その十四 印條先生の提案(4)
出されたビーフシチューはたぶん香ばしかったのだろうし、味も格別だったのかもしれない。上総にはそのことすら全く感じられなくなっていた。ただ父と野々村先生の向かい合う姿を横目で見ながらひたすら食べまくるのみ。蓄えている、といったほうが近い。
「そうかい、やはり私の思った通りだったよ、なあ」
印條先生は笑顔で奥さんと語りつつ、ふたりを見やる。満足げなその表情、してやったりといったところか。話の流れからしておそらく父は必死に断っていたに違いない。あれだけ露骨に訪問前ぴりぴりしていたのも、今この場面を薄々予想していたかもしれない。悪いがリアルに思い浮かべると再現されるというどこかの説もあるし、これは父の完敗としか言い様がない。
──野々村先生、一体何考えてるんだろう。
時折野々村先生は上総に軽やかな笑みを送ってくれる。何が目的なのかよくわからないのだが、とにかく楽しげなのだ。上総の知る限り「立村」という姓はそうそうあるものではないし、しかも青潟大学附属高校在学中の息子がいる三十代半ばの男性という特定しやすいターゲットにまさか気づいていなかったとは思えない。
──この見合い話、いつ頃から仕組まれてたんだろう。
和気あいあいと父との会話で盛り上がっている中、上総ひとりはひたすら味のしない豪華な食事に没頭しながらひたすら考えるのみだった。大事件だ、一大事だ、どうしよう。
──父さんに話が来たのは先週あたりかな。とすると野々村先生への話も同じくらいか。印條先生は前々からうちの父さんと誰かを見合いさせて結婚させたくてなんなかったのか? そのくらい気に入られてたってわけか。
今だに印條先生の正体が不明なままだ。父と仕事の関係で付き合いが始まったらしい。だが具体的に何者なのか……たとえば、どこかの有名な社長さんだとか、代議士だとか、密かに名の知られた芸術家なのか……はとんと見当がつかない。
さらに言うならなぜ、野々村先生と印條先生はつながりがあるのだろう。このあたりの事情も今だ話題には上がってこない。まさか、エレクトーンを教えてくれた先生だったとかいうことはないだろう。それとも学校の恩師だとか。
──しかし父さん、礼儀わきまえてるな。
せっかくご相伴しているわけだから、いくら気の乗らない見合いの席であっても軽やかな話題を提供するよう父はつとめている。野々村先生も適度に相槌を打ちつつ穏やかに微笑んでいる。いかにも見合いの席の令嬢といった面持ちだ。学校での教師らしさは感じられない。いや、もともとこの先生は教師という匂いが薄い人なのかもしれない。そんな気がする。二十五歳、ちょうど上総と十歳違い。
「数学を専門になさっていらしたのですか、意外、と言っては失礼かもしれませんが」
「みな、そうおっしゃいます」
──やはりこの先生謎過ぎる。
上総には一生縁がないであろう言葉を、野々村先生はさらりと語る。
「大学でも専門で学ぶつもりでおりましたが、あるとき突然、日本の古典の面白さに気がつきました。どの作品が、というわけではないのですが、数式と日本古来の言葉がイコールに感じられる瞬間がございました。その時に自分の進むべき道を見つけたような気がします」
──あのわけわからない方程式と古文とどこが繋がってるんだろう。
狩野先生もこの辺理解できるのだろうか。少なくとも上総にはついていけない世界ではある。古文が数列で綴られるおぞましい物語だったとしたら……いや、そんな世界で生活することなくて神様ありがとうとひたすら思わざるを得ない。上総は平らげた皿にスプーンを音たてないように静かに置いた。しかしかすかにかすれてしまったのもあって、大人全員からの視線を受けてしまった。まずいまずい。
「立村くんには、今ひとつぴんと来ないかしら」
野々村先生がいたずらっぽく笑いかけた。やはり馬鹿にしているんだろう。いじけたくても引っ込めない。曖昧にごまかす。
「申し訳ありません。僕の勉強不足です」
「そんなことないわ。この場でお伝えするのもなんですが、実は私、上総くんの個人面談担当として夏休みから親しくお話させていただく機会がありますの。そのこともあって、本日はお父様とゆっくりふだんの上総くんの様子を伺えるのではと、楽しみにしてまいりました。先生にはお伝えせずに失礼いたしました」
「なるほど。すでに上総くんと弓絵さんとはお見合いが成立していたというわけだね」
もう、穴に潜りたいったらない。しかしテーブルの下にしゃがむことすらできない。
「これはまた、改めてお詫びをせねば。不出来な息子で学校のみなさまには多大なご迷惑をおかけしているのは重々承知しております。お恥ずかしい限りです」
少しほっとした表情がよぎったのを上総は見逃さなかった。これは、たぶん、きっと。
「いいえ、そんなおっしゃらないでください。むしろちょうど良い距離で上総くんと知り合えたのもきっと何かの縁かもしれません。ただ、ひとりの生徒としてではなく、独特の感性を持つ人として意識することができて、私、本当に嬉しいんです」
──ちょっと、待て、野々村先生。今、なんかとんでもないこと、誤解招くようなこと口走ってるよ。そんなに自分の見合い相手を持ち上げたいのかよ。悪いけどうちの父さんは俺のことをとことん鼻で笑っているからちっとも効果ないよ。それに、野々村先生ちょっと、絶対、これまずいよ!
「どうしたの?」
また野々村先生がふんわりと微笑む。もうこの人の休日時間に教師のエキスはない。
ただひたすら焦る。
──うちの父さんの好みでないことはわかってる。絶対その点は大丈夫だ。今も最低限の礼儀でもって野々村先生に恥をかかせないよう振舞っているけれど、言い寄られたら露骨に振りたいタイプだよ。野々村先生は。
少なくとも「数列と古文が同じ言葉」という感性にはきっとついていけない。
その他、野々村先生の語る言葉には、隣で聞いている上総も一瞬反応に悩む部分が多々出てくる。第一、上総のことを「独特の感性を持つ人として意識」というのは何を意味しているのだろう。確かに担任ではなかった。個人面接の担当でこれからいろいろお世話になることは理解している。生徒の教育のことも案じて、今回見合い話にかこつけて父と接触しようとしたのだろうか。しかし今日は野々村先生にとってもプライベートタイムだろう。いくら青大附属の教師たちが滅私奉公するタイプの人々が多いことはわかっているけれど、いくらなんでもこの場において、ということは考えにくい。
──いや、何よりもどうするんだよ明日から!
一番恐ろしいのは、あす以降学校でどう振舞えばいいのかという現実的な問題だ。
ここでは「野々村さんのお嬢さんである弓絵さん」で語っていればそれですむ。十歳というとかなり年上ではあるけれども姉弟として通じない年齢でもないしまだ自然に振る舞える。しかし一歩学校に入れば、野々村先生は一年B組の担任でかつ、上総にとっては個人面接担当教師。教師ということは上総の中学時代やらかしたよしなから始まり最近麻生先生から流れてくる顰蹙物の現在進行形出来事も把握しているに違いない。
さらに言うなら、
──清坂氏の担任なんだよ、この人は!
背筋が寒くなる。美里から毎日の静かなバトルについてはよく聞かされている。えこひいきが凄まじく、外部生である静内菜種ばかりを可愛がり、美里に関しては「男子にうつつを抜かしているふしだらな娘」……美里談……のレッテルを貼っているという。上総からすると確かにこの先生、えこひいきしやすいというか個人の感情に流されやすいタイプなのではと思う。自分がひいき対象にされているからなおさらだ。美里の観察は概ね当たっている。しかし、
──清坂氏の担任、ということは、中学時代俺といろいろあったということも知ってるだろうし、学校でちょくちょく話をしていることも知ってるだろうし。いやもしかしたら清坂氏が不良になったのは俺のせいだとか勝手に想像してたりしないか?
美里が不良化なんてありえないにも程がある。しかし野々村先生の脳内ではそんな展開が繰り広げられているのではないだろうか。同時に、そんな問題児である美里と、なぜか上総とがそれなりの関係だったということを果たしてどう認識しているのだろう。
──どちらにせよこれ内緒にしないと絶対まずいし、いやこの縁談自体ぶっこわさないとみんなが不幸になるよ。父さんは母さんぞっこんで野々村先生眼中にないし、野々村先生は真面目な人だから下手な振られ方したらきっと傷つくよ。印條先生たちも父さんや野々村先生のこと可愛がってるだろうからくっついてほしいだろうけど、下手にご縁がなかったことにすると人間関係に傷が付きそうだし。それに俺はどうするんだよ。あす以降どうやって野々村先生に挨拶すればいいんだよ。見合いが流れたあとも知らん顔して数学教えてもらえってのか? 俺はそこまで鋼の心臓持ってないよ。それに、なによりも。
げに恐ろしきは美里のこと。
──清坂氏にこのことばれたらどうするんだよ。さすがに今回は縁切られるぞ。




