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その十四 印條先生の提案(1)

 印條先生宅への最後のレッスンに向かう車の中で、上総は一言も口を利かなかった。父に苛立っていたわけではないし、朝ごはんも普通に食べた。ぴりぴりしている父の扱い方も三回目になると上総側もだいぶ慣れ、できるだけ余計なことを口にしないようにしてきただけだった。ただ、どうしてもそれ以上のことができなかった。

 海辺の道をひた走り、印條先生宅へ到着した時に初めて声を掛けられた。

「どうした、車に酔ったのか」

「なんでもない」

 楽譜をしまった鞄を抱え、上総は車から降り立った。初めて訪れた時よりも海風は激しく、もうそろそろジャケットかコートが必要となりそうな季節だった。もともと気温の低い街ではあるけれども、想像以上に冷え込む。


 いつものように案内され、過去二回と同じようにレッスンが行われる。

 印條先生は上総の演奏を二曲連続通しで聴いた後、

「もう、クラスのみんなと合わせたりしたのかな」

 穏やかに尋ねてきた。

「はい、何度か歌と一緒に演奏しました」

「そうか、それならよかった。して、その感想は」

「難しい、です」

 正直な感想を述べざるを得ない。自分で気持ちよく演奏しているのと、指揮者を見ながら必死に合わせるのとではわけが違う。肥後先生が「ソロと伴奏とは違う」と説明してくれた意味がなんとなく理解できたような気がしている。

「でも、弾くことは弾けるだろう」

「はい。金曜が本番なので、全力尽くします」

 これも嘘ではない。昨夜も帰ってから、夜中までキーボードに向かっていた。車の中でしゃべりたくなかったのはその眠気が影響していただけだと思う。

「細かいところはおいおい伝えていくが、よくがんばった。この三週間君がどれだけ努力したかはよくわかったよ。特に先週話した『恋はみずいろ』だけれども、ずいぶん雰囲気が変わったよ。盛り上げ方のポイントを掴んだようだね」

「はい、自分なりに勉強したつもりです」

 これも正しい。上総なりにいろいろな人……関崎、美里、こずえ、霧島さん、そして杉本梨南……の伴奏を勤めていくうちに、どういう風に音を載せていけば一番引き立つかが無意識のうちに感じ取れつつあった。もっとも杉本の場合は「いかにして突飛な旋律に引きずられないようにするか」が重要課題だったが。

「たくさんの友だちに協力してもらって伴奏させてもらい、いろいろ参考にしました」

「実際生の歌声で練習したということなんだね」

 ここで父が口をはさんだ。

「ありがたいことに、上総にはいい友だちが本当にたくさんおります」

 ──まあ、否定はしないよ。


 細かなミスやペダルの踏み方、同時に伴奏を行う際の心構えなどいろいろ説明を受けるうちにいつのまにか一時間経つ。印條先生の奥さんが暖かいコーヒーを三人分運んできてくれたのをきっかけに一旦休憩することにした。

「できの悪い息子ではありますが、こうやってみると三週間でずいぶん変わるものですね」

 父がむかつくことをしみじみとつぶやく。上総が隣で睨んでいるのも知らぬふりで、

「最初はこういったらなんですが、コンクールの後担任の先生のところへ菓子折り持って謝罪に行かないとまずいんじゃないかと真剣に考えておりましたが、先生のおかげでなんとか最低限の仕事は果たせそうですね。いやいや安心しました」

「もともと上総くんは筋がいい子だし、飲み込みも早い」

「恐縮です。お世辞にも器用な子ではないのでいつもこういうイベントがあるたびはらはらさせられます。卒業式の英語答辞を仰せつかった時も、上総ひとりのほほんとしている中、僕ひとりでただ胃薬飲んでましたよ」

 ──猛烈に失礼なこと言ってるなこの人。

 英語答辞はこういってはなんだが、お茶の子さいさいだったと言い切ってやりたい。自分で英作文すればまた話が変わったかもしれないが所詮出来合いの原稿だ。大したことじゃない。

 印條先生は父の謙遜を楽しげに聞きつつコーヒーカップを持った。

「たった三回だし私もやっつけ仕事に近いことしかしていないわけで、正直上総くんには申し訳ないことをしたと思っているんだ。本当だったらもっと細かく手直しをしたり、曲もきちんとした練習曲を選んで指の訓練をしたりとか、すべきことはたくさんあるんだよ」

「いえ、それは」

 父がまたへりくだる様を眺めつつ、上総もコーヒーカップを手にし啜った。やはり美味しい。緊張する空気から開放されたといえばいいのだろうか。もちろん印條先生には感謝してもしきれない。やはり第三者からきっちり指導される時間というのは価値があるものだと実感する。

「そこで提案なんだが、立村くん」

 印條先生は膝を打ち、コーヒーカップを置いた。父がまたぴくりとする。

「もし、君と上総くんがよければの話なんだが、これから先も上総くんにここまで通ってきてもらいたいんだ。もちろん今後は上総くんひとりだけでもいいし、都合のいい時間帯に変えてもらってもいい。ただ、せっかくここまで弾けるようになったのなら、もっとここからレベルを上げていくのも悪くないのではないかと思うんだ」

「え、先生、そんな、もったいないことを」

 またあわあわと口を動かす父にはお構いなし、印條先生は上総にも語りかけた。

「いわば、この三回は体験レッスンと受け止めてもらいたいんだよ。私も今までピアノの弟子をとって教えるという経験をしたことがなかった。君のような少年を丁寧に指導するということも私にとっては初めてのことだったんだ」

「恐れ入ります」

 頭を下げて様子を伺う。上総もこの先の展開が全く読めない。たよりの父が泡を食っている状態なので自分でなんとかしなくてはならないということだけはなんとなくわかる。

「だが、教える経験をしてみて改めて気づいたのだが、教えるというのは自分で再度学んでいくこととイコールなのだなという当たり前の真理に行きあたったというわけだ。自分ではごく当たり前のように弾いていたことが、教えてみると伝わらない。なぜ伝わらないのかを考えていくと実は自分で理論的に理解していなかったことに行き当る。上総くんとのやり取りの中で私は本当にたくさんのことを学ぶことができた。師匠と弟子、これは教えるという行為によって互いを高め合うということなのだとね」

 ──そうなのか?

 今ひとつぴんと来ないが、とにかく結論はひとつのようだ。上総も静かに聞くしかない。

「君の一存で決めてもらいたいが、私としてはぜひ、もう少し君のピアノを聴いてみたいし、本当はもっと高いレベルで弾くことができることに気づいてほしいと願っている。もちろんプロを目指すとか音大に行くとかそういう話ではないけれども、趣味であればあるほどある程度の技量を得ることによって見えてくるものがたくさんああるはずだからね」

 ──どうしよう、ほんと、これどうしろって。

 迷うよりなにより、自分で判断すべき内容なのだろうか。

 ──第一月謝どうするんだよ。払うのうちの親だぞ。

 心を読み取ったのか、印條先生はすぐに触れた。

「月謝などは必要ないよ。それこそ週一回程度通ってもらえればそれでいい」

「そういうわけにはいきません!」

 また父が慌てて叫ぶ。

「先生のようなお忙しい方に、うちの息子のようなこんなお世辞にも出来のよくない奴の指導などということをお願いするとは、本当に心苦しく」

「いや心苦しいならぜひ、私の希望を叶えてもらいたいな、そうだろう、立村くん」

「しかし、上総は今まで、それなりに自己流で学んできておりますし」

「そこが問題だよ、立村くん」

 いきなり印條先生は厳しい口調に変わって父を叱りつけた。

「自己流には限界がある。芸事については最初できるだけきちんと真似て学ぶべきものだよ。こういっては失礼だが、上総くんにはおそらく君の前の奥さんが仕込んだものが残っているが、それによって悪い癖がついてしまっている。せっかくよい感性を持っているにもかかわらず、その癖によって上にいけないのは本当にもったいないことだよ」

「ですがあの」

「立村くん、これから君にも話したいことがある」

 

 一気に空気が変わった。コーヒーの色が空気に混じったようだった。

 ──なんだよこれ、いったい何が起ころうとしてるんだか。

 もう上総のピアノレッスン延長に関しての話題ではなさそうだった。息を潜めているしかない。

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