法で練習している生徒もいる。僕は『教師』としては君を含む生徒たちを心から応援するし、誇りに思う。これも本心なんだ」

 ──何が言いたいんだ?

 上総が首を傾げると、肥後先生はまた頷きつつテーブルを指先で叩いた。

「ハーモニーの美しさと生徒たちの価値ある努力。それがイコールになりさえすれば最高の合唱コンクールになるだろうし、順位はともかく心に残る音色を奏でられる。だがいかんせん、こればかりはなかなか不等号マークがついてしまうことも事実なんだよ。何が言いたいかわかるかね、立村くん?」

 ──わからないよ。

 上総が返事をせずにいると、肥後先生はうつむきつつ、ゆっくりと、

「僕はね、立村くんのピアノが決して出来が悪いとは思わない。君は全力を尽くしている。できる限りのことをしている。いやそれ以上だと思う。だがそれは僕の『音楽教師』としての見方であっていざ学校を出た瞬間どうしても許せない一線が生まれる。決して君のせいではなく、自分の求める完璧な音色と程遠いことが許せなくなる瞬間がある。具体的にいうと、ピアノの発表会でまだドレミもたどたどしい幼子が『きらきら星』を一生懸命弾き終えて満面の笑顔でもって挨拶したら僕は全力でねぎらいの拍手を送ると思う。どれだけ頑張ってきたかがわかるからね。ただそれを、自分の聴きたい音色かと問われれば残酷だけどノーと言わざるを得ない。その違いといえば、わかるかな」

「なんとなくわかります」

 すとんと落ちた。そういうことか。

「宇津木野さんと疋田さんは子どもの頃からピアノの英才教育を受けていたと聞く。良い先生について一生懸命練習してきた。またその過程で磨かれた音楽への感性で自分の求めるハーモニーというものに強いこだわりが生まれてきたんだ。音に対する感性が鋭すぎて、ずれすぎている曲や歌が許せなくなってしまっているんだ。もちろん合唱コンクールの目的も理解している、立村くんが今回あえて立候補してくれたことには感謝しているんだよ。ただ、どうしても音楽のハーモニーが自分たちの求める音ではないことにストレスを感じてしまっている。そう感じる自分自身も許せない。ふたりとも自分みずからまいた種であることを自覚していて、その責任を取るためにあえて、あのような申し出をしたというわけなんだ」

「つまり、僕の弾いた音色では、あのふたりの求めるハーモニーには届かないということでしょうか」

 声が震える。わかっていても、突きつけられるのが辛い。

「誰が弾いてもきっと同じことを言ったかもしれないね。プロの伴奏専門ピアニストを頼まない限りあのふたりは満足できないと思うし決してこれは立村くんの問題ではない。僕もふたりの意見は一通り聞いた上で伴奏者変更は認められないということと、今回はそのハーモニーのなかで折り合いを付ける努力を求めることにした。同時に立村くんにもふたりが悪意を持って君に申し出たわけではないということを伝えておく約束をした」

「悪意、ではなくて」

「そう。悪意ではない。ふたりはただ音に対して鋭敏過ぎるだけなんだ。だが、社会に出れば決して美しい音以外のものを浴びせられることになる。今のうちに慣れておく必要があるし、ふたりには別の視点で今回学んでほしいことがたくさんあるからね」

 肥後先生は締めた。

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