その十五 家族団欒(2)
──どうか母さん旅行してますように、出張してますように、とにかくうちにいませんように。
父が何を考えているかはさておいて、上総は全力でそれだけ祈っていた。
──このままだとなんとなくとんでもないことになりそうな気がする。
何が、というわけではない。野々村先生の予期せぬ登場も絡んで父が頭を抱えているのはよくわかる。なんとかしなくてはならない事情というのも理解している。しかし、そこでなぜ母をわざわざ呼び出す必要があるのだろう。
──父さんのほうだろ、絶対に母さんには言うな、内緒にしろってしつこいくらい箝口令出したくせに今度は自分の方から連絡するわけか。陰でどういうやり取りしてるかはあえて聞かないけどさ、もう何があっても知らないからな。
と、言えない。一番関わっているのは上総なのだから。上総は楽譜を鞄にしまい直した。あの、羽飛と美里のハンズメイドノートと共に。
コンビニから帰ってきた時の、父の笑顔にすべては終わったと感じた。
「よかったよ、母さん今日は家にいる。すぐ来いと言われたよ」
「仕事今日なかったんだ」
万事休す。上総の願いは叶えられそうもない。もはや転がる石の加速は止まらない。
車に乗り込みふかし始めた父に尋ねると、
「運良くな。こういうことはめったにない。母さんの部屋に行くのも久しぶりだし、ゆっくりお茶でも飲むとするか」
──そんなのどかな環境かよ。
母のアパートにはしょっちゅう足を運んでいる。父がついてくることはほとんどなく、たいてい上総ひとりで立ち寄るのみ。部屋の掃除をひとしきり手伝わされたり、荷物運びや大道具・小道具作りにひっぱられたりと体よくこき使われている。
「父さんは母さんの部屋行くことあるの」
「ないな。用事があると母さんの方からいつもうちに来てくれるからその必要がない」
まあ、一応は別れた亭主なのだから、元妻の家を訪れるなんてことは一般的によい感情で見られるものではない。上総もそのあたりは理解しているつもりでいる。
「じゃあ父さん、玄関で待ってるつもりなのかな」
「いやそんなことはない。何も入るなと言われたわけじゃない」
もう父は母のアパートに足を踏み入れてくつろぎたい気持ちで満ち溢れている。断られることは十中八九ないとは思う。でなかったら呼ばないだろう。しかし、あの母のこと、何を考えているかわからない。平気で父を玄関口に座らせたまま、ひとりで紅茶を飲んでいる姿だって余裕で想像できてしまうのだ。
久々に母と会えるのが相当嬉しいのか、スピードも制限速度ぎりぎりまで上げて走っている。母のアパートは青潟市街のど真ん中。家賃はできるだけかけたくないある程度の広さは欲しい、という母のわがままが通った二階建ての木造建物だった。茶色くペンキで見栄えよくしてある。
「それにしてもいつもながらすごい家だな」
車を目の前の駐車場につけ、すぐに降りた。特に作戦会議のような会話もなかったのが気になるが父なりに考えるところはあるのだろう。
「父さん」
「なんだ」
「今日、特に母さんに話してはいけないことってないかな」
「お前もある程度はわかってるだろ。あの先生たちのことは内緒だ。あとは父さんがなんとか説明する。絶対下手なことを言うなよ。まあ母さんのことだからお見通しかもしれないがやれることはやるんだぞ」
「それ、よくわかんないな」
あれこれ話しながら鉄筋の階段を登る。まだ青い落ち葉が一枚張り付いている。錆び付いた階段を昇り最奥の部屋に進んだ。ブザーを父が鳴らす。
すぐに開いた。母が髪の毛を軽くたばにしたすっぴんの状態で戸を開けた。二人の顔を見やり、
「どうしたのよいきなり。ほら、入って」
いつものようにつっとんげんに上総たちを迎えた。
「いきなり悪かったな。休みだったのか」
「そうなのよ、珍しく今日はフリーなの」
母はまだ部屋の中で半袖の紺ワンピース一枚で過ごしていた。久々に入る母の部屋は小奇麗で片付いてはいるのだが、調度品から何から何まで実にシンプルすぎる。殺風景といった方がいい。いわゆる華やいだ雰囲気というのがないとは言わないが最小限で、玄関に飾る花もない。そのまま部屋に入るとそこにはカーテンを作り替えたであろうベットカバーに覆われた折りたたみベッドが潜んでいた。こたつテーブルが真ん中にでかでかと居座っている。テレビはない。その代わり小さなラジカセとレコードプレーヤーがセッティングされていた。
「随分ものを減らしたね」
「そうね、実家にだいぶ送ったから。必要だったら送ってもらってるわよ。和服はほとんどそんな感じ。でないとタンスにうもれてしまうから」
たわいもない話を両親交わしている。とりあえず父も部屋に入れてもらえたところで、出された麦茶をそのまままずは飲むことにする。母が箱ごと菓子を持ってきて、
「この前手伝いにいった会の蒔物でもらったバウンドケーキがあるし、それでも食べる?」
遠慮なく箱から取り出し、ナイフで切り分けた。ざっくりと三等分。大きい方はもちろん母が、次に父が、上総は一番小さい分をもらうことにした。これもいつもの立村家のルールだ。
しばらく団欒らしき穏やかな雰囲気に包まれ、それぞれケーキを平らげて夕暮れ色が窓から差し込んできた頃、父はおもむろに切り出した。
「ところで、沙名子さん」
父はいつも母を「さん」付で呼ぶ。もちろん返す母も、
「なんでしょう、和也くん」
「くん」付で返す。正直、子どもの前でしていいのかどうかが迷うところだが日常である以上しょうがない。
「あんたたち男ふたりが雁首そろえていきなりうちに来るなんて言い出すんだから、何かあるんだろうなくらいは思っていたわよ」
「さすがですな、沙名子さん」
父は両手を組み、こたつテーブルの上に乗せた。足は伸ばしたままだ。上総だけ無意識に正座している。これも癖だ。母の前ではくつろぐのがまだ苦手だ。
「実は、沙名子さんに頼みがあるんだ」
「なあに、早く言いなさいよ」
じれったげにテーブルを指で叩く母に、父はいつもののんびり調子で告げた。
「今週だけ上総の、ピアノの練習を見てやってもらえないかな。実はこいつ、学校の合唱コンクールでなぜか伴奏を引き受ける羽目になってしまい、今いろんな先生の手助けをしてもらってなんとか形になるところまできたんだよ。ただ、どうもな、ひとつ突き抜けないんだよ」
──ちょっと待てよ、父さん、まさかこんなところで何また。
あれだけやめてくれと頼んだはずなのに、父の考えは全く読めない。はっと頭が熱くなるのを覚えた。何ふざけたこと言い出すんだろう? もう印條先生の手も借りてだいぶ仕上がったと褒めてもらったばかりだというのに、何をいきなり? まさかそれが、父の計画だったのか? でも何が目的で?
母の反応は予想通りだった。目を見開き、まじまじと上総を見つめながら、
「合唱コンクールの伴奏? 上総、あんたが?」
──母さんそうすっとんきょうな声出さなくたっていいだろ!
「父さんの言う通り」
なぜこんなところで父の思惑が読み取れず、ただ母の反応は予想通り。上総は頷き、改めて正座の形を作り直した。
「クラスにピアノ弾ける子いなかったの?」
「いたけどいろんな事情で担当できなくて、俺にお鉢が回ってきた」
混乱している頭の中を気取られぬよう、少しぼんやりした感じで答えてみた。
「曲は?」
「自由曲が『モルダウの流れ』、課題曲が『恋はみずいろ』」
「それ、課題曲と自由曲逆じゃないの? なんなのその選曲誰が決めたの」
「学校の先生たち。みんなそれ言うけど、正真正銘この順番」
母が額に手をあて、深いため息を吐いた。父を睨むようにして、恨み言をば。
「なんで和也くん、もっと早くそれ言ってくれなかったのよ。本番いつ」
「金曜日。校外の人には公開しない形式だから、学校の中だけで終わる。父さんいうほど大げさじゃないよ」
「上総、あんたもうほんっと、なんにもわかってないのね」
この馬鹿息子!くらい罵倒されるかと思っていたが、母にしてはおとなしい反応だった。
「詳しい話、聞かせてちょうだい。今日どうせ車でしょ。夕御飯も一緒に食べましょう」




