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その十六 かしましき隣組(2)

 美里の宣言を耳にしてからその後の記憶があまりない。教室に戻ってきたクラスメートたちとそれなりに話をしたはずだし、関崎とも無難に挨拶をしたはずだった。こずえとも朝の爽やかな下ネタ攻撃を交わしたはずだ。いつもと変わらない朝であり、そこから続く授業も昼休みまで特に何かが起こるでもなかった。普通に給食を食べ、昼休みの合唱練習も、上総は伴奏役だから聞いているだけで済む。

 ──清坂氏は、本当に、そう思っててくれたんだ。

 何度も本人から直に伝えられていたけれども、信じられなかった言葉。

 ──あんな、クラスの担任にまで言い切れるほどに。

 ずっと耳の中、旋回し続けるその言葉。

 さすがに盗み聞きしていた立場だし、美里にお礼の言葉を伝えるつもりはなかった。

 美里だってまさか上総が扉の向こうで聞き耳立ててたなんて知ったら赤面するか激怒するか、とにかく普通の反応では済まないだろう。さらに上総側にはもうひとつ、絶対に秘めておかねばならない事情がある。隠すつもりではいるけれども、何かの表紙で野々村先生に「上総くん」なんて呼ばれているところを見られたら身の破滅だと思う。

 ──どういう事情かわからないけど、俺としてはできるだけ清坂氏がふつうにしてられるように振舞うのが一番いいのかもしれないな。

 まずは静観することにした。どうせA組には美里の大親友たるこずえがいるし、ある程度の事情はそこからもれてくるだろう。関崎と親しい静内菜種の存在が少しやっかいだが、上総とは面識もないし気にすることはないだろう。


「立村くん」

 女子に呼びかけられることは特定の相手を除いてそれほどない。振り向くと真後ろに宇津木野さんと疋田さんのふたりが並んで立っていた。上総に用事があるのだろう。ちゃんと顔見て待っている。

「何か、用?」

「少しだけいい?」

 小柄な疋田さんが思いつめた表情で上総の様子を伺う。

「いいけど、何か」

 なんとなくよくない予感を感じるが、しかたない、できるだけ自然な顔で受け入れることにした。背高のっぽの宇津木野さんは黙っている。言いにくそうな内容だということだけは予想がついたので、上総の方から廊下に出るよう促した。

「あの、立村くん、伴奏のことなんだけど」

 廊下の窓辺に立ち、通り抜ける他クラスの生徒たちを脇に流しながら上総は疋田さんの話を聞いた。ふたりとも目つきが堅い。睨みつけるような悪意はないが、決意が鋼鉄状態といえばいいのか。少しだけ恐怖を感じる。

「もし、立村くんが大変だったら私たち、一曲ずつ担当してもいいの」

 疋田さんが両拳を握り締めたまま、すっと顔を上げた。

「私たちのわがままで立村くんにはいろいろ迷惑かけてしまったけど、本当に大変な思いをさせてしまって、申し訳ないって思っているの。私も宇津木野さんも」

 隣で宇津木野さんが、やはり真面目な顔で頷いた。すぐに疋田さんが引き継いだ。

「八月半ばの段階では私も宇津木野さんもとても辛くって、どうしても私たち、一緒に比べられるようなとこで演奏したくなかったの」

「それ、古川さんから聞いてる」

 さらっと答えた。

「こずえちゃんに頼んだら、誰かクラスにひとりかふたりはピアノ弾ける人がいるはずだしって探してくれたんだけど、まさか立村くんだとは私たち、思ってなくて」

「いや、それ、話聞いて、俺の方から手を挙げたようなもだし、気にしなくても」

 口を挟みかけた上総に、

「音楽室で一生懸命練習しているとか、わざわざ短期でピアノを習いに行っているとか、こずえちゃんの家におじゃまして練習しているとか、いろいろ話を聞いてて、私、自分たちのことばっかり考えていて、こんなに迷惑かけているなんて思わなくて、それで」

「そんなことないよ、弾く程度はできたし、それだけで」

「でも、頼むべきじゃなかったと思う!」

 いきなり宇津木野さんが首を振って、はっきり発言した。

「そんな、人に迷惑いっぱいかけて、伴奏から逃げ出した私が悪いんだと思う」

「いや、悪くないよ、あの、俺も本当は合唱するよりピアノ弾いているほうが性にあっていると思うし」

 妙に二人がへりくだって頭を下げる姿に、ぼこぼこした違和感がある。

 なぜ、本番まで一週間もないというのにいきなりわけのわからないこと言い出すのだろう。もっと早く言い出したのであれば上総も納得できるのだが、よりによってこんな時期になぜ、そう、いきなり自分たちが弾きたいと考えを翻したのだろう。

 そろそろ鐘の鳴る頃だ。腕の時計を覗き込み、わざとらしく話を切り上げよう。

「確かに俺もあまり上手じゃないことは自覚しているし、宇津木野さんや疋田さんのようにすごい演奏はできないけれど、でもそれなりにやることはやってる。少なくともこれ以上クラスに恥をかかせないように練習はするつもりだから、それにさ」

 せっかくの善意をつっかえすようで申し訳ないとは思う。きっと二人の方が断然素晴らしい演奏をする保証付きだし、上総がここであっさりやめて頭を下げたほうが丸く収まるのかもしれない。だが、せっかくここまで積み重ねてきたもの、家にも今は電子ピアノが鎮座ましている。ありがたくはないけれども臨時講師が我が家で待ち構えている。ここまで準備整えた状態でいきなり、あの話はなしにするのはやはり抵抗がある。


「あれ、どうしたの? 立村くん」

 B組の教室からひょいと顔を出した美里が近づいてきた。たまたま上総たちの話し合いしている場所が美里の視線とかちあったのだろう。びっくりしている宇津木野さんと疋田さんに美里は笑いかけ、

「何か深刻そうな話、しているようだけどもしかして合唱コンクールの伴奏のこと?」

「聞こえてたのか?」

「あんな大きな声で話してたら当たり前じゃないの」

 美里は上総の腕をブレザーの上から突き、女子ふたりに首を振って安心させるような口調で話しかけた。女子だし多少の面識はあるのだろう。

「私もね、立村くんの練習を何度かこずえんちで見てたけど、本当にどんどん上手になってたよ! 最初、『エリーゼのために』弾いていた時はそれなりだったけど、日を重ねるごとにどんどんうまくなってるなあって。私も小学校卒業までピアノ習ってたし、ある程度はわかるつもりだけどね。だからこずえもA組の評議として、立村くんにピアノまかせていいかなって思ったんじゃないかな。私も、もしこずえと同じ立場だったらそうしてたもん」

「清坂氏、いいよ、そんな」

 なんだか美里が暴走しそうで、よりによってこんな場所ではまずいとも思う。適度に牽制をかけてみる。もちろん上総を褒めてくれているのはありがたいのだが、目の前のふたりがピアノの技量に関して疑問符を浮かべているのも否定できない事実だったから。 

 美里には通じなかった。さらにぺらぺら続ける。

「十月には学内演奏会あるし、きっとそちらの方も大変だと思うんだ。だから立村くんのように、めったにチャンスもらえない人のためにも伴奏は譲ってあげたほうがいいよ。私、伴奏よりもむしろ演奏会で宇津木野さんのピアノ聴きたいもん。一度クラシックですごい曲弾いてたことあったよね?」

 ──そんなことよく覚えてるな、清坂氏。

 上総には記憶にない。まくしたてる美里が黙るまで待つしかない。

「清坂さん、違うの、あの、私たち」

「あ、鐘が鳴るね。じゃあ、また後でね、立村くん。ごめんね、割り込んじゃって」

 何か言いたげな疋田さんと宇津木野さん、そして上総を廊下に取り残し、美里は大急ぎでB組の教室に戻っていった。


 しかたない。美里にかき回された分はフォローするしかない。上総は頭を下げた。

「ごめん、清坂さんも悪気があって言ったわけじゃないんだ。けど、今回だけ伴奏やらせてもらえるんだったら、来年以降はもう、ふたりに返す。それ、約束するから、ごめん」

 そこまで言った後、上総も教室に戻った。A組ピアニストふたりの表情が暗かったことはあえて気づかないふりをした。

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