その十六 かしましき隣組(1)
次の朝は母から逃げ出すように学校へ向かい自転車を漕いだ。下手したら早朝から練習させられるかもしれないがそんな近所迷惑になることなんてしたくない。さっさとコーンフレークをかきこんで、まだ母が寝ている間に飛び出した。
寝る前に軽く弾いて見たが、やはりこずえの貸してくれたキーボードとは全くもって音が違う。電子ピアノとはいえ、学校で練習しているアップライトピアノとほとんど変わらない感触あり。本当はもっと練習したかったのだが、張り付くであろう母の存在が少し重たすぎてちょっと距離を置きたくもなる。
──まさか、本当にピアノもらえるなんてな。
人からの貰い物だとか、若干埃っぽいとかそんなのは気にならない。これから先、印條先生のもとに通うことになれば……もっとも父との関係がどうなるかにもよるが……毎日時間を区切ってそれなりに練習をすることになるだろう。ただ話がまた予想しない方向に進んで、母のレッスンを押し付けられることになるかもしれない。それはなんとしても避けたい。
青潟の早朝はだいぶ冷えてきた。ブレザーで漕いでも身体が暑くなりすぎない。
校門に入り、芝生やグラウンドのあちこちで合唱の練習をしているらしきクラスの集団を見かける。他の学年だろう。たいていラジカセを用意して音を合わせている。どこも同じことをしているのだろう。さて一年A組もどこかで練習しているはずなのだが、残念ながら上総にはその情報が入ってこない。こずえや関崎がそれなりにやり取りしているのだろう。取り急ぎ生徒玄関から教室に寄り鞄をおいて行く。他にも鞄をおいている生徒はかなりいるのだが姿がない。きっと部活の朝練習なのだろう。
運がよければ音楽室に潜り込めるかもしれない。たいてい音楽室は朝早く空いていることが少ないのだがさすがに合唱コンクール一週間を切っているのだったら少しは肥後先生も融通してくれそうな気がする。楽譜を持ち、一年B組の教室前を通り抜けようとした時だった。
「先生、これ以上私の友だちの悪口言わないでいただけますか」
聞き覚えのある声が響き渡った。思わず立ち止まった。しっかり扉が封じられているが、はっきりと聴き取れる。廊下には上総ひとりだった。
「悪口じゃないのよ、清坂さん。ただ、あなたのとっている行為はクラスのみんなを傷つけているわけですし」
「私はちゃんと練習に参加しています。義務は果たしています。現に今日もこうやって朝連に来ました。勝手に別の場所で練習しているのは静内さんたちの意図でしょうが私にその知らせは入りませんでした」
美里のぴりぴりした口調がいやでもつんざく。上総の他に誰もいないことだけが救いだ。どうも今朝はB組メンバーの合唱練習が美里を除いた連中のみで行われていたらしい。しかも言い合いの相手は、
「野々村先生、確かに私は一時期練習に参加しなかったこともありますしその点は反省しています。ただクラスの行事に参加しないとか協力しないというわけではありません」
「それはわかっているのよ。ただ清坂さん、あなたはどうも誤解されやすいと思うの」
「どういうことでしょうか。友だちの手伝いをしたりすることでしょうか」
ぞくりとする。明らかに上総はどこかのパーツで関わっているはずである。手元のしゃれた楽譜ノートをがっちり抱える。野々村先生の口調も穏やかそうに見えているがどこかぴりぴりしている。昨日語らった際に浮かべた謎の微笑みとは百八十度異なる。
「私も中学時代は評議委員してましたしクラス一丸でイベントに参加する必要は感じてます。ですが、先約があってどうしても参加できない日もあります。私の場合は、友人と先約があり、どうしても最初のうちはさぼったと思われてもしかたないかもしれません。でも、最初からやる気が全くないというように決め付けるのは間違っています」
「清坂さん、今朝あえて早く教室に来てもらったのはね、私も担任として一度きちんと清坂さんと話をしておきたかったの。静内さんがクラスをまとめるために力を注いでいることも、そのために疲れ果ててしまっていることも」
「評議委員であればそれは当然です。分かりすぎるほどわかります」
──清坂氏のいうことは正しすぎるほど正しいよ。
野々村先生には悪いが、廊下で立ち聞きしている上総としては美里の肩を持たざるを得ない。
「私も彼女のやり方が間違っていると思ったことはありません。当然ですが協力もしているつもりです。ただ、外部生の方にとっては戸惑うことも多いかもしれないと思って入学当初いろいろアドバイスしたつもりでしたが、それがよけいなお世話だったのかもしれないという反省は確かにあります」
「そうね、その自覚はあるのね」
──野々村先生結構いうこというよな。
恐ろしいものだ。上総、および父に向けられた上品な微笑みと重ならない。
「清坂さんは善意のつもりだったかもしれないけれども、もともと静内さんは自分で切り盛りできる人だったからかえってうっとおしかったのかもしれないわね」
「そのこともありますから私なりに規律委員の立場で協力は惜しまなかったつもりでいますが、結局静内さんには伝わらなかったようで残念です」
──清坂氏、喧嘩売ってるよ、どうするんだよいったい……。
話のつじつまを合わせていくと、おそらくだが野々村先生は美里を早朝なんらかの理由をつけて呼び出し、突然の個人面談を行おうとしたらしい。一方美里は合唱コンクールのクラス朝練があるものだと思い込んで教室に入ったところ、野々村先生に説教されるはめになったというわけか。もともと美里と野々村先生との相性はよくなかったし、クラス練習も最初のうちは上総の手伝いもあって休むことも多かったのかもしれない。こればかりは上総の責任としか言えないし、申し訳なく思う。今思えば誰か別の奴を誘いこずえ宅での練習を行えばよかったのかもしれない。そこまでさすがに頭が働かなかった。
しかし、美里の言い分が正しいとするならば、クラス評議の静内も随分やることやるものだ。美里を除くクラスの女子たちを集めて別の場所で練習し、あえて無視を決め込んだということか。もしそうだとするならば、女子の陰険さに震え上がるしかない。ただこれは美里の思い込みであって実はたまたま連絡がうまくつかなかっただけかもしれない。一方的な判断は禁物だ。
──それ以前にこのまま話し合いしてていいのかよ。まだ八時前だけど、部活の朝練習している奴だってたくさんいるし、そもそもB組連中だってそろそろ集まってきても不思議ないだろうし。うちのクラスだってさ、そろそろ誰か来るだろうし。
やはり盗み聞きしているのはよくない。上総はそっと自分のクラスに戻ろうとした。
「静内さんは真面目な人なの。一生懸命過ぎるところはあるかもしれません。純粋過ぎて異質なタイプの人を受け入れにくいところがあるのは確かかもしれません。ただ、清坂さんの行動はクラスの人たちに誤解を招く可能性が大だったのではとも思いますよ。クラスよりも他クラスの男子たちを優先しているように見せたり、そういうところで必要のない誤解を静内さんがしてしまった可能性はあります」
「失礼ですが野々村先生、私のことを相当誤解なさってらっしゃるようですね」
美里のぴんとはった声に、上総は身動き取れなくなった。A組の教室で扉をほんの少し開けて、耳を澄ますのみ。
「母からも聞きました。私が不純異性交友をしているのではないかとご心配いただいたと伺いました。お気遣いいただきありがとうございます」
思いっきり皮肉をまぶせたあと、
「私とそのような交際をしている相手とは、C組の羽飛くんでしょうか、それともA組の立村くんでしょうか。それともまた別の相手でしょうか」
──清坂氏、何、考えてる?
身体を斜にして隙間からB組の美里の姿を透視してみる。もちろん無理だが、長年見守ってきた美里の凛々しい立ち姿だけは思い浮かぶ。
「そういうわけではないのよ、ただ私も、女子はデリケートだから、一番大切な時期ですし」
しどろもどろの野々村先生に向かい、美里はあくまでも美里らしい言葉で矢を放った。
「羽飛くんも立村くんも、私にとっては中学三年間を共にしたかけがえのない友だちです。彼らが男子だからというただそれだけの理由で私にそのような疑いをかけるということは、彼らふたりを侮辱することになります。私は断じてそのことに抗議します!」
その矢が野々村先生に刺さったかどうかはわからない。確実なのは扉を閉めた上総の手が完全に震えていたことだけだった。刺さったとすればきっとそこだ。




