その十五 家族団欒(3)
──父さんががなぜ、「合唱コンクールの伴奏」という切り札を出したのか。
母に半ば襟首掴まれるような形で台所に引き摺られ押し込められ、ひとり真っ赤なナポリタンを作らされるはめと相成った。締め切られた母の部屋にて父がどういう話をしているのかは知るよしもなく、上総は三人分のパスタを茹で上げた。さあこれから今度は手のついていないケチャップの蓋を開ける。
換気扇を回しトマトとひき肉の匂いが立ち込める空気を入れ替える。それにしてもなんで母はこんなシンプルイズベストの環境で満足できているのだろう。最低限の料理道具しかないのはなんでだろう。品山のうちの方がはるかに手の込んだ道具だらけなのだが。
──やっぱり、未練なんだろうな。
たっぷりこしらえたトマトソースに麺を合わせからめている間、上総は扉の向こうにいる両親の心理を読むべく耳を澄ませた。全く声が聞こえてこないところみると内緒話か、どちらにしても上総には聞かれたくない話をしているに違いない。それなら上総も出来立てのパスタの前でのんびり自分なりの推理を組み立てさせていただく。
──しょっちゅううちに来ているとかいっても所詮は別れた夫婦だからな、うちの両親は。たぶん、印條先生のように母さんのことを悪く言う人とかに父さんもいらいらしてただろうし、なにより母さん自身の身勝手な行動に頭に来てたのがまとめてどんときたんだろうな。
野々村先生と父の並んだ姿を思い出して見る。似合わない、絶対に。
──印條先生も父さんがあの先生に合うって本当に思っていたんだろうか。穏やかで優しい人のほうが父さんも幸せだと思ったんだろうか。ついでに俺も母さんいなくて寂しいから母性愛がもらえて嬉しいとか考えたんだろうか。なんだか完全に誤解されてるけど、うちの父さんはあの母さんのようなわけわからないきつい性格でないとどうしてもいやなんだよ。俺も疑問だらけだったから周りで考えることはよくわかる。
──それに、野々村先生も清坂氏が言う程いやな性格だとは思わないけど、でも十歳ったら兄弟姉妹でも全くない年差じゃないだろ? 姉と言っても通じるよな。お互いにそれ、嫌だと思うよ。少なくとも俺は全力で逃げる。
野々村先生の性格についてはあえて何も触れないことにする。そこまでよく知らない。頼むから名前で呼ぶなんてことはやめてほしいけれども避けられない以上覚悟するしかない。ただどうやって父はこの修羅場を乗り切るつもりなのだろうか。まずは様子見るしかない。
「誰か、戸、開けて」
木製のお盆に二人分の皿を載せて中のふたりに声をかけた。開けてくれたのはやはり父だった。
「ちょうどいい時間だな。父さんの分はどれだ」
「どれでもいいよ、早く運んで」
父がこまこまと皿を並べる。一方母は手帳を広げてなにやら真剣に考え込んでいる。せっかくのナポリタンも興味がなさそうだ。別に冷めた状態で食べるのは構わないのだが、あとでまずいとかなんとか罵倒されるのだけは避けたい。
「悪いけど、俺の分持ってきたらさっさと食べるから」
断っておいた。母の機嫌を取るのは父に任せることにする。飲み物があるかどうかみたら、ミネラルウオーターと麦茶ポット、牛乳パックが入っていた。迷ったが麦茶と牛乳をそれぞれ用意した。
「上総、悪いけど紅茶入れてくれる」
「食べてからでいいだろ。麦茶で我慢しろよな」
無視してもいいがあとでうるさいのでティーポットで沸かす。父が見かねたのか立ち上がり、
「お前早く食べたいだろ。父さんがやるから座ってなさい」
無理やり部屋に座らされた。母と二人。露骨に嫌な予感がする。
「いただきます」
さっさと手を合わせて食べ始めることにする。出来はまあまあだと思う。母も口をつけながら、手帳から目をはなさない。普段の母にしてはマナー違反の行動ではあるが注意などしない。自分に火の粉がかかるのは避けたい。
「上総、確認したいことがあるのだけど」
「何か」
きた、とうとう母の尋問が始まった。一気に平らげて父の入れてくれた紅茶……見た感じスーパーの特売品としか思えないティーパックだったが味は正直どうでもいい。
「さっき和也くんから聞いた話だけど、あんたうちでピアノ練習しているそうね」
「クラスの人からキーボード借りて弾いてる」
「それだけで間に合ってるの?」
「そのほか、学校の音楽室でピアノ使える時に弾いてる」
「それなりに弾けるようにはなったと聞いたけど、この前の夏休みに練習した『エリーゼのために』くらいは、どうなの」
「よくわかんないけど、音楽の授業で『エリーゼのために』は弾いたよ。それで、俺に決まったようなものだし」
「あんたのレベルで間に合うような合唱コンクールってあるのかしら」
母は不思議そうにつぶやきつつ、だいぶ覚めたナポリタンをフォークに巻きつけた。味に文句を言わないところを見ると、まずは合格点なのだろう。胸、なでおろす。
「和也くんの感想だと、あんたの弾き方には感情がないそうなんだけど、自分ではそこのところどう思ってるの」
「棒のように抑揚がないってことだろ。認めてる」
「クラスの子たちと合わせたりはしたの」
「もう練習始めてる。指揮者とかクラスのまとめ役の人が頑張っているからなんとかなると思う」
「あんた、ほんとのんきねえ。あんなに練習の時は露骨に嫌がってたくせに、自分で伴奏に立候補するなんてどういう風の吹き回しかしら」
「クラスに協力しただけだけど、なにか」
しばらく淡白なやり取りを続けていたが、母は突然きっぱりと、
「わかったわ。それなら上総、明日学校何時に戻る予定?」
質問した。背中がぞわりとする。来るものがとうとう来た。避けたいので逃げる。
「遅いと思う。クラスの人たちと練習するし、俺も音楽室が閉まるまで稽古してるから、夜六時か七時」
それまでしばらく黙っていた父が、余計な口をはさんだ。
「そこまで遅くならないだろう。自転車でだと六時前到着か」
「そういうことね。了解」
父に目配せした後、母はとうとう一番恐れていた言葉を放った。
「金曜まで品山に泊まるつもりだから、そのつもりでいなさいよ」
「なぜ?」
間抜けな質問だとはわかっている。どつぼにはまったこともわかっている。あきれ果てたように、母はまた父と顔を見合わせつつ答えた。
「プロ並みにお上手なお嬢さんたちの中にあんたみたいなあぶなっかしい弾き手が混じってたら、クラスのみなさんが恥をかくわけよ。全く身の程知らずったらないけどそのやる気は認めるわよ。あんたもそれなりの覚悟を持っているわけなら、私の多少の指導は許されるわけよね、わかるしょ、上総」
──許されないって!
食べ終えたあとのナポリタンが胃に持たれてきた。いい油使ってないからかもしれない。上総は紅茶を口に運びつつ、ぼんやりと五本指で数えた。」
──月・火・水・木・金、五日間か。
ひとりのうのうと、すっかり冷め切ったパスタを美味しそうに食べている父を上総は恨みをいっぱいためて睨みつけてやった。結局目的は、母を連れ込む、そこに尽きるというわけか。目的のためには息子も利用する、そういう父なのだから。




