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その十四 印條先生の提案(2)

繊切の音色 その十四 印條先生の提案(2)


 とりあえず、上総の意思は固まっている。

 ──父の許しがあれば、ピアノをこのまま続けたい。

 母に教えてもらった時には感じなかったやる気のようなものが、今回の件を通じて奥底から湧いてくる経験ができた。またたくさんの友だちや先生たちを通じて、今まで見えなかったものが見えてきたり、クラスメートたちの抱えている事情などにも触れることができた。一番驚いたのはこずえ宅での霧島さんとの再会だが、今後弟と接していくにあたっての示唆も得た。もらえるものすべてぶんどって来たという感じがする。

 ──ただ月謝がな、どうなるんだろう。父さんもまさかただで習わせるなんて甘えたこと考えるわけないし。

 気持ちはあるが、下世話な現実との折り合いをどうするか。

 それと今語られつつある、父と印條先生との未知なる会話。

 上総は息を呑み、耳を傾け続けた。


 厳しい口調ではあるが叱りつけているわけではない。印條先生はほとんど這い蹲りそうな父の顔をじっと見据えつつこんこんと諭している。

「立村くんとは実に長い付き合いだ。君が二十代の頃からだから、もう十年以上になるわけか。上総くんの年齢よりも二年くらい少ないだけか」

「おっしゃる通りです」

「あの頃から君たち夫婦の教育方針を事あるごとに聴かせてもらっていたが、正直なところ私としては危なっかしさを感じていたよ。感じただけではなく何度か直接伝えたこともあったね」

「恐れ入ります」

「幸い、上総くんはこうやって青大附属中学に合格してたくましく青春を謳歌しているようではあるし、それはそれで素晴らしい。だが、本来思春期から青年期に移り変わる時期になぜ、母となる人がそばにおれないのか、それが私には何度考えても腑に落ちない」

「それもごもっともです。一般的な判断でないことは僕も承知しております」

 へりくだりすぎ、そうつっこみたいが父なりに考えがあって叱られていることなのだろう。我慢して聞く。

「立村くん、君の話だと、君のパートナーさんの考えは思春期こそ母離れをすべきということだったね」

「その通りです」

「もちろん、過剰な母子癒着は望ましいものではない。ある程度の年齢をすぎた段階でそれは考えねばならない。当然のことだ。しかし、君がその判断を下したのは上総くんが十二歳、と伺ったがそうなのかな」

「仰せの通りです」

 ここまで印條先生は父に、上総の教育方針について逐一確認をし続けていた。この点は当事者の上総も思うところがある。中学以降母が家から出て行ってくれた本音を言うと、非常にせいせいしたというものがあったりもする。もちろん口に出せはしないが。たまに家に泊まり込みに来るとたいてい上総と母との口論が繰り返されるはめになるし、気分も決してよくはない。印條先生からすると、母がいなくて寂しがる息子の気持ちを思いつつ語っておられるのかもしれないが、心配ご無用とあっさり流したい本音もあるわけだ。

 父は思慮深く、そっと切り出した。

「ただ、お言葉を返すようではありますが彼女、つまり上総の母にあたる僕のパートナーですが、戸籍から外れて以降も家族というつながりを捨てたわけではありません。いわゆる、一般的な家族の形とは異なることは承知しておりますが、それなりに良い関係を続けてきましたし、彼女の判断も息子を見れば確かに正しかったのではないかと思うことが多くあります。同年代の青年たちと比較すると、親馬鹿かもしれませんが身の回りのこともきちんとできますし今後万が一僕の身に何かが起きたとしても、おそらく食いつなぐことはできるのではというところまでは育てた自負があります」

「立村くん、君が努力をしていなかったとは決して思わない。君は全力を尽くして上総くんの教育に力を注いできたしその姿は私も身近で見つめてきたからな。だが、やはり何かが足りないというのも、今回上総くんと接してみて感じたことのひとつではあるよ」

「それは」

「先週のレッスンでも君は感じたはずだよ。上総くんは『モルダウ』のような曲は十分感情入れて弾きこなせたが、『恋はみずいろ』のような純粋な愛情を描くような曲については今ひとつ物足りなさが残った。そこの感情がまだ育っていないようだよ」

 ──なんだよそれ、いや、それは違う、絶対違う!

 叫びたいのだが、父が上総の反論気配を察したのか手で制する。

「親離れが必要な年頃とは言うけれども、本来必要な時期に無理やり引き離されてしまった以上、どうしてもいびつなものが残ってしまうのは仕方ない。私は決して君のパートナーさんが判断したことをすべて間違っているとは思わない。だが、ずっと密接に毎日顔を合わせて行う教育とその考えとは比較しようがないものなのではと首をひねらざるを得ない」

 印條先生は重々しくそこまで語り、コーヒーを口に運んだ。


 ──ちょっとそれ誤解だって!

 印條先生の言葉には思い切り楯突きたい。上総も過去いわゆる母子家庭、父子家庭、もしくは父母揃っていてもいろいろ問題を抱えている家庭の友だちと出会ってきている。立村家のように母の意思によってわけのわからない形で運営されている家族は珍しく、多くは複雑な人間関係のもとに置かれている。印條先生のお言葉通りであれば彼ら、彼女らはみな問題児化していないとまずいような印象があるが、少なくとも上総の知る限りみな自分なりに問題を消化しながら一歩一歩進んでいる。もちろん見えないこともたくさんあると思うしそれは上総も知らないことだらけかもしれない。だが、母がいないというだけで自分を「かわいそうな子ども」扱いされるのはたまったものじゃないと思う。ずっとそばにいなくても、たまに現れてさんざんこき使われたりするとしてもそれはそれ、自分にとっては自然なものだった。

 ──面倒な家庭事情といえば天羽どうしてるのかな、霧島さんもあいつが弟ということでいろいろ面倒そうだし、あっそうだ、古川さんのうち結局お父さんっているのかな、いるんだろうな。

 思いつく限りの友だちを思い浮かべつつ、心の内で思い切り首を振った。

 隣で父はなんとかして反論したそうに唇を噛んでいる。だがうまい言葉が見つからぬようではある。その隙を突いて、印條先生はお説教を再開した。今度は上総に対してだ。


「上総くん、君は今ひとつピンと来ないだろう? 君の顔を見ているとだいたい想像はつく。そんなことない、どこが哀れまれる必要あるのか、とでも思っているのだろうね」

 ──なぜ、そう心を見透かすんだろう。

「自分なりに楽しい日々を送っている自覚もあるだろうし、無理にお母さんがそばにいる必要もない。そう割り切っているだろう。君くらいの年頃であればそれはごく自然なことかもしれない。だがね、君はおそらくだが無意識のうちに母性を求めているはずなんだ。無意識、というところが大切だよ」

「いえ、僕は特にその、なんかその」

 言い返そうとするが父に制される。頼むからこれ以上泥沼にするな、といったメッセージと読んだ。印條先生は続けた。

「わからなくていい。なくて普通だったものは与えられるまでその価値がわからないものだ。そしてもうひとつ聞きたいのだけれども、上総くん、君はお父さんがお母さんのいない中、どれだけ孤独だったかを考えたことはあるかい」

「いいえ、特にありません」

 よくぞ言った、そう言いたげな父の眼差しで判断が間違っていないことを知る。

「それもまだ気づいていないからだね。君たちは私からするとまだまだ子どもなんだ。立村くんが僕の息子とすると、上総くんは孫にあたる。まだ、あがいていい年頃なんだ。そしてもっと幸せになってもいい、満たされてもいい年頃なんだよ。君だけではなくお父さんもね」

 相槌打つにも迷う上総に、印條先生は留めを刺した。

「今日は上総くんもいることだしちょうどいい。先日説明したお嬢さんが昼前ここに立ち寄っていただけると連絡があってね。ぜひ、この機会に食事でもどうかと思うんだよ。家内もすでにポークシチューを煮込んでいてそろそろいい匂いがしてくる頃だ。美味しいものでも召し上がりながら、まっさらな気持ちで語り合うのもよいのではないかな」

「先生、あの、それは申し訳ございませんが!」

 目を見開いた父の動揺ぶりたるや、上総の知る限りほとんど見たことのないものだった。激しく首を振り、どもりながら何度も、

「いえ、僕は、今はまだそのようなことは、いえ、先生が僕のことをお気遣いいただいた上でというのは重々承知しておりますがしかし、いえ今その気持ちには、そして息子も」

「いや、そんな固くしく考えなくていいんだよ。最初はお友達という流れでもいいだろう。それに上総くんともきっと、話が合うと思うよ。しっかりした、しつけのきちんとしたお嬢さんだしね」

 もう父の哀願など全く屁でもないかの如く、優雅に印條先生はいなした。半分絶望の表情を浮かべ頭を抱えた父をちらと見やり、上総も心の準備をした。まだ現実味がないから、少なくとも今は父より落ち着いていられる。まさか、いやまさか。


 ──どう考えたって、これ、父さんの見合い話だろ?


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