その十四 印條先生の提案(3)
息子よりも父の動揺が激しく、上総も自分の気持ちを把握する余裕がなかった。
「これからテーブルを支度するので少しここで待ってなさい。上総くん、もう一度ピアノを弾いて見るかな」
「ありがとうございます。お願いします」
印條先生がピアノの蓋を開けていったん部屋から出た後、上総はソファーからピアノ前の椅子に移った。じっと前かがみになり父に問いかけてみる。
「どうするつもりなんだよ」
黙っている。畳み掛けるしかない。
「俺もう知らないよ」
「お前にだって関係あることだろう。お母さんと呼ぶかもしれない人なんだぞ」
「そんな人、迎えるつもりなんてないくせに」
「子どものくせに黙ってろ」
──こんな時にいきなり子ども扱いかよ。
上総はソファーに座ったままの父に背を向け、ピアノの鍵盤に指を置いた。ほぼ暗譜が完了している「恋はみずいろ」を思うがままに弾いてみた。父の言う棒のような弾き方ではないと思いたい。少なくとも自分はまともに表現できたと信じている。弾き終えてからもう一度父に向かい、座ったまま詰問した。
「これ、前から話あったってこと?」
「お前の想像に任せる」
「けど今日の話は、初耳なんだよな。父さん全然そんなこと言ってなかったし、もしそうならとっくの昔に俺をここにおいて脱走してたよな」
「失礼なこと言うな。礼儀というものがあるだろう」
やり取りを続けつつ、上総なりに知りたいことを突き詰めていく。
「けど印條先生話してたよ。父さんに話をしたって」
「それは流れだ、話の綾だ」
「じゃあ聞くけどさ、父さんなんで今回印條先生のところに連れてこようとしたわけ? こういう裏事情があったかどうかは知らないけどさ。最初別の先生のところに行くはずだったのに」
「大人にはなかなか難しいことも多いんだ。それに結果から言うと先生のおかげでお前も恥をかかずに済みそうじゃないか。それはお父さんに感謝すべきことじゃないのか?」
「感謝は、まあしてる。ありがとう」
認めるべきことはここで認めておく。
「でもさ、いきなり過ぎるだろ。単刀直入に言うとこれから父さん、その人とお見合いするわけだろ? しかも子連れで」
「そんな大層なもんじゃない。単純に食事するだけだ。それ以上に何がある」
「そうか、食事だけか。じゃあ食べたあとこれから付き合うとかそういう気はないって考えていいんだよな」
「当たり前だろ。うちがどういう家族なのかよくわかってるだろうが! それと上総、お前も鬼の首獲ったようにいばりくさるなよ。全く、そっちの方は奥手のくせに知ったかぶりするんじゃない」
「別にそんなつもりないけど。父さんの被害妄想だよ絶対に」
「とにかくだ、上総」
父はつかつかと上総の前に立ちはだかり、見下ろした。まさに鬼の形相だった。
「これからどういう話になるかわからないが、まかり間違っても母さんのことを悪口言ったら海に叩き込むからな。もちろん礼儀は守れ。余計なことはしゃべるな。あとは父さんがなんとかする。それとだ」
「まだ要求あるのかよ」
「一番大切なことだぞ。いいか、このことは」
しゃがみこみ、上総の頭に手をかけ、目と目を合わせて睨みつけた。
「口が裂けても母さんには話すなよ」
──これはもう、余計なこと考えなくてもなんとかなるな。
最初から父が初対面の「お嬢さん」なる人によろめくとは一瞬たりとも思っていなかった。なにせあれだけ母に執着している人だ。憎み合って別れたわけではなく、単純に上総の教育のためというわかりやすい理由ゆえの別居。なんとなくだが上総が成人して品山の家を出たら即、よりをもどすような気がしていた。
しかし、他の人たちからするとそんな悠長に構えている問題でもなかったのだろう。現に印條先生は父に向かい、母以外の女性を後添いに勧めようとしている。父も、当然上総も一切望んでいることではないが、一番大切な思春期の息子をおっぽりだして逃げ出した母に対する印象がよくないことは想像の範疇にはある。
しかしだ。
──人間、会ってみないと何が起こるかわからないよな。
一抹の不安が無きにしも非ず。父の好みにぴたりとあったいわゆる母によく似た女性をあてがわれたとしたら。しかも上総とも意外と相性があったりしたら。
──絶対はありえないんだよな。
いや、母タイプの女性は断じて上総の好みにあらずだ。あんな極端な性格の人はこちらからお断りしたい。しかし、父の好みがたまたま上総ともぴたりと合う可能性だってある。偶然がすべてを支配する、が上総の十六年生きてきた真理である。
上総は次に「モルダウの流れ」を弾いた。やはりこちらの曲が自分の波長と合う。
印條先生の奥さんに案内され、覚悟を決めた表情の父に従い食堂へと向かった。
料理の美味しさは折り紙つき。実は、ここに来る楽しみの半分はこのランチにあるのかもしれない。見事に餌付けされている。
「上総くんが喜んでくれるかしらと思いましてね、昨夜からしっかり煮込みましたのよ」
「ありがとうございます。いただきます」
真っ白い皿に盛りつけられたビーフシチューをひとすくい口にしようとするが父に止められる。これだけ香ばしい空間の中で空腹を耐えろという方が拷問だが、事情が事情だ、しかたなくこらえる。印條先生もきちんとしたスーツに着替えている。ただ事ではない雰囲気が漂っている。
「そろそろだね」
「恐れ入ります。あの、お差し支えなければお伺いしたいのですが」
父がおずおずと尋ねた。
「本日ご一緒させていただくお嬢さまは、先生とはどのようなお知り合いで」
当然知りたいことだろう。相手がいないうちに確認したいのも当然だ。印條先生は笑った。
「やはり気になるのかね」
「それはもちろんです」
「気持ちはあると見たが、そういうことなのかな」
「粗忽者ゆえに失礼があってはと」
──情報、そう言えばほとんどゼロだ。
相手の女性に関しては一切教えてもらっていなかった。お見合いの形式はよくわからないが、一般的イメージだと台紙付きの写真を交換して好意を持てば、というパターンだろう。父の言動からしてそれがありえないとなると、全く未知の状態で接することになる。これは落ち着かない。父に同情するしかない。
「いやいや、心配めさるな。立村くん、紹介などする前にほら、いらしたよ。これからお連れするから、じっくりと語り合うがよい。上総くんもお父さんの未来を思うのなら、ここで笑顔でサポートするべきだな」
──すべき、なのか?
どう見ても父にはノーサンキューのようだが。印條先生と奥さんがふたりでお迎えに上がったところでふたり、顔を見合わせ大きなため息を吐いた。あとはいかにして「お嬢さま」をお迎えすべきか。どうやって失礼なく「ご縁がなかったこと」にすべきか。難しい問題だ。
扉が開いた。父とふたり立ち上がり、反射的に深い礼をした。顔を上げた瞬間自分の目に入った女性が誰かを認識し、全身が凍りついた。
「あ、あの、なぜ」
「上総どうした」
「あ、いや、その」
小声なので気づかれなかったと思いたい。笑顔を向けることはできなかった。その「お嬢さま」はグレイの品良いワンピースを身にまとい、静かな笑みを湛えてふたりを見つめていた。
「紹介するよ。先日お話した、昔の仕事の縁で懇意にしている立村和也くん、そして息子の上総くん。高校一年、君も彼のことはすでにご存知かもしれないね」
──ご存知もなにも、もう、知るだけ知ってるよ、この人。
今度は自分があわくっているのを父の隣で必死にこらえるしかない。まさか、こんなところで、なぜ。
「申し遅れましたが、私、野々村弓絵と申します。青潟大学附属高校の教師をいたしております。上総くんのことはいつも学校で、気にかけておりました。これからもなにとぞ、末永きお付き合いをお願いいたします」
野々村先生……もとい、弓絵さん……は父への挨拶を終えたのち上総に優しく微笑みかけた。




